星に願いを、天に誓いを・前
燃えていた
何もかもが燃えていた。赤い炎が時雨の体を炙るが、不思議と熱さは感じなかった。
ただ、
「ころしてやる」
燃えていた、燃えていた、彼女は燃えていた
■が、燃えていた
憎しみを、殺意を滾らせて、時雨を、いや、その向こうを見て、
「殺してやる」
彼女は■に縋りついたまま、燃えていた。
彼女の姿が、■の姿が、揺れる。ぶれて歪んで、定まらない。
長い髪に見える、短い髪に見える、男に見える、女に見える、綺麗な服を着ているように、襤褸切れを纏っているように、変わって、変わって、定まらない。
ただ、姿かたちが違っても、それが誰だか分からなくても、
「 」
時雨は知っていた。彼女が、■が、誰か知っていた。
だって、彼にとって彼女は、■は、――――
『いいの』
恐怖を全部とかす様な、優しい声がした。
『いいの、あなたは見なくていいの』
震える手が、時雨の視界を塞ぐ。
―――待ってくれ
『見ないで、知らないで、あなたは、あなただけは』
―――だめだ、僕は視ないといけない
『あなただけは、わたしたちの美しいところだけ、覚えていて』
景色が歪んでいく。歪んで、ぼやけて、消えて、もう視えない。
『お願い、時雨、わたしの大事な片割れ、わたしのただひとりの―――』
なにも視えない世界の中で、泣きそうな声だけが、優しく響いた。
「ふあ」
珍しく大あくびをする時雨に、梓は眉を寄せた。
「またあの夢?」
声を潜めたのは、糺に聞かせないためだ。まだ二人の加護のことを、糺には伝えていない。
時雨はちらりと糺へ視線を向ける。彼は突然訪ねてきた東儀沙羅となにやら話し込んでいて、二人のことは視界に入っていない。
「ああ。また何も分からなかった」
時雨が同じ夢を見始めたのは、長雨が終わった頃だった。悪夢を見るのは珍しくない。だが目を覚ました時に加護を使った時のような疲労感があるので、未来視と関係している可能性が高い。
だからはっきり視たいのに、夢はいつも曖昧だった。
ただ、周囲を埋め尽くす赤だけは覚えている。
「・・・あか」
茜色の瞳に嫌悪が浮かぶ。赤は梓が一番嫌う色だ。
血の色、己の目の色、忌々しい―――彼女を一番多く焼いた炎の色。
時雨は梓たちの事を何も知らない。だが梓が火を特別嫌っていることは、なんとなく理解していた。それに最近は命を狙われる頻度が減った。最悪の前は穏やかなものだと、彼らの生では決まっている。
だから夢が未来を示しているなら、何としても思い出したかった。
「・・・念のため、糺はしばらく泊めない方がいいわね」
糺は今まで首都にある朽葉の別邸から通ってきていたが、最近は月長宮に泊まることも多い。首都内とはいえ、山の上にある月長宮に毎日通うのは流石の糺でも大変だろう、と心配した時雨の提案だ。梓に言わせれば、理由の半分は時雨が一緒に居たがったからだが。
まあ本来ならば、宮には常に侍従や女官がいるものなのだが。時雨の境遇では今更の話だ。
「その方がいいな。もし彼らが絡んでくるなら、糺がいない方が良い」
寂しいが仕方がない。意見が一致した所でちょうど、糺たちの話も終わったらしい。
東儀沙羅がにこりと笑って梓に手を振った。ちなみに時雨は顔を見られないよう、ぴったり梓の背中にくっついているので彼女からは見えていない。
彼女と別れて二人の元に戻った糺の手には、東儀沙羅からの手土産と手紙が一通。
「時雨様、兵部卿からの知らせです。申請していた外出許可が下りました」
「え?」
部外者が消えて梓の影から出てきた時雨が、首をかしげる。それから思い至って、ああ、と頷いた。
「そういえば着物や何やら揃えるのに、何ヶ月か前に申請したな」
「はい。ただ日に条件があり、日用品の買い物はまた次の機会になりそうですが」
「ん?買い物は無理だが、出かけられるのか?」
はい、と糺が頷く。常に微笑みを浮かべている糺だが、心なしか普段より楽しそうに見える。
「許可が出たのは七月七日、
常世神の裏切りにより、天界と地上は交わった。
寿命という枷を嵌められた神々は、正しき世界を取り戻すべく、只人たちに道を示そうとした。
しかし中つ国を治めていた人の王は反発。神と人は地上の玉座を巡って争った。
力の差は歴然だったが、加護を思うままに使っては無辜の民が死ぬ。神々の慈悲により、争いは決着がつかぬまま長引いていった。
人が死に絶えるまで続くかと思われた戦いは、天界の主の娘、初代の帝である“旭日帝”により決着する。
単身、人の王の一族の元へ向かい、その威光に人々はすぐさま降伏した。
和睦の証として王の一族の一人を夫君に迎える。ここで名実共に、天界と地上はひとつの国となった。中つ国は
多くの血が流れた戦いの終わりの日。この日は“旭日帝”の慈悲に習い、天地においてあらゆる殺生は禁止されている。
また皆の願った平和が叶ったこの日は、神々が人々の願いを聞き届けてくれる日だとも言われている。そのため人々は、願いを込めた
己の願いと、いつか正しく天を取り戻すという神への誓いをこめて。
数多の願いをのせた光が空に昇る様は、さながら星のよう。
星に願いをこめて、天へ誓いを捧げる祭―――それが星願祭の由来である。
「物は言いようね」
まあ当然、言い伝えと事実は違うものだ。
細切れとはいえ、天地の開闢からの記憶をもつ梓は、星願祭の成り立ちを聞いてはっと鼻で笑った。
「神共が人間相手に、慈悲なんて見せるわけがない。容易く征服出来ると思ったら噛みつかれて、上手くいかなかっただけでしょ」
「まあ本当に慈悲があれば、後からやってきたくせに国を征服しようとしないだろうな」
「建国神話も中つ国は天から零れた者の集まり、なんてあからさまに見下しているし」
「今でも只人は神への献身が足りず、加護を与えられない存在だと公言しているしな。神使府は」
信仰心の篤い者がいれば目を剥くような会話。もっとも不敬と責められても、二人は全く気にしなかっただろうが。
「出来た」
帯を締めていた梓が頷く。時雨は鏡の前に立ち、自分の姿を眺めた。
白地に水色と縹色の縦縞模様の浴衣は涼し気で、陽が落ちても暑さの厳しい今の時期にはちょうどいい。
一足先に着替えた梓は、同じく白に瑠璃色と鴇色で紫陽花が描かれた浴衣。色合いが似ているのは、用意した糺の趣味だろうか。
祭にスーツは悪目立ちするからと、糺に押し切られ渋々袖を通した梓だが、結果的には浴衣の方が涼しく快適だったらしい。
ずっと表情が険しかったが、今は少し寛いでいるようだ。
・・・まあ、糺の別邸だということもあるんだろうな
二人が身支度を整えていたのは、月長宮ではなく、首都内にある朽葉の別邸だ。
殺生が禁止されているとはいえ、油断はできない。着替えも兼ねて行先を誤魔化すために、遠回りですが、と糺が場所を提供してくれた。
朽葉の別邸は月長宮、いや、白夜城とは何もかもが違っていた。
鉄の門、石を積み上げた囲いを抜けると、邸宅まで真っすぐに道が続く。
その左右に広がるのは、人の手が入ったと明確にわかる、美しく整然とした庭。
そしてなにより、燦然と太陽を受けて輝く白い邸宅。
白夜城の中にも、外宮にではあるが、造りが違う建物はある。第二皇女の生誕祭が行われた建物などがそうだ。石を積み上げた壁に、履物のまま入れる床、煌びやかな灯り。
だが朽葉の邸宅は、それとも少し趣が違っていた。
真っ白な壁には継ぎ目がなく、ところどころに嵌めこまれた硝子――あれが窓らしい――の手前には、精緻な模様を描く鉄の飾りと共に、花が飾られている。
正面からは屋根が見えないせいか、建物全体は四角い箱のような形に見える。
“洋館”という、天地誕生より前、中つ国の時代にあった建築様式らしい。
扉を叩く音に、梓が答える。
顔を出した糺はいつものきっちりとしたスーツではなく、シャツとズボンだけの軽装だった。それでも只者ではない雰囲気は消えないが。
糺は如才なく時雨を褒めたあと、梓に視線を向けて、
「梓、髪飾りは気に入らなかったか?」
装いこそ変えたものの、梓は髪をいつもの赤と黄の組紐で縛ったままだった。
簪の他に浴衣に合わせた髪紐も用意されていたが、着替えている時に目もくれていなかった。
「これでいい」
そういえば、梓のスーツを用意した時も、髪紐は要らないかと聞いたが断られた。
よほど気に入っているらしい。
「それならせめて、結び方は変えなさい。ほら」
糺が手を差し出すと、梓は渋々、といった表情で髪紐を外して、椅子に座った。
「髪が絡まってるぞ。渡した櫛はちゃんと使っているのか」
「・・・うん」
「すぐにわかる嘘はつくな。護衛の振る舞いは主君の評判に関わる。表に立つなら身なりには気をつけなさい」
小言をいいながらも、糺の手は迷いなく梓の髪を整え、編み、あっという間に綺麗な形に結い上げてしまった。本当に何でもできる人だ。
梓も小言には不貞腐れているが、出来栄えには目を見張っている。
「うわ・・・前より上達してる」
・・・もしかして、朽葉にいた時はずっと糺に髪をしてもらっていたのか?
弟子というよりは、妹のように扱われていたのだろうか。本の中では、そういう家族の姿が描かれていたものがあった。
髪を梳かしたり、寝かしつけたり、食事を作ったり・・・あ、糺がいつもしてくれていることだな。
「もしかして糺は、弟か妹がいるのか?」
「いませんよ」
朽葉色の瞳が、困ったように細められる。
「一族には私より年下の子どもが多いので。幼い子の面倒を見るのは年長者の仕事でしたから、慣れただけです」
「そうなのか」
つまり、梓はその子達と同じ扱いなのか。子ども扱い、というやつだ。
呆れるような、羨ましいような、複雑な感情はあるが、口に出せば頬をつねられることは分かっていたので、時雨は口を噤んだ。
―――遠くで、祭囃子が響き始めた
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