すべてが終わったそのあとで
rionette
第1話
長きにわたる人魔大戦は終わりを迎えた。
3人の英雄によって魔王は討たれ、人々は平和を手に入れた。
涙を流し、肩を組み合い、勝利を称える宴があちこちで開かれた。
新しい時代の始まりだ。
皆口々にそう唱えた。
これは、その数年後の話。
***
息が切れる。
それでも、枯れ枝のような手足を動かすことは止められなかった。
怒号が聞こえる。重々しい足音がすぐそこまで迫っている。
それが私に届いたとき、私は二度と日の目を見ることはないだろう。
死にたくない。
ただその一心で、鉛のように重たい四肢を酷使する。
髪を振り乱して、迷宮のように曲がりくねった路地を駆ける。
お前に未来はない。諦めて足を止めろ。
私の中の冷静な部分が、弱り切った部分が、そう告げる。
でも、諦めたくはなかった。
何かに導かれるように、酸素の足りない脳はただ前進の電気信号を送り出す。
見つけたぞ。
そんな怒号が耳朶を打った。
あぁ、結局ここまでか。
目を背けることのできない現実は、鎧を纏って現れた。
人なんて簡単に殺す事のできるそれを見て、自分の数秒後を幻視した。
結局さ、神様なんていないんだよ。
誰かが言った言葉が脳裏に浮かんだ。
全く、その通りだ。
私は何か悪いことをしたのか。誰かの迷惑になるような事をしたのか。
鳥かごに閉じ込められ、ただ消費される私たちに何があるというのか。
もし、本当に神様がいるのなら。
もし、私たちに罪がないのなら。
「助けてよ……」
痛めつけられた声帯から、ひび割れた声が漏れる。
それは、簡単に消えてしまうような小さなものだった。
「あぁ、分かった」
不意に訪れる浮遊感。
目の前には蒼穹が広がっていた。
人目に付きにくい路地裏のひっそりとした喫茶店。
店内の空席は目立ち、どことなく寂れた雰囲気が漂っていた。
そんな場所に、私はいる。
先程までとは真逆の静謐な空間。
追走劇に終止符を打った青年が連れてきた場所は、そんな場所だった。
「まぁ、飲みなよ」
湯気の立ち上るカップが目の前に置かれている。中身は白色の液体。
「変なものなんて入っていない、ただのホットミルクだ」
そう告げた対面の彼は安全性を証明するように自らのカップに口を付ける。
それを見て、私は恐る恐るカップを持ち上げ、傾けた。
舌の上を優しい甘さが通り抜け、じんわりと身体に熱が染み渡る。それは初めて味わうもので、夢中になって嚥下し続けた。
「気に入っていただけて何より。もう一杯必要かい?」
そういった時には、彼は追加のホットミルクを注文していた。
思わず顔が熱くなる。その熱を逃がすように、深く呼吸をする。
「落ち着いたみたいだね。それじゃあお話をしようか」
気が付けば新しいホットミルクが届いていた。
向かいに座る彼は私の目をまっすぐと見つめている。
「俺の名前は……そうだな、コルプスと呼んでくれ」
青年、コルプスはそう言って微笑んだ。その笑顔は何故か、とても寂しそうに見えた。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
その質問に私の気道はキュッと締まった。力なく首を振る。
「言えないの?」
私はただ首を振った。
「名前のない女の子に、衛兵ねぇ……」
コルプスは顎に手をやり、思案するように目を細める。
ホットミルクから立ち上る湯気は視界の端で空気に溶けていった。
「なんで追われていたの?」
思考の海から戻ったコルプスは私にそう尋ねた。
その質問に、私は少しだけ間を開けて返答する。
「……逃げて、きたんです」
ホットミルクの温かさを手のひらで感じながら、私はぽつぽつと語り始めた。
躊躇いはあった。
助けてくれた恩人ではある。しかし、会ったばかりの名前だけしか知らない他人に事情を話すべきではないと、隠すべきだと、私の中の冷静な部分が訴えていた。
それでも、私は話すことに決めた。
痛む喉をミルクで潤しながら話を進める。私の記憶は曖昧なものが多かった。だから、古いものから順番に話していく。
薄暗い部屋に居たこと。
同年代の少女がたくさんいたこと。
少女は日に日に少なくなっていったこと。
大人に手を引かれて部屋から出たこと。
怪しげな魔術を施され、薬を投与されたこと。
要領を得ない、拙い話だと自分でも分かった。それでもコルプスは詰まる言葉を待つように、ただ優しい眼差しをしていた。
「ある日、私はいつもとは違う場所に連れていかれました。水をかけられ、服を新しい物に取り替えられ、馬車に載せられました。そこから、ずっと、ずっと馬車で移動して、ガタンと馬車が揺れました。きっと、車輪が壊れたんだと思います。倒れた馬車から投げ出された私を、大人たちは捕まえようとしました。それが怖くて、私は逃げ出しました。後は貴方が知る通りです」
話し終えると、どっと疲れが押し寄せた。ここまで長々と話した記憶はない。
渇きを感じて、私はカップに口を付ける。ミルクはもうなくなっていた。
「なるほどね……」
コルプスは顔を顰めて大きな大きなため息をついた。少し乱暴に頭を掻いている。
何かを考え込むように視線を彷徨わせるコルプスを、私は膝に手を置いて静かに待った。
「____」
小さくコルプスは呟いた。それを聞き取ることはできなかったが、こちらを見つめる瞳の奥に確固たる意志が感じられた。
「よく頑張ったね」
大きな手のひらで私の頭を優しく撫でる。
その言葉に、その温かさに、何故か視界が歪んだ。頬を何かが伝っている。鼻が詰まっていて呼吸が苦しい。
「もう大丈夫だ、後は俺に任せなさい」
泣きじゃくる私を、コルプスはただ優しく撫で続けた。
***
香ばしい香りがする。
重たい瞼を上げれば、腕の中で形を大きく歪めた枕が目に入った。隣のベッドはもぬけの殻で、綺麗に畳まれた毛布だけが見える。
身体を起こす。顔にかかる髪を雑に整え、無造作に放られているスリッパを履いた。
おぼつかない足取りで寝室を後にし、いざなわれるように扉を開ける。濃度を高めた香りが溢れた。
物音に気づいた青年が鍋をかき混ぜる手を止める。
「お、起きたか。朝食までもう少しかかるから、今のうちに顔を洗って着替えておいで」
聞きなれた声に寝ぼけた脳は従った。締まりのない声で返事をし、踵を返して洗面所へと向かう。汲み置きの水を顔にバシャバシャとかければ、意識は次第に覚醒した。
タオルで顔を拭う。顔を上げた時、ふと鏡に目が留まった。
陽光を反射する銀糸のような髪。そして、ダイアモンドのように見る人を魅了する瞳。
それが私、スズランのものだとは、以前の私を知る人には信じられないだろう。ボロボロで伸びっぱなしだった髪は整えられ、枯れ枝のように弱弱しかった身体も、今は年相応の肉付きにまで回復している。
寝癖で跳ねた髪を櫛で整え、他におかしなところがないか入念に確認する。
身だしなみのチェックを終えて寝室へと戻る。私用のクローゼットからお気に入りのワンピースを取り出して寝巻から着替える。寝具を軽く整えてから再びダイニングへと向かった。
「おはようございます、コルプス」
「おはよう、スズラン」
席に着いていたコルプスが紙束から顔を上げて微笑む。毎日繰り返される事ではあるが、慣れることはない。挨拶を交わす度に幸せを感じる。
「さぁ、座って。いただこうか」
促されるままに席に着いた。
食卓に並ぶのは沢山の野菜と干し肉を使ったスープに固めに焼かれた丸パン。弱っていた私を気遣ってか、コルプスはいつも朝から多めの量を用意してくれていた。
女神へ感謝を捧げてから丸パンをちぎってスープに浸し、口へ運ぶ。水分を含んで柔らかくなったパンは本来の甘味にスープの塩味が絶妙に組み合わさっており、思わず頬が緩んだ。
「今日も美味しいです」
「ありがとう」
そう感想を言えば、コルプスは頬を緩めて感謝の言葉を口にした。
それから私は夢中で食べ進め、あっという間に器は空になった。コルプスが使った食器を洗い、私が拭きあげて朝食が終了となる。
「スズラン」
食後のミルクを飲んでいると、不意に名前を呼ばれた。振り返れば食料庫の中身を確認するコルプスの姿が目に入る。
「備蓄が少なくなってきた。買い出しに行こうと思う」
コルプスは残り少なくなった小麦粉やミルクを私に見せた。その量は確かに心許ない。
「今回はそこそこ多めに買うつもりだから、スズランもついてきてくれないか? スズランがいると、何かと融通してくれるしさ」
「では、お昼は移動しながら食べられるバケットサンドがいいです! ハムが入っている物で!」
私は胸を張って答えた。そうすると、コルプスは困ったように笑い、ハムまだあったかな、と食料庫を漁り始めた。
その様子に自然と笑みが浮かぶ。
「野菜のお世話をしてきますね」
そう言って私はダイニングを後にした。
外へ出ればすぐに小鳥の鳴き声や木々のせせらぎに包まれる。
振り返って家を見上げる。それは大きな木だった。私が数十人で手を繋いでもその幹を囲うことはできない大樹。内部をくり貫かれているにもかかわらず、天を覆いつくさんとする枝葉は青々としている。
いくら世間に疎い私でも、これがとても希少なことだということは分かった。おとぎ話に出てくる魔女が住んでいる家みたいだな、と思った。
そんな思考を振り払って、私は家の裏手に向かう。
大樹をぐるりと回れば、耕された土に規則正しく並んだ作物が見えてきた。コルプスから管理を任された畑では、今日も元気に野菜が育っている。
農具小屋からじょうろを取り出し、井戸へ向かって水を補充する。畑と井戸を何度も往復して、水やりを行った。始めたての頃は半日がかりで息を切らして行っていた作業も、今となっては数十分とかからずに終わるようになった。水やりの後、目についた雑草を取り除けば野菜のお世話の終了だ。
手持無沙汰になって空を見上げる。太陽の傾きは家を出た時からそれほど変化してはいなかった。コルプスは今、せっせとバケットサンドを作っていることだろう。このまま周囲を散策するか、帰って本を読むか考える。
ふと、視界を蝶が横切った。それを追いかければ、白い花畑へたどり着いた。中央にはまっさらな墓石が静かに佇んでいる。
以前コルプスが言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
__この花は『エリカ』っていうんだ
小さな白い花を撫でるコルプスは、何故かとても寂しそうだったと記憶している。
エリカの開花期は冬の終わりから春にかけてだと聞いた。しかし、私はこの花畑から白が失われた所を見たことはなかった。この花畑の主は本当にこの花が好きなんだろう。
エリカに触れてしまわないよう気を付けながら墓石に近寄り、その表面をなぞる。汚れは一切見られなかった。定期的に誰かが手入れしているのだろう。
私に様々な表情を見せる彼は、そのときどんな表情をしているのか。
「貴方は、知っていますか?」
返事は期待していない。ただ、なんとなくそう尋ねていた。
風が吹いて髪が乱れる。木漏れ日が優しく降り注ぐ墓石を前に、私は膝をついて祈りを捧げた。
移動しながら食べたバケットサンドは絶品だった。要望通りのハムに加えてチーズまで挟まれていた。新鮮な野菜にハムとチーズ。庶民からすれば垂涎の逸品であることは想像に難くない。それを2つぺろりと平らげた私の機嫌はそれはそれは良かった。スキップして歩く私を、コルプスは少し呆れたように見ている。
「また食べたいです!」
「たまにならね」
コルプスが何の仕事をしているのかを私は知らない。家を空けることはあるが、1日以上帰らなかった事は記憶にない。それでも、普段使いの品や食事は話に聞く庶民より数段上である。コルプスから常識を教えてもらうなかで、私はそのことを知った。
知った当初は遠慮するようになったが、体重の減少を指摘され食事等で遠慮することは禁止された。それに、コルプスは私が沢山食べていると優しい顔をする。だから、私は遠慮することを止めた。
「では、次回の買い出しからはこれを持っていくことにしましょう! 約束です!」
「はいはい、約束しよう」
小指を差し出せば、意図を察してコルプスの小指が絡められる。約束するときの決まり文句を二人で歌って指を放した。
放した小指を見つめる。それはじんわりと熱を持っているような気がした。大事に大事に逆の手で包む。その熱を少しでも長く感じていたかった。
「そろそろ街につくから、カチューシャを付けておいてね」
「はーい」
私はポーチにしまっていたカチューシャを取り出し、それを身に着ける。すると、視界の端に映る髪が茶色へと変色した。鏡がないので確認はできないが、瞳はトパーズのような美しい黄色へと変化していることだろう。それらは目の前の彼、コルプスと同じ色だった。
「よくできました。そっちの髪色も似合うな」
「ありがとうございます、お兄ちゃん」
「お兄ちゃんは止めろ……」
でも、街の人は兄妹だと思っていますよ。その追い打ちは口に出さないでいた。
追手のかかった私に配慮して、コルプスは変装用の魔具を用意してくれた。魔術の知識のない私でも使用できる簡単なそれは髪と瞳の色を変えるだけのもの。ただ、私の特徴的なそれを変えるだけでも変装としては十二分に働くらしい。どんな色に変えたいか聞かれ、コルプスと同じ色と即答した時に見せた彼の顔は今でも鮮明に思い出せる。
「ほら、手を出せ」
目の前に差し伸べられた手を、私はすぐに掴んだ。大きくて温かい、私の大好きな手だ。
「絶対に放すなよ?」
「はい! 絶対に放しません!」
ぎゅっと力を込めれば、コルプスは満足そうに笑った。
入口に詰めている衛兵に元気よく挨拶して門を潜る。そこはまるで別世界のようだった。
舗装された道の両脇には露店が並び、そこに人が群がっている。
客を呼び込む売り子の声。
品物の傷を理由に値切る女性の声。
露店の串焼きを強請る子供の声。
私が暮らす森の家の静謐さからはほど遠い、混沌とした活気のある空間がそこにはあった。
「いつ来てもここは騒がしい」
「私は好きですよ、この空気も」
「俺は静かな方が性にあっている」
そんな会話をしながら手を引かれるままに雑踏を進む。人混みでも彼の後ろは歩きやすかった。
ここ半年程で私の顔も随分と知られたようで、馴染みの店に入れば歓迎された。肉屋に入れば、もっといっぱい食べて肉を付けなさい、とソーセージをおまけしてくれた。雑貨屋に入れば、妹にもっといいものを使わせなさい、とコルプスが少し高めの石鹸を買わされていた。八百屋の前を通れば、うちで野菜を一緒に売らないか、と誘われたので丁重にお断りしておいた。
「お嬢ちゃん、ちょっと寄っていきな」
買い物を終えそろそろ帰ろうかとしたとき、ふとそんな声が聞こえた。
声の主は雑踏から少し離れたお菓子屋。そこは何度目かの買い出しのときに私がコルプスに強請ってクッキーを買ってもらった場所だった。
パンパンに膨らんだバッグを背負いなおしてコルプスとそちらに歩いていく。手をつなぐコルプスのバッグもはち切れんばかりに膨らんでいた。
「久しぶりだね、お嬢ちゃん。最近は寄って行ってくれないから寂しかったよ」
そう語る男の顔は、私の記憶にはなかった。
「失礼だが、貴方は? ここの店主は老夫婦だったと記憶しているが?」
同じ疑問を持ったコルプスが問いかける。
男は少しだけ目を細めたが、そのあと腑に落ちたように手を叩いた。
「悪い悪い。確かに、俺が一方的に知っているだけかもしれねぇな。俺はあの爺さんたちの息子だ。最近爺さんが腰を痛めてな、良くなるまで代わりに俺が店番をしているんだ」
そう説明した男は、渡したいものがあると言って店の奥に引っ込んだ。
コルプスは何かを考えるように顎に手を当てている。
「これは爺さんたちからだ。今度会ったらお嬢ちゃんに渡してくれと言われてな」
戻ってきた男は、3つの飴玉を見せた。綺麗な包装紙に包まれたそれは、店の売り物に比べて少しだけ上等に見えた。
「へぇ、あの爺さんたちがねぇ……」
コルプスは訝しむような眼をしていたが、興味を失ったのか視線を切った。
「急にそういわれても困るかもしれねぇが、爺さんたちはお嬢ちゃんを気に入ったらしい。受け取ってくれると嬉しいんだが……」
視線で問いかけると、コルプスは僅かに首を縦に振った。
恐る恐る男に向かって手を差し出す。飴玉は優しく手のひらに置かれた。
離れる寸前、男に手を引かれバランスを崩した。
「一人で美味しく食べるんだよ。感想を爺さんたちに言ってくれるとありがたい」
すぐ真横で声がする。
私は慌てて距離を取った。
「何の真似だ?」
気が付けば、私と男の間にコルプスが立っている。しかし、その声がコルプスのものだと認識するのに、少しだけ時間がかかった。
「いやいや、嬢ちゃんが転びそうになったのを助けようとしただけさ」
悪びれずに男が言う。
握る手に少しだけ力がこもった。
「……失礼する。親御さんには今度お礼すると伝えておいてくれ」
それだけ言うと、コルプスは足早にそこを離れた。私はされるがままにその後ろをついていく。
「またのご来店をお待ちしております」
その声が、やけにはっきりと耳に残った。
城門を出て、森に入る。それまでコルプスはただ一言も話さなかった。いつもなら街を出た時点で放している手も、今日は握りっぱなしだ。
運動すれば体温は上がる。触れる部分は特に熱を持っている。手汗、コルプスは気持ち悪くないんだろうか。場違いにも、私はそんなことを考えた。
「あの時、なんといわれた?」
家も目前というところで、コルプスは口を開く。
質問意図が読み取れずに私が首を傾げると、菓子屋で手を引かれた時だと補足された。
「美味しく食べるんだよ、と言われました。あと、感想はお爺さんたちに言ってくれと」
少し前の記憶を掘り起こしながら答える。
「それだけか?」
「特に、おかしなことは言われなかったと思います」
「そうか」
コルプスは顎に手を当てて思考に入る。眉間に少しだけ皺が寄っている。
「飴を1つ貰ってもいいか?」
「もちろんです」
飴を渡す。コルプスはそれを包装紙の上からじっくりと観察した。中身を取り出して剥き身の飴玉を手のひらで転がす。そのあと、ゆっくりと口に含んで少しだけ唸った。
「……大丈夫ですか?」
その不自然な挙動に、私は不安を覚えた。恐る恐るコルプスに尋ねる。
「……死ぬほど甘い」
不服そうな顔でコルプスは短く告げた。
おどけた様な声色に思わず笑いが漏れる。
「私も食べてみていいですか?」
「あぁ、いいよ」
飴を取り出し、包みを剥がす。中からは綺麗な黄金色の飴玉が出てきた。恐る恐るそれを口に含む。
それは、ただ甘かった。
「ほんとに、甘いですね」
「それだけか?」
「はい、私は美味しいと思います」
「女は分からないな……」
私が笑えば、コルプスは肩の力を抜く。目じりは下がり、へちゃっとした笑みが零れていた。
「私、コルプスのその顔好きです」
言うつもりはなかった言葉が口をついていた。それを聞いたコルプスは、驚いたように少しだけ目を見開く。
「その顔ってどんな顔?」
聞き返すその言葉に、少しだけいたずらごころが湧いた。
「気が抜けて、ちょっとだけ不細工な顔です」
「……それって褒めてる?」
頬を掻きながら少しだけ苦みの出た表情に、私は笑みを浮かべた。
「はい!」
コルプスは少しだけ足を早めた。顔は私から背けられている。
「ごめんなさい。許してください」
私がそういうまでコルプスは不貞腐れていた。もうしません、とは言わなかった。だって、そんなやり取りが、私にとってとても幸せなものに思えたから。
こんな日々がずっと続くんだと思っていた。
__一週間後ノ夜、一人デ一本杉ニ来イ
__サモナクバ男ヲ殺ス
__コノコトヲ話シテモ殺ス
暗い部屋で一人。その文字を見た時、私は心臓が鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
彼は居なかった。先に寝るように言い含めて、外套を纏って闇に消えていった。
寂しさを紛らわすように、私は飴を食べようとした。寝る前にもう一度歯を磨けばいいだろう。そんな軽い気持ちで、私は最後の一つになった飴玉の包装を剥いた。
金色の球体が床を転がる。転がって、転がって、部屋の隅の影に飲まれた。
握りしめる包装紙を穴が開くほど見つめる。その文字は消えない。
擦っても、擦っても、文字は消えてくれない。
寒い。手が、足が、ガタガタと震え始める。
それなのに、背中は冷たい汗でじっとりと湿っていた。
なんで、なんで。
そんな言葉が脳内で反響する。
呼吸が苦しい。いくら空気を吸っても、吸っても、酸素が身体に回らない。
視界が歪む。私は今座っているのか、倒れているのか。それすら分からなかった。
「____」
どれくらいそうしていたのだろう。
唐突に世界が揺れた。
いや違う。
確かな温かさが、それを否定する。
「……こる、ぷす?」
恐る恐る、問いかける。温もりを逃がさぬように、抱きしめる。
「あぁ、俺だよ」
声が降ってきた。聞きたくて堪らなかった声が。
私は赤子のように泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。
背中をポンポンと優しく叩かれる。それは、私が泣き疲れて眠るまで続いた。
***
翌日、私が目を覚ました時目の前には彼がいた。
「何があった」
心配そうな顔をする彼に、私は笑って答える。
「なんでもありません。ただ、夢見が悪かっただけです」
彼は、納得してなかったように思える。それでも深く追求はせず、顔を洗ってくるように言った。それに従い私は寝室を出る。
ふと右手に何かを持っている事に気が付いた。
固く握った手を開けば、くしゃくしゃになった包装紙が目に入る。
それの皺を伸ばすように広げる。
そこには、何もなかった。
文字なんてなかったと言わんばかりに、ただ空白の平面が広がっていた。
気が付けば、包装紙はずたずたに割かれていた。残骸が宙を舞っている。私をあざ笑うようにゆらゆら揺れている。
文字はなかった。しかし、私にそれは刻まれている。
行かなければ。
私はそう決意した。
洗面台の前に立つ。
鏡に映る私は、それはそれは酷いありさまだった。自慢の髪はぼさぼさで、瞳は淀んでいる。それはまるで、かつての自分を見ているようだった。
これではいけない。隠さなきゃ。
汲み置きの水を頭からかける。常温のはずのそれは、身を切るように冷たかった。
何度か水をかけ、顔を洗い、タオルを取り出して水気を取る。櫛を使って髪を整える。
寝室に戻る。彼の姿は見えなかった。
クローゼットを開き、適当な服を掴んで着替える。それは、黒のワンピースだった。
ダイニングに行く。彼が居た。彼が、居た。
気が付けばその胸に顔を埋めていた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
大丈夫だから。大丈夫になるから。
自分に言い聞かせるように、何度も何度も繰り返す。
それから私は時間の許す限り彼と過ごした。日課だったはずの畑の世話もせず、ただ彼に付きまとった。
彼の温もりを忘れないように、彼と離れても温もりが残るように。
それと同時に、思考を巡らせる。
彼は眠りが浅い。事情を話さず一人で家を出たとして、気づかれる事は明白だ。
絶対に彼を死なせない。私のせいで死なせるわけにはいけない。
考えろ。考えろ。
彼との思い出を一つ一つ呼び起こす。それは心を温め、そして壊す作業だった。
そして、私は見つけた。見つけてしまった。
それはこの家に来て間もない頃のこと。私は不意に訪れる過去の幻影に怯え、錯乱した。昼夜を問わず唐突に泣き叫ぶ私を、彼は必ず抱きしめ、落ち着くまで背を優しく叩いてくれた。
私の精神が落ち着き幻影を見なくなった頃には、彼の目の下には消えることのない隈があった。不眠症になったのだ。私が寝返りを打つだけで目が覚めるほど、彼は眠ることができなくなっていた。自分の不調を自覚した彼は医者にかかり、よく眠れる薬を処方してもらっていた。その効果は凄まじく、朝目を覚ました私が彼の頬を突いても起きなかったほどだ。
あの時の薬があれば、彼を起こさず抜け出すことができる。
私は彼が離れた時を見計らって、薬を探した。記憶を頼りに戸棚を漁れば、目的のものはさほど苦労せずに見つけることができた。後はこれを飲ませるだけ。
この家で過ごす最後の日。
私はいつも通り彼より先に風呂を済ませ、彼が入っている間にミルクを温めた。沸騰しない程度の温度まで加熱し、砂糖を加えて味をみる。あの日飲んだホットミルクと違って、何故かとてもしょっぱく感じた。いくら砂糖を加えても、しょっぱさは変わらなかった。
破棄しようと思った。しかし、時間がそれを許さない。湯あみを終えた彼がダイニングに入ってきた。
「珍しいね、何を作っているんだ?」
そう声をかけられ、私は素直に答えるしかなかった。
「ホットミルクを作っていました。でも、失敗してしまったみたいで……」
背に隠した鍋も、私と彼の身長差では容易く見つけられてしまう。
「色は悪くないみたいだけど?」
「少ししょっぱくなってしまって……」
「しょっぱく、ねぇ……」
頬に手を添えられ、顔を向かい合わせるように動かされる。トパーズの瞳が私を覗き込む。
心臓が跳ねた。それを押さえつけるように、胸を抑える。
彼の指が、私の目元をそっと撫でた。
「一杯貰えるかい?」
そう言って、彼は身を離す。
温もりが遠ざかる。名残惜しくて、吐息が漏れる。
「君の作ったホットミルクを飲んでみたい」
その声に、私は首を横には振れなかった。二人分のマグカップを取り出し、鍋のミルクを注ぐ。手元が見えないように隠し、彼のマグカップにぽとりと錠剤を落とした。
食卓に向かい、睡眠薬入りのホットミルクを彼に渡す。その時、手が震えて少しだけ中身を零してしまった。慌てて拭こうとする私を制し、彼は対面に座るように促す。
「初めて会ったときみたいだね」
彼はそう言って笑った。私はちゃんと笑えていただろうか。
「君は、ここに来たことを後悔してる?」
その質問が、酷く痛かった。だからこそ、しっかりと伝えなければならないと思った。
「私は、貴方に会えて、貴方と過ごせて、幸せでした」
彼は満足そうに頷いた。そして、マグカップの中身を一気に飲み干す。
「なんだ、とても甘いじゃないか」
そんなはずはない。そう思って、マグカップに口を付ける。
「……本当ですね。私、馬鹿みたい」
それは、ただただ甘かった。
***
「なんでこう上手くいかないかな」
夜空には紅い月が浮かんでいる。
白い花畑の中で、俺は墓石に背を預けて座っていた。
手には二つの紙が握られている。
一つは、くしゃくしゃになった包み紙。表面をなぞれば赤黒い文字が浮かび上がった。
「平和ボケしてたとしか言いようがない。馬鹿なやつだと笑ってくれ」
気を付けないと口角が上がってしまう。自身へと向けた嘲笑だ。
包み紙を放る。それは火に包まれ灰も残らず消えた。
もう一つは、スズランの花が描かれた便箋。そこにはこう書いてあった。
__居なくなってごめんなさい
__私は大丈夫です
__今までありがとうございました
何度も書き直したのか、便箋の汚れは目立ち、所々に液体が乾いたような跡があった。
__大好きでした
便箋の最後はそう締めくくられている。
俺は大きく、大きく、ため息をついた。
「一度目は我慢した」
夜風が花畑を抜ける。揺れる花弁から白い光が立ち上る。
「だけど、二度目はどうやら無理みたいだ」
ゆっくりと立ち上がった。光は着々と数を増やし、闇の中から俺を浮き上がらせる。
「俺は行くよ。またね、『エリカ』」
光は収束し、一振りの剣となった。それを取れば、荒々しい風があたりを包みこむ。
「すべてが終わったそのあとで」
待ってるからね。
そんな声が聞こえた気がした。
***
「お待ちしておりました」
人気のない教会。ステンドグラスに描かれた女神が紅く染まっている。
「神託が下っています。市民の大半は既に郊外へと非難しております」
がらんとした空間に修道服に身を包んだ女の声はよく響いた。
「あとは、貴方様が思うがままに」
__勇者ヒナタ。
そう告げた修道女の前に突如暴風が吹き荒れる。それは数秒のことで、収まった後には人影が増えていた。
薄い茶色の髪にトパーズを思わせる瞳を持った青年。手に持った剣を一振りすれば、漆黒の外套が白銀の鎧へと変化した。
「聖女、君は一つ勘違いしている」
青年は温度を感じさせぬ平坦な声色で告げた。
「俺はコルプス。かつて裏切られた男の
聖女は青年の言葉に何も返すことができなかった。
遠ざかる背を見送る事しかできなかった。
「あぁ、女神よ。どうか彼に、安らぎを」
果たして、祈りは届いたのか。
それは誰も知らない。
しかし、ただ一つ確かな事実として。
その夜、国が一つ滅亡した。
すべてが終わったそのあとで rionette @rionette
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