恐れるものは・後



時雨は納戸の中でじっと身を潜めていた。

扉一枚挟んだ向こうの気配はまだ動かない。いや、正確には動いてはいるのだが、逃げる隙を与えてくれない。


「三の君」


低い声は優しい。優しいのに、有無を言わさぬ圧を感じる。ついさっき梓に向けられたそれが、今度は時雨に向けられている。

師匠が怖いなんて子供っぽいな、と思って本当に悪かった。


隣室で山積みになった本に向き合う梓に、心の中で詫びる。声だけでもかなり怖いぞ、これ


「三の君」


―――甘い匂いがした

薄く開いた扉の向こう。ほわほわと湯気がたつ桃色の饅頭に、この一週間ですっかり朽葉糺の料理の腕を知った口が、勝手に涎で湿った。


「も、物で釣るのは卑怯じゃないか!?」

「戦いにおいて卑怯なことは相手を侮辱することだけです」

「え、戦いだったのか、これ」




ことは少し前に遡る


梓が課題を山積みにされたので、昼寝は当然とりやめになった。

時雨には寝所を用意しようとしてくれたが、特別に眠りたかったわけではない。それに朽葉は時雨に向けても書物を用意してくれていて、そちらの方が魅力的だったのだ。


読書は好きだ。乳母はいなくなる前に植物図鑑や薬草図鑑、辞典、礼儀作法や歴史、算術など色々な書物を遺してくれた。数年前に母の母に捨てられてしまったが、何度も読み返して覚えた知識は時雨をいつも助けてくれた。

それに知らない世界を知ることは、とても楽しい。


「私が以前使っていたもので、申し訳ないのですが」


朽葉が用意してくれたのは“教科書”というやつらしい。以前に読んだものより難しいが、知らないことばかりで面白い。理解できないことは多いが絶妙なタイミングで朽葉が声をかけてくれて、丁寧に解説をしてくれる。

夢中になって書物をめくる。こんな時間は本当に久しぶりだった。


だからすっかり気が緩んでしまって、かかる前髪を邪魔だとかきあげたから


「御髪を整えましょうか?」

「うん」


頷いてから気づいた。見られた、見られてしまったと―――理解した瞬間に逃げ出した。

納戸に飛び込んだもののすぐに見つかって、髪を切る、切らないの平行線が続き、お互いに譲らないまま今に至る。




「私が刃物を持つことが心配なら梓に任せます。切りましょう」

「いい。大丈夫だ。これで問題ない」

「その長さでは読書どころか、生活にも逃亡にも支障をきたします。襲撃があった際に視界不良では命に関わります。切りましょう」

「今まで大丈夫だったから問題ない」

「過去の成功は未来の成功を約束するものではありません」


朽葉は決して引かなかった。流石は梓の師というべきか、頑固というか絶対に譲らないという強い意志を感じる。

だが時雨とて、無意味に拒否しているわけではない。ただその理由を言いたくないから、子供の駄々のような反論しか出来ないだけで。


はぁ、と扉の向こうで溜息がひとつ。


「わかりました。では私はこれで失礼します」


呆れられた、困らせた、嫌われた。よくしてくれたのに。

ぎゅっと体を縮める。大丈夫、いつかの予定が今日になっただけだ。このまま出て行って、また梓と二人に戻って、それで―――



結論から言うと、時雨は朽葉糺を甘く見ていた。


悪い方へと向かった思考は、勢いよく開いた扉の音で消し飛んだ。

そもそも中に鍵もつっかえ棒もない納戸の扉など、遮蔽物でもなんでもない。時雨の立場に遠慮して控えていただけで、開けようと思えばすぐに開けられる。


そして彼は無頓着の具現化・梓に生活習慣を叩き込み・・・時雨は知らないが、大勢の子供を幼少期から世話してきた男だ。いやいや期も、思春期も、反抗期も経験した男は、油断させての騙し討ちを全く躊躇しなかった。


「え」


気付いた時には抱えられ、ひさしの下まで連行されていた。

一気に明るい場所に出て、眩しさに目を細める。いつの間に用意していたのか、座布団の上に降ろされて、さきほど時雨を誘惑していた饅頭と茶も隣に置かれる。


「どうぞ」

「・・・髪はもういいのか」

「切った方がいいという気持ちは変わっていませんよ」


どうぞ、と茶器が差し出された。じっと視ても悪い未来は視えない。

一口飲んでじんわりと手から、体から、熱が広がる。ほっと息が零れる。心地よい暖かさに肩の力が抜けて、途端に先ほどまでの自分の態度が恥ずかしくなった。

朽葉は時雨が同意したから、切ろうとしただけだ。理由も言わずに態度を変えて逃げ回ったら気になるだろう。


下心なんてないのは、もうとっくに分かっていた。

刺客を一人で殺せる男なら、毒殺なんてしなくても時雨を簡単に殺せる。打算なら他人がいると眠れない時雨を慮って、布団に入ったのを見届けて山を下り、夜明け前にまた登ってくるなんて面倒なことはしない。


「連中、相当予算を全て使い込んでいたらしい。今すぐ用意出来るのは―――」

「私財を出すのは簡単だが、賄賂とされて取り上げられる可能性があるな。贈答品ということで物資を渡すのは―――」

「朽葉から、となると中宰なかつかさ家も黙っていないだろう。目こぼし出来るとするなら―――」


初日に現れた官服の青年と難しい顔で話しているのを、何度もみた。時雨が困らないように、と使い古しだといって色々と用意してくれたことも。


それでも信じられない。受け入れられない。だって、怖いのだ。

この優しさが全部嘘だったら辛い。殴られても侮辱されても蔑まれても、もう慣れてしまって、何も感じないけれど、この優しさを失うのはきっと耐えられない。


耐えられないのが怖い。慣れてしまって、辛いことに耐えられなくなるのが怖い。

理由がない善意が怖い。無くした時に自分を慰める理由が欲しい。



「なぜ、ここまでしてくれるんだ?」



だから理由をくれないか、いつか別れる日まで信じられる理由を



「理由ですか?」


朽葉は少し考えて、口を開いた。


「大きくはふたつあります」


きっと皇族に仕えるのは当然だとか、大人は子供を守るものだとか、そういった不透明な答えが返ってくると思った。


「ひとつは祖父孝行ですね」


だから思い切り私的な理由が返って、少し驚いた。


「祖父は朽葉の地位を上げることに熱心で。多方面に良い顔をしては無茶を引き受けて、官職を得られるように働きかけていました」

「そ、そうなのか」


俗っぽい、ありふれた人だったようだ。この朽葉の祖父、と考えると意外に思う。

そういったこととは縁遠い雰囲気だったのだが。


「一年前に亡くなる間際まで、それはもう執着が凄まじくて。未練がましくこの世に留まっている気がしてなりませんでした。ですが、一時的とはいえ孫が皇子に仕え、立派に務めを果たしたとなれば、大願叶ったと心安らかに来世へ旅立ってくれるでしょう」


いつになく言葉に力が入っている。煩わしそうな顔は、先ほど説教されていた時に梓に似ていた。相当凄まじい執念の持ち主だったのだろう。


「もうひとつは、梓が貴方にお仕えしているからです」


梓と時雨の関係は主と従者、とは少し違うが、口は挟まなかった。なんとなく朽葉は分かっている気がする。彼は食事の作法に口は出しても、梓が時雨を呼び捨てにすることを咎めたことはない。

朽葉は月長宮に来てからも指示を出す以外、梓に話しかけることはなかった。仲が良さそうには見えない。それでも、


いつだって梓に向けられる瞳は優しかった。


もうとっくに顔も忘れてしまっていた乳母を思い出したのは、似ていたからだ。時雨を守って殴られて、それでも大丈夫だと、悪いことはいつか終わるからと、慈しんでくれたあの瞳に。


「私があの子の師であったことはご存知でしょう?」

「ああ。梓から聞いた」


名前だけで表情が優しくなるような感情を、何と呼ぶのだろう。


「では、梓が私を避ける理由も既にご存知かもしれませんが・・・私は不出来な師で、あの子を傷つけてしまったんです」


・・・否定したいところは色々ある、あるが。避けられている、忌避されていると感じる相手のために、無関係の相手に尽くすのはどういう理由なのだろう。


「梓を独りにしてしまった」


ああ。この人はきっと分かっていたのだろう。

自分が梓にとって特別で、それが、どれほどの奇跡なのか。


だからそれを捨てさせてしまったことを、ずっと後悔している。


「ですから安心したのです。貴方の元にいた梓を見つけて」


違う。違う。違うんだよ、朽葉。

僕らはそんないいものじゃない。利用して、されて、それで終わりなんだ。


「今度こそ、あの子の居場所を守ってあげたいのです」


そうしようって、二人で決めたんだ


「貴方を守ることはあの子を守ることになります。それが、貴方のために動く理由です」


梓に必要なのは僕じゃなくて、朽葉だよ



「・・・あのな、梓、本当に笑わないんだ」


突然話題を変えても、朽葉は何も言わなかった。聞いてくれる。この人はきっと、誰かの大事を大事にしてくれる人だ。


「一年くらい一緒にいたけど、本当に笑ったところを見たことがないんだ

あ、人を馬鹿にした感じの笑いはあるけど」


朽葉が何とも言えない顔をする。あの子は全く、とか思っていそうな顔だ。

そうだよ。梓は本当に色々あれなんだ。でもな、


「朽葉が来てから、ちょっと笑うんだ」


風が吹いた。青葉が揺れて、空を舞う。とっても綺麗な青空だった。


「早く帰ればいいのに、とか言いながら、朽葉がいなくなったらこっそり探してる」


「ご飯は絶対に残さないし、指示されたら嫌そうな顔するけど、朽葉が見てない時ははりきってるし」


「助けてくれた時も、すごく嬉しそうだった」



―――いい加減、諦めれば?


嫌だ、諦めたくない。だってすごいことなんだ

優しくて、強くて、なんて、一人だけでも奇跡みたいなのに。


―――すぐ終わることよ


梓は本当に素直じゃない。


―――代わりは見つかる。そうしたら糺はもう来ないから


本当はずっといて欲しいんだ。でも言えないから、僕が・・・朽葉にずっといて欲しいなって、顔に出したら腹が立つんだ。


―――さっさと覚悟しなさいよ


僕じゃなくてずっと自分に言っているの、わかってるよ。


「だから梓と話しなよ。悪いと思ってるなら謝ってみたらどうだ?

怒ってないと思うけど、まあ本当のことは梓にしかわからないからな」


それから、それから


「仲直りしたら・・・代わりがみつかっても、たまに遊びにくればいい」


ちょっと恥ずかしくて、俯いてしまう。でも言わないと、いや、言いたい。


「君はおじいさんや梓のために、僕を利用したらいい」


視界が晴れた。風が髪を煽って、きっとこの気持ち悪い目も見えてるんだろう。

でもいいや。今は真っすぐに、朽葉のことを見たいから。


「僕の乳母は母の親友で、僕なんかを大事にして、自分のことを大事にしなくて、死んでしまったんだ」


殴られても、侮辱されても、蔑まれても、もう慣れてしまって、何も感じないけれど。

この優しさを失うのはきっと耐えられない。


「でも君はそんなことしないだろう?」


乳母みたいに、僕のためにと傷ついて、僕のせいで失くしてしまうのが怖いんだ。

僕なんかのために命を懸けないで。生きていて。


「僕なんかに命をかけないでくれ」


朽葉が目を見開いた。いつだって余裕のある人が驚いているのは、ちょっとおもしろい。



「はい」


朽葉が笑う。いつもより少しだけ困ったように、でも笑って頷いた。


「約束します」


時雨も笑った。雨上がりの空のように、晴れやかに、ただの無邪気な子供のように、



「うん、約束だ」



生まれてから一番の笑顔で、笑った。





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