第3話 for 幽
何処で間違ってしまったのだろう。
作家としてある程度成功も収め、高校の頃から付き合っていた彼女とも結婚し、幸せの真っ只中にいたはず。
子供には恵まれなかったが、それでも俺達は幸せだった。
いや、正確には俺一人が、だったかもしれない。
元々妻は鬱病を患っており、心の弱い女性だった。
子供ができない体だと知った事で自分を酷く責め、ある日、出張から帰った我が家で俺を待っていたのは、薬を大量に摂取し、冷たくなっていた最愛の人の骸だった。
守ってあげられなかった。
幸せにしてやる事ができなかった。
後悔が雪のよう次から次へと降り積もり、やがてそれは溶けることの無い氷塊となって、今でも俺の心にのしかかっている。
妻との想い出を遠ざけようと、俺は買ったばかりの自宅を手放し、知らない土地に引越した。
毎晩悪夢にうなされ、終わりの見えない呪縛から少しでも解放される為に。
「おい……?」
微かに聞こえる男の声。
「おおい……?」
微睡む意識が覚醒してゆく。
「う……」
「おおい葵?(あおい)」
「あっ……雄馬(ゆうま)……来てたのか?」
名前を呼ばれ目を開けると、そこには旧友である佐伯 雄馬(さえき ゆうま)の姿があった。
心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「生きてたか……ほら」
ほっとした顔で悠真は持っていた袋から缶コーヒーを俺に投げて寄越した。
「おっ……ありがとう」
俺は横になったままそれを受け取ると、ソファーに座り直し缶コーヒーを開けて口をつけた。
「また変な気でも起こしたのかと心配したよ……この部屋紹介したの俺なんだから、早々と事故物件にされるのはごめんだぞ?」
そう言って雄馬は向かい側のソファーに座り、煙草を取り出し火をつけると、ため息を着くようにして煙を吐いた。
「お前には感謝してるよ……正直何もかも面倒くさかったからさ、部屋探しから引越しまで手配してくれて……すまんな」
「まあそれは気にすんな。それより薬、ちゃんと飲んでるのか?」
「ああ、通院もしてるし、抗鬱剤もちゃんと飲んでる……」
「ならいい……お前まで恵ちゃんみたいになっちまったら……って悪い、今のは失言だった」
恵は俺の妻……だった女性の名前だ。
雄馬と俺、そして恵は、同じ高校の同級生だった。
俺にとって大切な女性であり、雄馬にとっては大切な親友の一人なのだ。
「いいさ、お前にとっちゃ大切な友達なんだから……」
「あほか、そりゃお前も含めてだ……頼むから二人揃っていなくなるなんてのはやめてくれ……」
「ああ……」
複雑な面持ちの雄馬に、俺はゆっくりと頷いて見せた。
「たまには気分転換に呑みにでも行かないか?何なら女の子でも紹介するぞ?お前もまだ若いんだしさ、」
「雄馬も同い年だろ、親戚のおじさんみたいな事急に言うなよ、一気におっさんくさくなったぞ」
言いながら俺が苦笑いを零すと、雄馬も安堵したのか小さく笑い返してきた。
「あっ……」
「ん?」
雄馬が突然、何かを思い出したかのように小さく声を漏らす。
「そういえばさ、この家、何か変な事とか起きたりとかしてないか……?」
「変な事?」
俺が聞き返すと、雄馬は少し考えてから訝しげに口を開いた。
「この家一応リフォームはされてるんだけどさ、ちょっとした曰く付きなんだよ」
「曰く付き?」
雄馬の話に俺は眉をひそめた。
「ああ、つっても誰かが亡くなったとかじゃなくてな、ほら、何年か前にさ、この辺で変な宗教団体の連中が捕まった事件があっただろ?」
雄馬の話に俺は聞き覚えがあったため、とある事件について思い返していた。
確か、怪しげな手法で信者を勧誘し、修行と称して信者達にかなり過酷な事を強いていたとか。
信者達は強制的に集団生活をさせられ、労働から家事まで、昼夜問わずあらゆる事をやらされた挙句、教祖によって搾取され続けたのだとか。
そんな事が二十年程続き、やがてついに信者の中に死者が出てしまった。
当時の教祖はそれを隠蔽しようとしたが、信者の告発によって表沙汰になり、遂に逮捕されたと、ニュースで騒がれていた時期があった。
後に色々と余罪も出てきて、未だ長期にわたって裁判は続いていると聞いている。
「えっ……まさか、この家がその宗教団体の……?」
嫌な予感がし雄馬に聞き返すと、彼は頬を人差し指で描きながら苦笑いを浮かべた。
「いや、お前が引っ越した後に事情聞かされてさ、いつ話そうか迷ってたんだが……」
「おいおい……はぁ……まっ、別にいいけどな」
「え?いいのか?あんまり気持ちのいいもんでもないだろ?」
「まあ気持ち悪くはあるけど……俺にとっちゃあの場所から離れられるならどこでもいい、」
「な、ならいいんだが、本当にすまんな……」
雄馬はそう言って再度頭を下げてきた。
「て言うか葵、お前ちょっと痩せたか?」
「そうか?」
雄馬の言う通り。確かに痩せたのかもしれない。
薬の副作用もあって食事が喉を通らない事もあり、余りまとまって食べた記憶が、ここ最近はないような気がする。
「何か栄養のある物も食べろよ?コンビニや出来合いものばかり食べてたらだな……」
雄馬はその後、約一時間近くに渡って俺の食生活が何やらと小言を言い始め、結局彼が帰る頃には夜になっていた。
雄馬の必死の説得も虚しく、大して食欲もなかった俺はインスタントラーメンを食べ、薬を飲んでベッドに横たわった。
微睡んでゆく視界、薬が効いてきたのかもしれない。
そう言えば、恵も同じものを処方されていた。
そしてこの薬を大量に服薬し、帰らぬ人となった。
俺も、この薬をもっと飲めば……。
瞼が重い……。
体を襲う激しい脱力感、それに抗えず、俺はゆっくりと意識を閉じた。
夢を見た……。
暗闇で泣き続ける恵の夢を。
どうして泣いているの?
そう声を掛け、彼女の肩に手を置いた時だった、
──何で貴方は生きてるの!?
激しく怒りに満ちた様な声で、恵が俺を押し倒し、馬乗りのまま俺の首に両手を……。
「うぐっ……!?」
突然首と腹に違和感を感じ、俺はベッドから飛び起きた。
その瞬間、
「なっ!?」
薄らと、儚げな少女の姿が視界に入った。
目には涙を浮かべ、微笑むような顔をしている。
だがその姿は一瞬で掻き消え、まるで幻でも見たかのような気分だった。
「い、今のは……?あれ……?」
口元が濡れている。
枕元を見ると、飲んだはずの薬がベッドに染みを作り転がっていた。
寝ているうちに吐いてしまったのか……?
動悸が激しくなり、額に冷たい汗が浮かぶ。
俺はそのまま慌てて起き上がると、洗面所へと向かった。
次の日、俺は一人昨夜の事を思い返していた。
ソファーに深く腰かけ、ベッドをじっと見つめる。
夢の中で恵に首を閉められていた……。
そして起きてみれば、見た事もない少女が俺の体の上に馬乗りになって……。
まさか、アレに首を絞められたとか……?
「ふふ、まさかそんな……」
思わず首を横に振り呟いた時だった。
壁に埋め込まれた姿見の横に掛けていた帽子が、パタリと音を立て床に頃がった。
反射的にびくりと肩を震わせる。
何なんだ一体……。
その日を皮切りに、家では不思議な事が起こり始めた。
物が勝手に落ちたり、普段は付けっぱなしの電気が突然消えたり、いつもはカラスの行水でシャワーしか使わないはずなのに、風呂釜に沸かしたての湯が張ってあったり……その中でも特に酷いのが、何者かの視線、常に誰かに見られているような気がし、不意に振り向くと気配が消える感覚が何度もあった。
そして「あ……」や、「う……」など、女のか細い声のようなものが、たまにだが微かに聞こえてきたりする事もあった。
最初は薬の副作用による幻覚や幻聴なども疑ったが、流石にこう頻繁に起きると薄気味悪さを感じる。
生きる事に疲れたとはいえ、やはり怖いものは怖い。
「とまあ気にし過ぎなのかもしれないけど……」
『まじか……流石に幽霊が出るとかオーナーには聞いてないんだけどな……死人が出てる何て事もないみたいだし』
通話口から雄馬の不安げな声が聴こえた。
俺は今、悩んだ末に彼に相談する事にし、事の一部始終を話して聞かせた。
「幽霊が首を締めたりとかするもんなのか……?」
『いやそんなの俺に聞かれてもな……でもまあ怖い話なんかではたまに聞いたりするな、そんな話……』
「勘弁してくれ……俺が何したって言うんだよ」
『さあな、向こうさんからしたらこっちの事情なんて関係ないんじゃないか?』
「人事だからって適当な事言うなよ」
『悪い悪い、まあ紹介したのは俺だしな、こっちでもその辺の事情探ってみるよ。でも葵、あんまり気にし過ぎるのも良くないぞ?そうじゃなくてもお前まだ精神的にも肉体的にも疲れてんだ、病は気からって言うだろ?』
その後、雄馬お得意の小言が始まりそうだったので、俺は適当に理由を作って通話を切った。
気の迷い……それで済めばいいのだが……。
が、そんな気休み程度の俺の思いは、見事に裏切られる事となった。
その日、事件が起きた。
いつものように大して食欲もわかずインスタントで済ませ、早々と寝付こうとした時だった。
薬もあまり効かず、妙に寝付けない。
ベッドでモゾモゾとしていると、
──カチッ
突然部屋の電気が消えた。
ドキリとしながらも、掛け布団の隙間から暗がりの部屋を様子見る。
誰もいない。
だが気配はする。
まるで俺以外の誰かが部屋の中を行き来しているような……。
──ガチャッ
キッチンから音が聴こえた。
続いて食器や冷蔵庫の扉の音まで聴こえる。
緊張で手に汗を感じ始め、唇がブルブルと震え出した。
ラップ現象と言うやつだろうか?
俺は息を殺してキッチンの方を凝視した。
一瞬何かが鈍く光ったような気がした。
そして暗闇の中、青白く、薄らとした輪郭が微かに見て取れる。
長い髪の少女のような……。
透明に近い手と思われる箇所には、何かが握られていた。
キッチンからこちらへと近付いてくる。
テーブルに置いてある本が、風もないのにパラパラと音を立て捲れた。
何をしているんだ?
気になり更に目を凝らす。
すると、俺の視界にとんでもないものが映ってしまった。
さっきのギラりと光ったもの、あれは……包丁だ……!
気が付くと、俺は無我夢中で叫んでいた。
ベッドから飛び起き、叫びながら玄関に走ると、着の身着のまま外へと飛び出した。
途中、部屋の方から女の叫び声のようなものが聴こえた気がしたが、そんな事に構っていられなかった。
結局、財布もスマホも置いてきてしまった俺は、他に行くあてもないので、片道一時間はかかる道程を歩き、雄馬の家を訪ねた。
「幽霊に刺されそうになったあ?」
寝起きで不機嫌そうな雄馬が、居間で俺に淹れたての珈琲を手渡しながらそう言った。
「いや、本当なんだよ!確かに見たんだ!」
必死に弁明する俺を雄馬は訝しげに見つめてくる。
「な、なんだよ……?う、嘘じゃないぞ?」
「お前……まさか薬ってそっちの薬とかやって……」
「やってるわけないだろ!」
「冗談だよ冗談、分かった、しゃあないからいっちょ確かめに行くか」
「い、行くって家にか?今から?」
「決まってるだろ、車出すから、ほら行くぞ葵」
「ちょ、ちょっと待ってくれよまだ珈琲、」
「んなもんお前の家でも飲めるだろ、いいから行くぞ」
そう言って雄馬は立ち上がり、俺は半ば強引に車に載せられ、再び家へと戻った。
家に戻り部屋の明かりを雄馬が付けてくれた。
俺は彼の背後に身を潜めるようにして部屋の様子を伺う。
俺が家を飛び出してきた状況のままだ。
「散らかしすぎたろお前……」
雄馬が呆れたような顔で振り向く。
「い、いや俺じゃないんだって!」
「これも幽霊の仕業だって?だとしたら相手は片付けの苦手な子供の幽霊って事になるかもな」
皮肉っぽく言いながら雄馬は靴を脱ぎ部屋へと上がった。
「子供……かも……しれない」
俺は雄馬の言葉に少し思い返していた。
暗闇に浮かぶ青白い少女のような輪郭……。
「えっ?まじなの?」
急に不安そうな顔をする雄馬に、俺は大きく頷き返すと、靴を脱ぎその後に続いた。
中央テーブルの周りには週刊誌等の雑誌が開かれたまま落ちていた。
特にキッチン周りはかなり酷い。
ボールや小さな鍋、冷蔵庫は開きっぱなしで卵が数個床に落ち割れている。
オマケに水が出しっぱなしだ。
「お、思っていたより酷いな……」
「だ、だろ……?」
半信半疑だった雄馬がようやく状況を飲み込んでくれたらしい。
俺はとりあえずそれ以外に異変はなさそうか確認すると、テーブル周りに落ちていたものを拾い上げた、すると、
「こ、これ……」
俺は上擦る声で本の下にあったものを恐る恐る拾い上げ雄馬に見せた。
包丁だ。
「おいおいシャレにならんぞ葵……」
「だから言ったろ……この前のやつだって絞め殺されそうになったんだぞ……」
血の気が引いていき顔色が青ざめていく感じがする。
「ん……?なんだこれ……」
すると、突然何か疑問に思ったのか、雄馬が転がっていた雑誌をまじまじと見始めた。
「どうした雄馬?」
「ちょっと待ってくれ……あ、こっちもだ……これも……」
「な、何かわかったのか?」
「なあ……ひょっとしてこれ、料理を作ろうとしてたとか……?」
「はあ?」
突拍子もない事を言い出した雄馬に、俺は顔をしかめながら聞き返した。
「いや……本のページ、全部料理のレシピなんだよ……」
「レシピ?」
俺は雄馬が手に持っていた雑誌を奪いページに目を通す。
「体調を整える為の栄養花丸料理……」
読み上げつつ他の開かれたままの本にも目を通した。
「絶品、栄養満点雑炊の作り方……」
それ以外の雑誌も、どうやら雑誌の料理コーナーだけがメインに開かれている。
「見てみろよ葵」
キッチンから雄馬の声が聴こえ、近づいてみると、そこには先程雑誌で見たレシビで使う、似たような材料が散乱していた。
「俺がこの前栄養のあるもの食えって言ったせいかな?はは……?」
雄馬が言いながら乾いた笑みを浮かべた。
「そんなアホな事あるか、普通は……」
もう何が何だか分からなかった。
言いもしれぬ恐怖はいつの間にか消えていたが、正直更に頭は混乱している。
結局、その後雄馬は一人で帰っていた。
不安なら家に泊まるかとも言われたが、俺はそれを断った。
余りにも納得できない事に、少し一人で頭の中を整理したかったからだ。
「俺に……料理を……?」
すっかり片付けたキッチンを見ながら、俺はポツリと呟いた。
「う……」
「えっ?」
突然だった。
壁に埋め込まれた姿見の鏡の方から、微かにか細い女の声が聴こえたのだ。
唖然とし、口をぽかんと開けたまま鏡を見た。
「い、今声が……」
俺は急いで鏡に近付きまじまじと覗き込む。
もしかして……。
ふと思い立ち、部屋の明かりを消してから再び鏡へと近付く。
「あっ……」
思わず俺の口から声が漏れ出た。
鏡の中、薄らと青白く浮かぶ少女の姿が、そこにあったのだ。
驚きはしたが、先程の一件の事で幽霊に対しての恐怖感はかなり薄れていた。
「えと……ほ、本当に料理……作ろうとしてくれたのか……?」
馬鹿げている質問、そうは思ったが、恐る恐る、鏡の中でモジモジとしながら立ち尽くす少女に、俺は思い切って聞いてみた。
歳は14~15と言ったところだろうか?
長く伸びた髪は腰まで伸び、えらくサイズの大きな白いドレスを着ている。
逆にそれがどこか不格好で可愛くも見えた。
俯きつつ、たまにこちらをチラチラと見ながら、少女は小さく小首を縦に振って見せてくれた。
「ま、まじで……ほ、本当だったのか……は、はは」
その見た目にすっかり安心してしまったのか、俺は幽霊相手に苦笑いをこぼした。
「待てよ……じゃ、じゃあこの前のアレは……俺の首を閉めたんじゃ……?」
鏡に向かってそう尋ねると、少女は慌てて首をブンブンと横に振って見せた。
「じゃあアレは何だっ……いや……もしかして!?」
そう言い残し、俺は慌てて薬箱の中身を確認しに行った。
抗うつ薬の袋を取りだし中身を確認すると、処方された薬の残りがかなり少ない。
計算した限りでは残り半月分は残っているはずだ。
そこまで考え、俺はあの悪夢を見た晩の事を思い返した。
確かあの薬を大量に飲めば……そんな物騒な事を考えつつ寝てしまい、起きるとベッドで薬を吐いていた。
汚い話し、内容物はあまりよく確認せず、洗うのが面倒なのでシーツ事包んで燃えるゴミに出してしまったのを覚えている。
まさか……あの時も俺を?
ハッとして鏡の前に戻り、不安げにこちらをチラチラと見る少女に、俺はできるだけ落ち着いて話し掛けた。
「薬を飲み過ぎた俺を……助けてくれ……た?」
すると少女は、
「う……」
そう一言発しながらコクコクと首を縦に振った。
「くくく……」
「う……?」
「くく……あははははっ!」
堪えきれず、俺はいつの間にか床に座り込み、腹を抱えて大笑いをしてしまった。
鏡の中では、少女が不思議そうに小首を傾げている。
「くく……ごめんごめん、き、君を笑ったわけじゃないんだ。何ていうかその、余りにも意外過ぎる展開でその……」
俺の言葉に、少女はまたもや照れながらモジモジとしだした。
その様子が余りにも可愛くて、思わず全身から力が抜けてしまった。
ここ数日の緊張感がまるで嘘のようだ。
ふと鏡を見て、ここに引っ越してきた時の事を思い返した。
壁に埋め込まれた姿見。
それをぼうっと眺めていた時の事、不意に鏡の中に学生時代の恵が映ったような気がした。
懐かしい記憶、俺は思わず鏡に手を触れそっと撫でた。
そこにいるはずのない、恵の幻影の頭を、そっと愛おしく……。
「初めて来た時さ……俺、鏡を撫でただろ……?もしかしてアレも君だった……?」
鏡を見上げそう声を掛けると、少女は今までよりも激しく何度も首を縦に降り、とても嬉しそうに笑みを咲かせてくれた。
「あれは……君だったんだな」
少し残念でありつつも、どこか救われた様な気持ち。
だいたいこんなに大笑いしたのはいつ以来だろう。
恵と暮らしていた頃だって、追い詰められていく彼女に、俺は愛想笑いぐらいしか返してやれていなかった。
「ありがとう……」
「う……?」
少女のか細く聞き返すような声。
俺はその声にくすりとしながら、
「君に救われたんだ……だから、ありがとう」
そう言うと、鏡の中の少女は照れ笑いを浮かべ、まるで小さな花が芽吹いたように、微笑み返してくれた。
鏡の少女との出会いの一件以来、俺の生活は一変した。
ずっと仕事もせず引きこもっていた俺は、務めていた編集社にも顔を出すようになり、リハビリがてらに、ちょっとした仕事をもらった。
流石に毎週連載という訳にはいかないが、月一でも好評であれば記事を拡張してくれるという約束も取り付ける事ができた。
家には買い物を済ませると真っ直ぐに帰るのが定例となった。
インスタント類も一切やめ、なるべく健康にも気を使うようになった。
そして寝る前になると、部屋の灯りを消し、鏡の前に座って話し掛ける。
すると少女はそれを待ちわびていたかのように鏡に現れ、俺の話に耳を傾けてくれた。
最近では「う」や「あ」以外にも短く言葉を返す事もできるようになったみたいだが、長い話はできないみたいで、大体が俺の独り言を、彼女が楽しそうにしながら聞いてくれるという流れだ。
たまにぬいぐるみなんかをお土産に買って帰ると、少女はそれを泣きながら喜んでくれた。
それ以外にも、テレビとソファーを鏡の近くに置いて、一緒に映画を観たりすることもあった。
どうも幽霊のくせにホラー映画は苦手だと言う事が分かった。
驚き怒った彼女は、二三日鏡に現れてくれなかったからだ。
他にも色々と変化があった。
俺は薬を減らす事ができ、依存することも無くなった。
対して彼女は、たまにだが、暗がり以外でもその姿を見せてくれるようになり、食事の用意を手伝おうとして食器をよく割るようになった。
幸せな日々が続いた。
自暴自棄になっていた時に比べ、俺は生きる事に前向きになっていた。
が、そんなある日の事だ、
「少女の正体が分かったかもしれない……?」
俺は出先で突然掛かってきた雄馬の着信に出ると、いきなり彼からそう告げられた。
『ああ……しかも警察も動いているらしい。オーナーからは事件に関わる事だから口止めされているんだが、やっぱりお前には話しておかないといけないと思ってな』
「事件……き、聴かせてくれ」
俺はそう答えると、雄馬はゆっくりとその件について詳しく語って聞かせてくれた。
「分かった……ありがとう雄馬」
「あ、ああ。とりあえず早々に次の引越し先を探……」
雄馬がまだ言いかけていたが、俺はそこで通話を切った。
話の内容に頭の中の整理が追いつかない。
それに、これは俺だけの問題ではない、彼女に、あの少女にも伝えなければいけない事ではないのかと、俺は確信していた。
「何で……」
そう一言こぼし、俺は握った拳をわなわなと震わせながらその場で俯いた。
ゴロゴロと雲間から音が響き、肌にまとわりつくような風が吹きだした。
ぽつりぽつりと、空から冷たい雫が落ち、乾いたアスファルトに染みを作り、やがてそれは大きな染みとなって、街中を濡らし始めた。
往来する人達が慌てて屋根のある場所に避難する中、俺だけがその場に留まり、曇天の空を睨みつけるようにして、いつまでも見上げていた。
ずぶ濡れのまま帰宅した俺は、濡れた頭も拭こうとせず、真っ直ぐ部屋の鏡の前に向かった。
時刻はまだ午後3時頃だったが、灰色の雲が街中を暗く包んでいた。
薄暗い部屋の中、時折遠くで鳴り響く落雷の光に合わせるようにして、少女がその薄らとした姿を表した。
俺を見るなりどうしたのかと慌てているようだ。
「なあ……君は何者か……自分が何者なのか……知りたいかい?」
俺は落ち着いてゆっくりと口を開き聞いた。
以前にも似たような事を彼女に聞いてみた事があったが、どうやら全く覚えていないようで、あらゆる手段で質問を試みてみたがダメだった。
語れないと言うよりは、自分が何者かさえ、あまりよく把握できていない様子だったからだ。
「今日……友達から聞いたんだ……君の事……君も知るべきだと、俺は思う……君は、どうする?」
少女はしばらく不安げな表情を浮かべていたが、やがて決心したのか、俺に大きく頷いて見せた。
「分かった……事の発端は、この家からだ……」
俺は重苦しい口を開き、雄馬から聞いた事の真相を彼女に聞かせることにした。
逮捕された宗教団体がまだこの家に住居を構えた頃だ。
信者には若い女性も多く、教祖は自分には逆らえない事を知っていた女性に、無理やり関係を迫っていた。
やがてそんな事が続いた時だ、女性に子供ができてしまい、教祖は慌てた。
堕ろせる時期はもう過ぎてしまっていた為、子供の事が世間にバレれば大変な事になってしまうと教祖は考えた。
そこで、教祖はある部屋を作り、その部屋で子供を産ませ匿うことにした。
やがて子供少しづつ大きくなり、その世話は主に女性信者達が行った。
子供は学校にも通わせて貰えず、狭いその部屋だけが、彼女の全てだった。
基本的な教育は信者達から学び、それ以外の事は本やテレビで覚えたようだ。
しかしある時問題が発生した。
産みの親である女性が過労の末亡くなったのだ。
教祖はそれを隠蔽するため女性の遺体を山中に隠した。
そして子供をどうするか思案している最中、タイミングが悪い事に、子供が病気を患ってしまったらしい。
亡くなった女性は医学に精通していたため今までは何とかなっていたが、その女性も既にこの世に居ないため、子供の事に困り果てた教祖は、最悪な決断をくだした。
日々弱っていく子供を、教祖は病院にも連れて行かず見殺しにしたのだ。
そして子供の死を隠すために、遺体を隠した。
その後、宗教団体はここを引き上げ、一連の事件で逮捕となった。
しかし、最近になって別の信者から新しい証言が取れたのだ。
他にも死人がいたという事実を。
一人はここで死亡し山中に遺棄され、そしてもう一人は子供……いや、俺の目の前で、真実を受けきれとめられず、目にいっぱいの涙を溢れさせた少女、そう彼女こそが、存在自体をこの世から抹消された子供だったのだ。
「もうすぐ警察が捜査礼状を持って家にやってくるだろう……」
俺は少女に全てを話終えると、予め家に戻る前に購入した工具道具を袋から取り出し鏡に向かった。
不慣れな手つきで壁に埋め込まれた姿見の金具を外していく。
最初から不自然だった。
こんなところに、リフォームされたはずの部屋に埋め込まれた姿見の鏡。
やがて全てのネジと金具を取り外し、ボロボロと崩れ落ちる壁の破片を払いながら、俺は鏡を丁寧に剥がした。
真っ白な壁に反し、鏡が貼り付けられていた壁だけが、コンクリートで雑に塗り固められている。
その中に、ボロボロになった布切れのような物が僅かにみてとれた。
そして、白骨化し黒ずんだ人の骨のようなものが、配色のコンクリートの中に混ざり会うようにして塗り固められていた。
「これが……き……君……」
それ以上、俺は何も言えなかった。
肩を震わせ、嗚咽を漏らしながら俺はその場に膝から崩れ落ちてしまった。
幼い少女に残酷な現実を突き付けてしまった事、そしてもう、これ以上これまでの穏やかな日常は続かない、全て終わってしまうのだと知ってしまったから……。
だが、その時だった。
ふわりと、何かが俺を包む気配を感じた。
微かに鼻先を掠める淡く甘い匂い。
「えっ……?」
ハットし涙で歪む視界で顔を上げると、そこには、俺に覆い被さるようにして抱きついている少女の姿があった。
「何……で……?」
そう返すのが精一杯だった。
すると少女は、
「あ……あり……が……」
「え、え?」
聞き返すが上手く喋れない。
喉が熱く、鼻がしみて痛かった。
「と……う、ありが……とう……」
言いながら、少女は俺を見つめ優しく微笑んだ。
目に浮かべた涙はキラキラとしていて、それがとても綺麗だった。
自分の生い立ちに悲しむよりも、俺の心配をする少女。
そのまま俺は泣き崩れ、やがて落ち着き立ち上がった時には、少女の姿はもう、そこにはなかった。
やがて玄関先から数人の足音が聴こえてきた。
──ピンポーン
「すみません、警察のものですが、ちょっとよろしいですか?」
ドアの向こうから呼びかける声に、俺は、
「ドアなら空いています、どうぞ中へ」
と、聞こえるくらいの声で返事を返した。
やがて部屋の中へ数人の警察官らしい男達が数人なだれ込んできたが、鏡の前に立つ俺を見て、皆言葉を失ったようにして立ち止まってしまった。
「ああ……これですか?」
俺はそう言ってコンクリートに塗り固められた少女に優しく手を触れ言った。
「俺の……俺の大切な……彼女ですよ……」
独り言のように呟きながら、俺は涙を零した。
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