第3話 異変
家族全員で一週間ごとに検査。それまでに異変があれば連絡の予定であったが、異変は四日目、いや既に初日から始まっていたのかも知れない。
退院初日、吉次がご飯を三杯も食べたのは、検査入院であまり食べられなかったから、あるいは久々の家の食事が嬉しかったから、それとも若くなった体がそれに見合った食欲を示したから、…だから異変とまでは言えないのではないかと、みよ子は考えていた。義一と知名、この二人は特に何も考えていなかった。
だが翌日も、その次の日も、食欲は衰えるどころがどんどん増していく。直接意見しづらい嫁の立場としては、義一に相談するしかない。
吉次も知名も眠りについた、深夜1時の居間。二人を起こさないように小声で会話する。
「ちょっと食べ過ぎじゃないかしら。病院に連絡したほうが…。」
「ええ?そりゃ食べれないなら連絡しなきゃ駄目だろうけど、食べてるなら健康な証拠だろう。」
「それにしたって、今日どれだけおかわりしたか知ってる?まだ足りなそうだったわよ?これじゃ食費だって馬鹿にならないわ。」
「そんなに?」
深刻な表情で溜息をつくみよ子に、軽く考えていた義一は急に怖くなった。
その様子を見て、より一層深いため息をつくみよ子。
――もう、この人は本当に鈍感ね。それとも興味がないのかしら。自分の親なのに、全く無責任なんだから…。
居間にコチコチと時計の音、エアコンからのゴーッという送風音が響く。
「明日の朝御飯だけは何とかなりそうだけど、すぐ銀行でお金おろして、また買い物に行かなきゃ…。ああ、病院にはいつ電話したらいいのかしら。こんなことでって笑われたらどうしよう…お金の問題なんだから、こんなこと、じゃないのに…。」
相談が愚痴に変わりつつあるのを察して、義一は慌てた。まだあまり減ってもいないみよ子の湯呑みに、ぎこちなくお茶を注ぐ。
「と、とりあえずお金の件は、俺はまだ今月分余裕があるから、そこから出そう。病院には俺が明日電話するから。な?」
その場はそういうことで話がつき、ほどなく二人も床についた。
翌朝。みよ子は吉次のために、多めにご飯を炊き、鮭も三尾焼いて、山ほど卵焼きを作って…自分のおかずを削って、おおよそ4~5人前を用意した。これだけあれば何とかなるだろう。足りないと言われたら、すぐ買い物に行くので待っててくださいと言えばいい、と思っていた。
それに義一が何かしら注意をしてくれたら、今後少しは控えてくれるかも知れない。これだけ食べれば、気持ちで足りないと思っていても、事実として足りていないはずはないのだから…。
だが。
「みよ子さん、おかわりいいかい?」
「あ、あの…ご飯がもうなくって…。すみません、スーパーが開く時間にすぐ行って何か買ってきますから、待ってて頂けますか?」
「待てん」
差し出した空の茶碗を、不機嫌そうにテーブルに置いた。ドン、という音で他の食器が一斉に揺れた。
「もぉーキッチー、そんなに怒んないでよぉ。私のおひたしあげるから。ね?」
知名にしてみれば、嫌いなほうれん草のおひたしを食べずに済む良い口実で、これで収まれば誰も不幸にならないはずだった。
差しだされた小鉢を奪い取った吉次は、おひたしを一気に口に入れた。一口で、まるで蛇のようにごくりと喉を動かし飲み込んだ。
「…足りん。全然足りん。昨日の晩だって我慢してやったんだ。これ以上我慢しろというのか!」
バンバンとテーブルを叩きながら怒鳴る。顔は真っ赤で、今にも暴れ出しそうだった。流石の知名も恐怖で顔色を失い、身体を小さくしている。
「父さん、いい加減にしてくれよ。これだけ食って足りない訳ないだろう!」
呆気に取られていた義一がようやく反論した。体格では義一の方が勝っている上、若返ったとしても長い入院生活でまだまだ華奢な体つきの吉次が暴れたところで何とかなるだろうと踏んだのである。
…父親に対する尊敬も感謝も持ち合わせてはいるが、嫌な記憶、恨みに思っていることも当然あるわけで、ちょっとした仕返しもできるんじゃないかという狡い考えもなかった訳ではない。
義一が目論んだように、息子の生意気な反抗に激高して殴りかかる吉次。余裕で抑え込む義一…のはずだったが。
あっさり殴り飛ばされたのは義一のほうだった。ガシャーン、という大きな音を立てて倒れるテーブル。飛び散り、割れる皿。響く知名の悲鳴。構わず吉次は義一に馬乗りになり、ガンガンと激しく殴り続けた。
「お義父さん!やめて!やめてください!」
みよ子が止めようと必死で吉次の肩に縋りついた。その瞬間、吉次の攻撃の矛先が、今までおよそ暴力沙汰とは無縁であった平凡な主婦に向けられてしまったのである。
吉次は真っ赤に充血した目でみよ子を睨みつけた。その目にあったのは既に怒気などではなく、明確な殺意であった。
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