EP1・山岳の街 4

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 鼻をすすりながらパセリは店の奥に引っ込みタオルを取ってきた。それを私たちに手渡すと、伝票を手に持ってペンを握った。その瞬間、彼女は「ご注文をどうぞ!」と笑顔になる。どうやら先程の失敗はもう記憶の彼方に追いやられたようだ。

 私は口の端をひくつかせながらも、濡れた部分をタオルで拭き、冷静にメニューと向き合った。


「ホットコーヒー水、シチュー味……は昨日食べたのでボルシチ味、あとパン味」

「僕はカフェラテ水と……、あ、やっぱり日替わりセットで!」

「はぁーい! エルちゃんヘルくんすぐに用意するね!」


 オーダーを受けたパセリは即座にカウンター内キッチンで調理を始めた。ドスッ、ドスッ。鼻歌まじりに生地を殴る音と、何かが壊れる音が聞こえてくる。傍からみたら猟奇的な光景だ。もっと穏やかに作業できないのか? そんな私の心情とは反対に、ヘルクは微笑ましそうに彼女の姿を見ていた。


「今日も元気だね。見てるとこっちまで元気が湧いてくるよ」

「それは眼科か脳神経外科を受診したほうがいいですね。いや心療内科か……」

「またそんなこと言って。君も素直じゃないなぁ」


 やれやれとヘルクは肩をすくめる。私は「何がです?」と彼を睨んだ。


「ふふっ、仕事がある日は毎日来てるくせに」


「昨日はシチュー味だったんだね」ヘルクはカウンターに肘をついてニヤリと笑った。透き通るプラチナブロンドと整った目鼻立ちが、彼のニヒルさをさらに際立てた。癪に触ったので、私は左手で彼の無駄に高い鼻を力いっぱい摘んでやる。


「いだだだだっ、痛い!」

「崩れろ黄金比!」

「もげるもげるもげるっ!」

「2人とも喧嘩しないの! メッ! だよ!」


 制裁中に割り込んできたのはパセリだ。彼女は私たちの前に木製のマグカップを置いた。わたしのカップにはコーヒーの匂いがする黒い液体が入っていた。ヘルクの方は茶色い液体だ。甘い香りが漂ってくる。

 ヘルクは早速コップに口をつけた。


「んっ、これココア味だ! すっごく美味しい、さすがパセリだね!」

「でしょ!? でもね、本番メインディッシュはここからよ?」


 称賛の声にパセリは上機嫌だ。うふふと笑いながら、次は木製の皿を丁寧に置いた。


「はい! エルちゃんはボルシチ味とパン味。ヘルくんは日替わりセット。どうぞ召し上がれ!」


 声高らかに言う彼女が置いた皿には、ハート型の固形物が乗っていた。私の皿には赤いハートと茶色いハート、ヘルクの皿も赤いハートと茶色いハートだ。


「あれ? おんなじ色だ」


 不思議そうにハートを見つめるヘルクに「日替わりセットの内容、ボルシチ味とパン味だったんじゃないですか?」と答えた。しかしパセリは腰に左手を当てて右手の人差し指をチッチッチと左右に振り「なんと! 実は新レシピなのですよ!」得意げな顔をした。ヘルクはゴクリと唾を呑み、恐る恐る赤いハートを掴み上げ──意を決して一口齧った。


「──っ! コレは──っ、」


 ヘルクはカッと目を見開いて硬直した。私は彼の背後に宇宙が見えた……ような気がした。10秒ほど経ってから、ようやく彼は地球に帰還した。頬は興奮で紅く染まっている。


「あっ! ああ!? コレお肉だよ! 肉の味がする! 〈牛肉〉っぽいけど今まで食べたことのないレシピの味だっ!」


「何コレすごい!」はしゃぐヘルクにパセリは「イエイ!」ピースサインを突き出す。


「〈ローストビーフ&ヨーグルトソース〉ってレシピだよ。茶色い方はエルちゃんの言う通りパン味だけど……。でね!? サーシャさんのおばば様の本に載っててずっと再現しようとしてたレシピが、昨日ついに成功したの!」


 エルピスはカウンターから飛び出すと、私の右斜め前、店の角にある階段を駆け足で登り2階に消えた。そしてすぐに大きな音を立てて転げ落ちてきた。よろよろと起き上がる彼女は、表紙に『今日のディナー』と書かれた本を胸に抱いている。


「ほら見て!」


 パセリは私たちの間に割り込むと本をめくり、42ページに印刷された写真を指した。表面は茶色く中は綺麗なピンク色の薄く切られた〈肉〉が、芸術的に並べられていた。〈肉〉の上には白い液体がかけられている。コレが〈ヨーグルトソース〉とやらだろうか。


「本当は赤と白で縞々模様にしようかなって思ったんだけど、なんか美味しくなさそうだからパセリは白色を入れないことにしたんだ!」


 パセリは鼻高らかにふんぞり返る。しかしヘルクは〈ローストビーフ&ヨーグルトソース〉の味に夢中なようで、赤いハートを必死に咀嚼しており彼女が垂れ流すレシピのうんちくにおざなりな相槌をするだけだ。

 私は自分の皿に視線を戻すと赤いハート型の固形物を手に取り、パクリと頬張った。モチっとした食感とボルシチの味が口腔に広がる。一緒に茶色いハートも食べてみれば、パンの味がボルシチの強い味を中和させてマイルドになった。〈パン〉を意識して作っているのか、茶色い方はパサパサしている。ハートを一旦皿に戻して少し冷めたコーヒー水を啜って口を潤した。

 チラリ、私はまだうんちくを喋り続けてるパセリの手元のレシピ本見た。写真に写っている旧世紀の食事は私たちの食事とは全く別物で、どれもこれも食べるのに手間がかかりそうで、けれども宝石のように美しかった。


 大厄災当日、原子力発電所や核爆弾の2割は彗星の衝突を受けて暴発し、空中に放射線をばら撒いた。そして海中に沈んだ後残りの原子力発電所が崩壊すると、海中は高濃度の放射線に汚染された。

 海中の放射線および放射能物質は、ほとんどが海洋生物に吸収された。そして空中の放射線は雨に洗い流されて大地へと降り注ぎ、自然界の動植物や土壌も放射線の洗礼を受けた。プランクトンが汚染物質を取り込み小さな魚の体内に蓄積し、爆発的な勢いで生物濃縮される。それは地上も同じことだ。地上の動植物は奇形を発症しながらも体内に放射線を蓄積したまま生き残り、海洋生物は放射線を吸収しUSへと進化した。人類が糧とできる動植物は、地球上には存在しなくなった。唯一、海水だけは浄化すれば飲料水として摂取できる。私たちを脅かすUSたちが、放射線を全て吸収してくれたおかげで。

 さて、大厄災から108年後、新世紀元年。食糧難を救うために人工食が開発された。それが私たちが今食べている〈フルフィルメント充実したフード食料〉通称フルフルだ。完全人工物から生成されていて栄養面に一切の偏りなし。そして無味。旧世紀は食事も娯楽の1つだったそうだが、現在はただの生命維持物質である。

 これには市民も不満を抱いたのか、どうにかしてフルフルの味を良くしようと改良を試みた。しかし結果は芳しくなく。ウィルソン市場の少女が食べたモノのように、絶妙に不味いフルフルが生み出されていくだけだった。

 そんな現状を嘆いたのがパセリだ。当時13歳の彼女は「パセリは美味しいフルフルを作るフルフル屋さんになる!」とサーシャの店でちゃっかり働きだした。ドジでバカな彼女にはどうせ無理だろう。当初、私は鼻で笑いながらたかを括っていた。だが私の予想を覆して、サーシャの店は『美味しいフルフルを提供してくれる』と有名になってしまったのだ。


「美味しかった?」


 パセリはカウンター越しにニッコリと笑っている。私は返事をせずに無言で3ネロをカウンターへ置いた。不躾な態度にも彼女は機嫌を損ねることなく、どこかズレた歌を口ずさむだけだ。

 鈍感なのか、寛容なのか、ただのバカなのか。私は彼女が怒る様を、一度も見たことがない。

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