挿話 朧の記憶
突然の
「お祭り、ですか?」
常世に落とされた時よりも、すらりと伸びた手足。人でいうならば、すっかり“年頃”と呼ばれる姿に育った少女神に、常世神はこくりと頷いた。
「
「野分が?」
首を傾げた朧に、野分は苦笑を浮かべる。娘が出来て感情らしいものが生まれた主だが、伝える方はまだまだ拙い。
「中つ国でお祭りがあるんですよ。ちょうど“道”の先からすぐの町に」
常世には娯楽はない。ここは生前の執着を削ぐ場であり、現世との縁を思い出すようなものは一切ない。亡者と、彼らが逃げないよう見張る鬼がいるだけだ。
天界では名すら与えられず、常世では暗闇しか知らない娘を、常世神は哀れに思った。
常世神は常世から出ることは出来ず、亡者の野分は現世へ戻ることは許されない。だが天界の神として生まれた朧は、何処へでも行ける。彼女が道を知らないだけで。
「気晴らしに遊びに行っては?きっと楽しいですよ」
神に、後悔という概念はない。
神とは世界であり、その行いに善悪も、正しさも、過ちもない。神が行うことは、そうあるべきことだ。長雨に苦しめられても、雨の過ちを責めることのないように。
神に“私”はない。だから後悔しない。これまではそうであり、そうであり続けるはずだった。
だからこの日。養い子に美しいものを見せたいという、人であれば当然の、神であれば異質の“私”の結果、起きた全てに。
常世神は創られて初めての“後悔”を知った
常世と中つ国を繋ぐ“道”を辿り、現世へと出た朧は、そこで初めて月を見た。
父が彼女の名前に選んだ月。太陽よりも弱いが、柔らかに暗闇を照らす光。その美しい光を名に選んでくれたことが、嬉しかった。
父は気にしているようだが、朧は常世の暮らしに不満など何もなかった。
誰かが隣にいること、気にかけてくれること、それは朧が渇望して、だが絶対に手に入らないはずのものだった。
父は優しい。野分も鬼も、かつては恐ろしくて泣いてしまったが、彼らは朧を見ても何も言わない。汚らわしいとか、役立たずとか、殴りも蹴りも、戯れに髪を切ったり腕をちぎったりもしない。
それで十分だった。本当はひと時だって離れたくはなかった。
ただ父がそうして欲しいと望むから、来ただけで。
生者を見るのは初めてだった。天界に居た頃、生者で遊んだと話していた神はいたが、彼らを天界にまで連れてくる者はいなかった。
亡者は姿かたちが同じでも、たいてい涙を流すか、嘆いて叫んでいるが、この場にいる生者はみな笑っていた。
その姿には、興味がわいた。
天界にいた頃は笑うと怒鳴られたが、常世では笑うと父が喜んでくれる。どんな風に笑えば、父はもっと喜んでくれるだろうか。
ふと、意識の端を何かが掠めた。
指で梳いた時に、髪のほつれに引っかかったような、そんな違和感。
それが何かと気づく前に、提灯と月明りだけの夜に、陽光が飛び込んだ。
「待って!!!」
眩しさに目を細める。長らく嗅いだことのない、甘い匂い。
陽光を紡いだ金の髪、朝焼けの空を映した紫の瞳。そして、ああ、数百年の時など関係ない。睫毛から指先に至るまで、同じ形で生み出されたのだから。
かつての主の娘、朧の唯一の片割れが、そこに居た。
傷一つない、白い指先が朧に伸ばされる。
―――汚らわしい
いや、あそこはもういやだ。
朧は踵を返し、走った。帰りたかった。父の元へ、常世へ、早く、早く、と願ったけれど。
「お願い、朧を止めて」
片割れは望まなかった。朧の願いは叶わない。片割れの望みは叶わなかったことがない。
ごう、と音を立てて、目の前に火が上がった。
思わずたたらを踏んで、体が傾ぐ。痛みに備えて目を閉じたが、予想していた痛みはない。
代わりに、温かな熱が朧を包んだ。
「大丈夫か?」
彼の瞳は燃えていた。夕日ではない、全てを焼き尽くすような赤。
今、彼女の心を燃やしている赤。
彼女は、朧は、生み出されて初めて、燃えていた。
拒絶、侮蔑、嫌悪、天界は彼女に冷たかった。
悲哀、死、暗闇、常世には熱が無かった。
そして常世神は、その心を言葉にすることもままならない、不器用な神は。
朧を一度も抱きしめたことがなかった。
だからそれは、朧が生まれて初めて得た他者の温もりだった。侮蔑のない眼差し、彼女を案じる言葉。
愛される者には当然与えられるそれを、朧は知らなかった。望んだことはあったけれど、自分には手に入らないのだと諦めていた。
だから、たかがそんなことで、と嘲る人がいるような理由でも。
今はまだ小さく、いずれ全てを燃やしてしまう火が、熾った。
「あなたは」
その感情が恋であることを、彼女は知らなかった。
彼女は恋に落ち、愛を知り、愛によって罪を犯し、生きながら魂さえも千々に裂かれて消滅する。
「私は、
彼女を燃やした火は恋を与え、絶望を与え、愛を忘れ―――
この先、千年の間にもっとも朧を、彼女達を殺す
「火具那だ、朧」
彼らには必要がない
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