朽葉糺の記憶 前



朽葉糺の家はありふれて、歪だった。


「姉を何より大事にしなさい」

「朽葉の跡継ぎらしく誰より強くなりなさい」

「お前は私の言うことを聞いていればいいの」

「使えない人間には関わるな。時間の無駄だ」


母も祖父も糺の意思を問うことはなく、常に何かを命じてくる。

上手くこなすのは当然で、失敗すれば責められる。糺の意思は関係ない。


祖父は厳しいが孫への愛情はあるだろう、と感じる程度の交流はあった。

姉と弟は糺より弱くて母に愛されていたが、姉弟としてそれなりに情はあった。

父は滅多に家にはいなかったが、家族では一番糺のことを考えてくれている。


よくある家庭で、円満ではなくとも不運と嘆くことでもない。

ただひとつの不幸は、母が歪な人であったことだ。


「お父様、糺はまだ五歳ですから」


糺を叱る祖父を宥める母はいつも困ったような顔をしていたが、声には喜びが滲んでいた。


朽葉らしく最強であれ、と命じながら、母は糺が強くなることを喜ばなかった。

むしろ祖父に叱られれば叱られるだけ、母は喜んだ。糺の前では庇うようなことを言いながら、他所ではまだまだ駄目だ期待するほどではないと嬉しそうにしている。


何を考えているか全く理解できない存在だった。

そういう人なので親子らしい交流もなく、期待も失望もない。幼子の時は覚えていないが、記憶にある限り愛されたいと願ったことも、なぜ自分ばかりと恨んだこともない。


ただ自分を産んで、命令してくる人間。愛憎もわかない、関心のない相手。

歪な母との関係は真っ当ではなかったかもしれないが、特に疑問に思うこともなかった。


「糺、大丈夫?おじいさまに痛いことされなかった?」


母に比べて姉は分かりやすかった。

一緒にままごとに興じれば喜んで、怪我をした時や叱られた時は自分の事ではないのに悲しむ。


「ごめんなさい」


そして平気だと言えば、なぜか俯いて涙を流す。


「ごめんね、糺。わたしが何も出来ないから」


それぞれはなんでもないことだった。

ただ姉が泣いて、母が居る、その二つが揃うと煩わしいことがあった。


姉を慰める糺を押しのけて、母は姉を抱きしめ甘やかした。

そしてだいたい糺は訓練や課題を山ほど押し付けられて、終わるまで寝ることが許されない。

糺を鍛えたところで姉が泣き止むことはないのだが、母にはそれが理解出来なかったのだ。


姉の父は糺が生まれる前に亡くなって、母が愛した人だった。

だから愛した人の娘である姉は朽葉の姫として大切に守り、尊重されるべき存在。

契約の結果生まれた糺は朽葉の後継として誰より強く、弟として姉に傅く存在。


母はそうあるべきだと、まかり通ると信じていた。

しかし強さこそ全てであり、強い者こそが正しいと母自身も定め、定められてきた朽葉では通じなかった。


誰よりも厳しい鍛錬をこなし、六歳にして師を圧倒する才覚を見せた糺と、着飾って守られているだけの姉では比べるまでもない。

祖父も一族も、老人から幼子に至るまで皆が糺を次期当主として尊敬し、姉は遠ざけられた。

数代前に失われた“朽葉の色”である髪と目を糺だけがもっていたことも遠因であったかもしれない。

姉が遠ざけられるにつれ、彼女を過剰に庇護する母も当主としての力を失っていった。


期待とはかけ離れた現実を許せなくて、母は糺の“代わり”と弟を産んだ。

そして弟が一歳になった時、力を示そうと宮廷から幽鬼の討伐任務を受けた結果、朽葉は主戦力の大半を失い、母も命を落とした。


母の無謀の代償は、彼女の命くらいでは賄えなかった。

無益な戦いで家族を失い憤る者達を引きつれて、父は朽葉を出て行った。糺が八歳の時だった。


絞りかすのような栄誉を失った祖父は地位を取り戻すことに執着し、理性を失っていった。

妄執する老人と寄る辺ない子供ばかりになった朽葉を、泣くばかりの姉を、幼い弟を、一族を守るのが糺の役目になった。


朽葉の殺戮人形。顔色ひとつ変えずに亡者を、罪人を、命じられるがまま殺す子どもたち。

初めから、そのように生まれたわけがない。大人たちは死ぬか、出て行って、保護者のいない子どもしか残らなかっただけだ。

稀人達は都合よく使っておきながら、野蛮な犬と侮蔑する。祖父達は名誉だ、誇れと命じて、自分達は安全な場所にいながら、と獣どもに子どもを売った。


酷いと嘆いて悲しむのは楽だが、楽をしても、生きる糧は手に入らない。

糺がすぐに出来たことは、他の食い扶持を見つけるまで、売る先と売り方を変えることくらいだった。


神使府が相手にしないような小規模な仕事。稀人を雇えない只人の護衛の仕事。

収入は減る。名誉とやらは得られない。だが生きてはいける。病んで、潰れて、命を絶つ子どもは減る。


祖父や老人共、一部の大人達、共に鍛錬する子どもの中にも、反対する者はいた。

だが黙らせた。朽葉は強さが全てで、糺に勝てるものは誰もいなかったから。


それでも命を落とした者はいた。気に入らないと出て行った者もいた。

糺を殺そうとして、糺が殺した者もいた。


そういうことが減って、出来ることが増えて、協力者が増えて、



―――また、崩れてしまった。崩したのは祖父と姉だった。


姉は母が死んだ後も、他の子ども達と打ち解けることは出来なかった。

母に守られ、囲われてきた人。糺が皆の輪にいる時、羨ましそうにこちらを眺めても、歩み寄ることはない。屋敷の奥で、母の残した侍女と違う世界に生きていた姉。


だが突然、糺が数日家を離れていた間に全てが決まり、帰った時にはもう姉はいなかった。


「成人の祝宴に出た時に、東儀とうぎの家の方が気にかけて下さったのだ。あの子も十八、いつまでも家の奥に置いておくわけにはいかんだろう」


妄執は、未だに祖父の目を曇らせていた。

この国で、天地で、稀人が只人を何の理由もなく気にかけるはずがない。だが誰より、姉が譲らなかった。


「そんなに心配しないで、糺」


今からでも家に帰るべきだと、知人を頼りに何度も姉を尋ねて説得を試みた。だが訪ねて行っても、姉はいつも来てくれて嬉しい、と笑うだけだった。


「私は大丈夫よ。それに怖いことじゃなくて、救護のお手伝いですもの」


みんなも良いことだって言ってたわ。


「こんな私でも役に立てるの。お願い、とめないで」


手紙を書くから、貴方も書いて。学校は近くなんでしょう?心配なら会いに来て。

それは明確な拒否だった。これ以上姉にかける時間は、そんな贅沢は、糺には許されなかった。


領地の管理、仕事の管理、金銭の管理、学校、戦闘、不満を聞いて、祖父を宥め、弟の世話、子ども達の世話、やるべきことは積みあがっていく。

気づいたら、毎日のように届いていた姉の手紙が、途絶えていた。


その後の記憶は、あまりない。


姉は錯乱して、手当たり次第に周囲と自分を傷つけ、手に負えなかった。あれほど姫、姫と持て囃していた母の侍女達は、泣いて無理だと叫ぶだけで、役に立たなかった。自分達が売られた金で、綺麗な世界に生きていた姉を世話する子どもはいなかった。糺が近づくと見ないでくれと暴れる姉は、糺の姿が見えなくなると、見捨てられたと責め立てにくる。


棟梁はあの人と僕らの、どっちが必要なんですか。

仕事が減って、このままだとこの冬が越せません。どうすればいいんですか。


「わたしがきたないから、いらないのね」


どうしてこんなことになった、どうして止められなかった、お前なら出来ただろう!

どうすればいいか分かりません。貴方がいないと、出来ません。

どうして、どうすれば、お前のせいだ、どうにかしろ、どうにか、どうにか、どうにか、どうにか、


「わたしをいちばんだいじにしなさいって、おかあさまにいわれたのに」


嘘つき。信じてたのに。お腹が空いた。死にたくない。


「どうしてだいじにしてくれないの」



記憶は、あまりない。鮮明なのは、学校の友人達が訪ねてきたことくらいだ。



「寝ろ。いますぐ寝ろ」


久しぶりの再会で、開口一番がそれだ。


「■■、出迎えてくれたのにそれはないだろ。いや、でも本当に顔色が悪いな。飯食ってるか?」

「その名前で呼ぶな、嫌いなんだよ。灰古かいこと呼べ。お前は寝ろ」

「灰古の態度が悪くてすまないな。だが、言っていることは正しい。軽く摘まめるものと、夕食に出来るものを持ってきているから、場所さえ教えてもらえれば厨の方に預けておく」

「あ、俺も手伝う。沢山持ってきたし。灰古、糺と部屋いってろよ。客が来てる間なら、誰も来ないだろ。糺、灰古は放っておいていいから、少し休んどけ」

「灰古、寝る前に軽食を食べさせておけよ」

「言われなくとも。こんな顔の奴を働かせる阿呆じゃない。ほら、さっさとお前の部屋に案内しろ。休学中の課題はやっておいてやる。貸しだ」


久しぶりの人との会話だったからだろうか。よく、覚えている。



それからまた記憶は曖昧で、次に鮮明になったのは、姉が死んだ日。



梅雨の合間の、晴れの日だった。

姉が寝ている間に仕事を済ませ、戻った時には全てが終わっていた。



「どうして目を離したんだ!なんでこんな、どうして彩葉いろはが死なないといけなかったんだよ!」


姉の体に縋って、戀十こいとが泣き喚いていた。

糺は涙も出なかった。周囲が泣く分、糺の涙は消えてしまった。いつからか、なんて覚えていない。


「なんで稀人どもの所になんて行かせた!お前、首都の連中と付き合って、あいつらが良い奴だとでも思ったのか!」


何も感じなかった。姉が死んでも、仲間だと思っていたに首を締めあげられても。


「何やってたんだよお前!!!」


今更、なにも


「おにいちゃん」


手を引かれた。小さな手、温かい手、糺と同じ黄金色の髪、朽葉には海色の瞳。


「うつみ」


弟。最後の家族。八歳になったばかりの、糺の弟。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


まだ。まだ駄目だ。


「ああ」


まだ折れてはいけない。大事なものは、まだある。


「大丈夫だよ、うつみ


まだ、


「慈は二の君の遊び相手になる。瞳の色が美しいと気に入って下さった」

「まだ加護は現れていないが、あの海色の目、ついに、我が家にも神の恩恵が」

「この機会を逃す手はない。お前の父親が恩知らず共を連れて行って、終わりかと思ったが。これでまた名誉を回復することが出来る」


「事故だ。まったく、なぜ私がこんなこと。集められたのはこれだけだ、感謝しろ」

「これだけあれば、墓に入れる分は十分だろう」



弟は、弟だったものは、一抱えの麻袋から地面に放り出されて、それだけだった。



もう終わりだ、と祖父が嘆く。糺は笑った。


「終わり?」


嗤いを堪えることなど、もう出来なかった。


「今更気づいたんですか」


もうとっくに、終わっていたのに。




みんなも良いことだって言ってたわ。お役に立てれば家のためになるって。

―――その言葉で使い潰された子どもを減らすため、何年かかったと思っている


棟梁はあの人と僕らの、どっちが必要なんですか。

―――お前たちが投げ捨てろと言っているのは、俺の家族なんだ


どうしてこんなことになった、どうして止められなかった、お前なら出来ただろう!

―――俺がいない時、俺が止めに行った時、お前は何をした。笑って姉に賛成したくせに


わたしをいちばんだいじにしなさいって、おかあさまにいわれたのに

―――うるさい、うるさい、うるさい


何やってたんだよお前!!!

―――全部、全部、引き受けて、これ以上どうしろというんだ


まだ加護は現れていないが、あの海色の目、ついに、我が家にも神の恩恵が

―――手をだす価値もないと思わせるために、どんな侮辱の言葉も受け流してきたのに



誰かの気まぐれで、楽しみで、残酷さで。弱くて、煩わしくて、それでも憎めず、大切だった姉と弟は、死んだ。

もう、この家で糺の大事なものは全て失われてしまった。


空っぽの中で、怒りだけが燃えていた。


どうして守れなかった、何故止められなかった、何故その場にいなかった。

責める言葉は母に、祖父に、姉に、友に、声を変え、頭に響き、糺の怒りを燃やしていた。



当たり前に、明日がくる生き方がしたかった。

道具のように使い潰されることも、搾取されることもなく、大事なもののために力を振るい、糧を得て、寄り添って穏やかに生きたかった。


十五歳の糺の願いは、踏みにじられた。


彼を嫌うものに、彼が大事にしていたものに。

そして連中は大事なものを踏みにじって、穢れなど無いような顔で、生きている。


人の皮を被った獣どもが、憎くて、おぞましかった。

奴らが生きて、自分が、何もせずにのうのうと死ぬことなど出来ない。独りだけ生きているなど、耐えられない。


終わらせ方は、簡単だ。糺がいなくなれば、後はもう終わり。

姉と弟の敵討ちは骨が折れるが、死んでもいいなら簡単だ。


全部終わらせるために、刀を持って門の外に出た。


雪が降っていた。

深々と、宵闇の世界に白が降る。白い息が星の瞬く空に消える。



「あの」



白く細い影と、小さな影。姉と弟が、帰ってきたのかと思った。

いつの間にか気が変わって、知らないうちに首を切っていたのかと思った。だから、死んだ二人が迎えに来たのだと。


だが違った。扉の前に立っていたのは柳のように細くて、青ざめた、妙齢の女。

それと彼女に手を繋がれた、男児、いや、稚い女児だった。二人とも、まだ生きた人間だった。


「こちら様は、一族以外でも、望めば受け入れて下さるとききました」


暗闇の中でもわかる。女の目は弟と同じ、海のような青い目をしていた。

だから言葉が遅れた。裕福ではないが、身なりは悪くない。子どもの衣装には凍えないようにという、母親の気配りが見えた。

ここは、まともな親が頼っていい家ではない。帰った方が良いと、口を開いて。


「娘の、梓です。今日で五歳になりました」


幼子が、まっすぐに、糺を見た。茜色の瞳に浮かんでいるのは、諦観だった。


「この子に、戦い方を教えてください」


母親の声は震えていた。ぽつりぽつりと事情を語る。

運が悪いのか、狙われやすいのか、天災や人災に遭いやすく、母親ではもう守れそうになかった。それでも生きて欲しかった。生きる術を与えたかった。


それは眩しい願いだった。糺にはついぞ向けられなかった、願い。


「わたしが、行きたいって言った」


何も言えずにいると、子どもが口を開いた。母親を庇うように、一歩前に出る。

小さな手が、彼の手を掴んだ。


「死にたくない」


それは当たり前の願いだ。誰もが願っていい、許されるべき、願いだ。

なのにその子どもは、口では生きたいと言いながら、諦めていた。


「だから、誰より、強くなりたい。助けて、ほしい、です」


だが、その言葉も嘘ではなかった。諦めようと願いを捨てながら、まだ生きたいと足掻いていた。

苦しかっただろう、痛かっただろう。きっと何度も助けてと、叫んだだろう。


分かってしまう。だって、糺がそうだった。


糺に助けは来なかった。姉と弟にも来なかった。助けられなかった。でも、


「わたしのこと、強くしてくれますか?」


この子どもの前には、糺がいる。糺はまだ生きている。

今、彼に、糺に、助けを求めるこの子は、生きている。


糺は、彼は、今、この子の求めるものを渡すことが出来る。

生きているから。まだ、生きているから。だから、


「大丈夫だ」


刀を置いて、膝をついた。

冷たかった。雪が冷たい。そんな当たり前のことを、長い間感じていなかったことに、やっと気づいた。


「君が望むなら、俺が出来ることは全部してあげる」


小さな手を握り返して、朽葉糺は生き返った。

ゆっくり死んでいた十五歳の子どもは、大晦日の夜、もう一度生きると決めた。


「君が生きられるように」


絶望で殺すより、怒りで死ぬより、この子どもと生きる方を選んだのだ。



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