とても綺麗な星空だった
何が起こったのか。理解する前に終わっていた。
「げほ」
辺りに充満する煙に涙があふれ、視界がぼやける。咳が止まらず、吸い込む息には森や生き物の焼ける臭いが混じり、吐き気がした。
「梓、これより下は火の海だ。水場へ向かう」
振り返る前に梓の背から、糺の腕の中へと移される。煙の中でも隠し切れない、血の臭いがした。
「時雨様、こちらへ。梓、先行して確認しろ」
「・・・わかった」
炎が全てを赤く染め、梓の顔色は分からない。だが声はいつもより弱かった。
――――いやだ
梓、いや、梓ではない彼女達は、怯えていた。怒っていた。悲しんでいた。
心が千々に乱れて、壊れていた。痛ましいほどに、粉々に。
・・・どうして、視えなかったんだ
望んだものを視ることは出来ない。だがそんな力でも、命の危機だけは望まなくとも視えたのに。
火が現れた時も、大きな音と風が起こった時も、屋根が崩れてきた時も、なにも視えなかった。何も出来ないうちに、糺に庇われて外にいた。
燃えていた。眩しいほどの赤が、全てを燃やしていた。
火。火。火。あの火を、時雨は知っていた。見た瞬間、理解した。
あれは神が与えた“火”だ。ただの稀人ではない。“
だが、どうして。
刺客でも使い捨ての駒でもない。四巫が時雨を殺そうとするなら、それは皇子や妃ではなく、
「時雨様」
優しい声が、最悪を打ち消すように降ってきた。
糺は笑っていた。そこら中燃えていて、大きな音とわけがわからない力が飛んできて、誰かの体が焼ける臭いがする中で。
「弟妹がいるか、と聞かれたことがありましたね」
不釣り合いな優しい声で、数時間前の、遠い昔にしたような会話を掘り返す。
「嘘はついていません」
眠れない夜、物語を語ってくれた時のように。
「ですが、言わなかったことがあります」
「弟妹がいるか、と聞かれたことがありましたね」
我ながら時機が悪いと心の中で苦笑する。だが話しておくべきだと思った。
この優しい子どもが、この先すこしでも心穏やかに生きていけるように。
「嘘はついていません」
ただ、言っていなかったことがある。
「姉と、弟が、いたんです」
糺が生まれた時。朽葉の家は要職から外れて久しい、いわゆる落ちぶれた状態だった。
朽葉という姓すら始祖が賜ったものではなく、最早終わった、朽ちた家という侮蔑からつけられた姓で。領地は何代にもわたって理由をつけては奪われ、あるいは地位欲しさに献上し、有益な土地はほとんどない。
だから朽葉が売れるものは、人しかなかった。
元々武を極めた一族として、その力は知られていた。ただいつからか国の守護者ではなく、使い走りの捨て駒に変わってしまった。
宮廷など知るかと距離を置いた当主もいたが、ここ何代かは家名を挙げることに執心する当主が続き、稀人が嫌う危険な仕事や汚れ仕事は、ほとんど朽葉や、領主たちの私兵である軍の仕事だった。
祖父も同類で、力を見せれば再び過去の栄光が手に入ると思っていた。
神を自称する者達が、下僕と見下す者達のことなど、気にかけるわけがないだろうに。
とっくに切れた命綱に縋って、現実を見ていなかったのだ。
「姉は朽葉とは思えないくらい荒事が苦手で、弱い人でした」
だから背負った者ごと、真っ逆さまに落ちていった。
「ある日、姉は神使府に連れていかれました。討伐の手伝いといって」
血を見るだけで、青ざめるような人だったのに。
「帰って来た時は、もう、姉は」
戦いではなく、救護の手伝いなのだと。こんな私でも役に立てるのだと。
「姉ではありせんでした」
笑って送り出された姉は、もう二度と笑えなくなった。
「壊れて、壊されてしまった。姉を連れて行った者達に。
戦う代わりに、ひどい、ああ、聞かないでください。あなたにも、梓にも、聞かせたくない。口にすることすらおぞましいことをされて、すっかり壊れてしまって」
――――おねがい、わたしをみないで
「帰って一月後に、首をつって死にました」
井戸に足をかけた梓が振り返った。炎に照らされた茜色。糺の好きな夕暮れの空を映した瞳が揺れた。
「弟は、その半年後に。やんごとなき方の遊び相手にと。朽ちて散るだけの一族には光栄だろうと、連れていかれて」
腕の中の時雨が顔を上げた。上手く笑えているだろうか。
「数日後に、獣に噛みちぎられた残りが、門の前に放り出されていました」
笑顔なんて何度も見ていたのに。記憶の中の姉と弟の顔は、最期の表情に塗りつぶされてしまった。
「憎かった」
どうして守れなかった、何故止められなかった、何故その場にいなかった。
「私の大事なものを踏みにじって、穢れなど無いような顔で、生きている。
人の皮を被った獣どもが、憎くて、おぞましくて」
姉と弟はいないのに。奴らが生きて、自分が、何もせずにのうのうと。
ひとりだけが生きているなど、耐えられない
「殺しに行こうと、刀を持って、夜中に門を出たら」
――――姉と弟が、帰ってきたのかと思った
扉の前に立っていたのは柳のように細くて、青ざめた、妙齢の女。
それと彼女に手を繋がれた、男児、いや、稚い女児だった。
「お前がいたんだ、梓」
『こちら様は、一族以外でも、望めば受け入れて下さるとききました』
祖父達にとって人は消耗品で、補充のために孤児を買っているうちに、売りに来る人間が増えた。
表向きは孤児を教育して人材を育てる、などと綺麗事を並べていたが、遊郭との違いは色を売るか命を売るかくらいだろう。
だが、現れた女は人買いにも、食うに困った親にも見えなかった。
『娘の、梓です。今日で五歳になりました』
幼子が、まっすぐに糺を見た。
『この子に、戦い方を教えてください』
手が、
『わたしが、行きたいって言った』
小さな手が、彼の手を掴んだ。
『死にたくない』
苦しかっただろう、痛かっただろう。きっと何度も助けてと、叫んだだろう。
『だから、誰より、強くなりたい。助けて、ほしい、です』
けれど助けは来なかった。だから、姉と弟は、死んでしまって、でも
『わたしのこと、強くしてくれますか?』
今、彼に、糺に、助けを求めるこの子は、生きている。
糺は、彼は、今、この子の求めるものを渡すことが出来る。
だから
『大丈夫だ』
刀を置いて、膝をついた。
『君が望むなら、俺が出来ることは全部してあげる』
小さな手を握り返して
『君が生きられるように』
殺すより、死ぬより、この子供と生きる方を選んだのだ。
「だめだ」
時雨が手を伸ばすより、糺の方が当然、早かった。
井戸にかけていた梓の足が払われ、真っ逆さまに落ちていく。そのまま時雨も引き離され、井戸の端に立たされた。
「だめだ糺」
糺は笑っている。その笑顔を時雨は知っている。
あの時と同じ。乳母が死ぬ前、最期に見せた笑顔と同じ顔。全部を決めてしまった顔。
「時雨様」
「いやだ、なんで。三人で行こう、なんで」
止めようと手を伸ばして、真っ赤に濡れた手に、気付いてしまった。
周囲はごうごうと燃えていて、それは嫌でも見えてしまった。
時雨の手は赤く染まっていた。まだ乾いていない血。時雨のものではない血。
抱き着いただけで手に移るほど、糺の体は血に染まっていた。ぼたりと新たな雫が落ちて、糺の足元に血だまりをつくる。
「不敬な事ですが」
黒いスーツから覗くシャツは、赤かった。なのに糺は笑う。今までで一番優しく、頭を撫でる。
「弟がもう一人出来たみたいだなんて思ってしまったんです」
ああ、糺は嘘つきだ。
「ですからお傍を離れること、許しは請いません」
約束したのに。僕なんかに命をかけるなって、いったのに。
「望まなくても、自分勝手でも、守り通すのが“家族”ですから」
いつだっていなくなる準備ばかりして、一緒に生きてはくれないのか。
水面に打ち付けられた痛みで、息が詰まった。
もどかしい気持ちを抑えて力を抜き、水面に上がった瞬間に梯子に手をかける。加護を使って重さを減らし、腕の力で一気に登る。でも、
「梓」
忌々しい炎に照らされた顔が、はっきりと見える。でも手は届かない、その距離で、糺が笑った。
「あの時、約束しただろう?」
心臓が激しく脈を打った。私は未来視の加護なんてないけど、それでも
「お前が生きられるなら」
わかってしまった。糺がなにを選ぶのか。
「俺に出来ないことはないよ」
白刃が煌いて――――世界が反転した
梯子を支えていた縄が断ち切られた。
昏い穴に再び投げ出され、馬鹿みたいに輝く星空が遠ざかっていく。
「あ――――」
後を追うように、時雨が落ちてくる。思わず受け止めて、視線を上げたけど。
あっという間に離れていって、手を伸ばしても、もう、おしまい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます