(完璧な夜空)
彼女は病院にいた。そして苛立っていた。会社で嫌なことがあったのだ。それに彼女は最近離婚をして、その際にトラブルがあり、弁護士を通じて元夫とうんざりするようなやりとりを繰り返していた。彼女は心身ともに疲れ果てていた。彼女は社長だから、仕事上の重圧も重い。ただでさえ仕事上のストレスが大きいのに、プライベートでのストレスも加わって、最近の精神状態は散々なものだ。そうして彼女はついに体調を崩し、こうして病院にくることとなった。病院嫌いの彼女が病院へ行くということは、南の島で雪が降るようなものである。
やれやれ。どうしてこんなことになってしまったんだか。たった八ヶ月で離婚するなんて、我ながらどうかしている。私は誰かと暮らすことができないのかもしれない。これから一生一人で生きていくしかないのかも。彼女は病院の待合室で、そう思った。
待っている間、暇なので、彼女は本棚から小説を引き抜いた。海外の小説だ。彼女は普段小説を読む習慣を持たなかった。そもそも芸術にあまり興味がなかった。彼女が関心を持っているのは、いつも現実的な事柄だけだった。
その小説は、一言で言えばシュールな小説だった。最後に主人公が拳銃自殺する。彼女は何て馬鹿らしい物語を書くのだろうと思った。どうして人が自殺する小説を書こうなんて思うのだろう。これだから小説は嫌いなんだ。暗くて、惨めな気持ちになる。
彼女は小説を本棚に戻した。そして別の小説を手に取った。
それは幻想的な小説だった。陽だまりの中を遊ぶ少年たちの物語だ。こっちの方がまだマシだ、と彼女は思った。
その小説を何となく読んでいると、隣の爺さんに話しかけられた。白髪頭で、ハゲかかっている短髪のお年寄りで、眉毛がとても長く、目にかかっていた。鼻は突き出ていて、口元もとんがっていた。顎はしゃくれており、意地悪そうな印象を受けた。
汚い格好ね。お金がないのかしら。彼女はそう思った。
「なあ、あんたは完璧な夜空を知っとるかね」
「完璧な夜空?」
「ああ。完璧な夜空。知っとるか」
「そんなものは知らない。完璧なんてこの世には存在しない」
「いやいや。そんなことはない。ま、心持ち次第ではあるかもしれないがな」
何だこの爺さん。彼女は彼を無視して読書を続けた。
「疑うのも無理はない。完璧なんて信じられない。そう思うかもしれない。しかし完璧としか思えないものがこの世にはちゃんと存在しているのだよ。例えば、三角形。あれは完璧としか言いようがない」
彼女は煙草を吸いたいと思った。結婚してから禁煙していたのだ。元夫が嫌煙家だった。彼は彼女の身体のことを思い、煙草をやめろと何度も忠告した。生活習慣を改めろと言われ、一日のスケジュールを毎朝、彼に言わなければならなかった。そんな彼が不倫をしていたなんて、人生わからないものだ。人の生活習慣に口を出す前に、自分の倫理観を見直せ。彼女は元夫にそう言ってやりたかった。
そう言えば、彼も言っていたな。君の完璧な肉体を守るため云々。どいつもこいつも完璧なんて戯言を信じている。彼女はため息をついた。
爺さんは名前を呼ばれたらしく、席を立ち上がり、診察室へ入った。彼女はほっとした。
人生ってやつは、何て奇妙なんだ。私が子どもの頃描いていた未来は、白馬の王子の隣だったはずだ。それが、どうだ。現実はそう上手くはいかないではないか。幻想的な現実など存在しない。それは幻想がどこまでも幻想でしかないからだ。ならば、やはり私は現実だけを見続けよう。現実のみが私に関わっている物事なのだから。
肩を叩かれた。その方向を向くと、一世代上の女性だった。
「あなたは、完璧な夜空を見たことがないのでしょう」
「何なんですか、それは」
「知らないの?」
知るわけがない。揃いも揃って何を言っているんだ。完璧な夜空?まったく意味がわからない。意味がわからないのだから、そんなものあるはずはない。ここは頭のおかしな人が集まっているのか?
その女性も席を立ち、診察室へ向かった。彼女がため息をつくと、後ろから肩を叩かれた。やれやれ。彼女はもう一度大きなため息をついた。そして振り向きざま、
「知らない」と言った。
見ると肩を叩いた主は少年だった。少年は彼女の言葉を聞いて、彼女に哀れみの目を向けた。
少年は彼女に言った。
「完璧な夜空を見ていないのに、何でも知っているようなふりをしているのはもはや犯罪に近い行為だよ。完璧な夜空を見て初めて、人は一人前になるのさ。完璧な夜空について深く論じれば論じるほど、人はその深遠さに飲み込まれ、完璧な夜空によって人格が完全に完成されることとなる。そうだとすれば、完璧な夜空について何の知識も持たず、ただのうのうと生きながらえているだけの存在なんて、淘汰されて然るべき存在なんだよ。それなのにあなたはこうして病院に来て少しでも健康に、少しでも長生きできるようにしている。薬に、あるいは健康食品に塗れて暮らすだけの生活。完璧な夜空を知らないのに。ああ、それは悲劇だよ」
この少年は何を言っているのだ。彼女は怖くなった。ここの街の人は、全員狂っているのか。
甲高い音が鳴った。病院のアナウンスらしい。
「完璧な夜空について無知な人間はこの世界を本当に知り得ない。完璧な夜空について知っている人間こそ最も真理に近く、最も崇高なる人種である。完璧な夜空を崇め奉れば、我らの魂は高潔なる運命を得、壮大な宇宙の深層を眺めうることとなろう。風景の歪み、それすなわち精神の瑕疵である。永遠なる魂の不活性化を防がんとするは完璧な夜空のみである。立てよ、立てよ患者。今こそ我ら手を取り、完璧な夜空を崇めるのだ」
ああああああああ!
「そうです。ええ。そうです。その通りです。ええ。今では何のストレスもありません。最高の気分です。非常に心持ちがいい。今まで惑い、迷っていたのが嘘のようです。はい。私もついに見たのです、先生。完璧な夜空を」
「そうですか。では、次なる患者へあなたの体験談を語りなさい。さすれば、我々は永久にこうして幸福を得、またその魂を向上させることができるのです……」
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