恐れるものは・前


つやつやと輝く白い米、湯気がたった汁物、焼き魚に添えられた青野菜、それぞれ中身が違う小鉢が三つ。


書物で、あるいは宴の場で、見ることはあっても口にしたことがない“料理”というものが卓に並べられる。漂う匂いに口の中がじわりと湿った。くぅ、と欲望に忠実な体は空腹を訴える。


それぞれひと口分ずつ取り分けられ、卓の反対に座る男が無言で咀嚼する。それから間もなく、問題ありません、と男が頷いた。

この瞬間だけは、まだ慣れない。早くなった鼓動を抑えるように息をついて、両の掌を合わせて。



「「いただきます」」


一週間ですっかり叩き込まれた感謝の言葉を唱和して、梓と時雨は料理に手を付けた。


「美味しい、すごい、人参はこんなに甘くなるんだな」

「生と味が違う・・・」

「お茶はこちらに置いておきますね」


急須を卓の隅に置き、男は―――朽葉糺は秀麗とした容貌にも、歴戦の武人のような体格にもちぐはぐな割烹着を脱ぎながら、部屋を出て行った。


「魚も美味しいな」

「今日の朝に釣ってきたやつだって」

「いつの間に。あ、梓、お茶は?」

「もらう」


ちち、とどこかで鳥の鳴く声がする。水無月に入るとすっかり暑くなり、汁物を飲むだけで汗が滲む。

しばらく黙々と箸を動かしていた時雨は、はっと手を止めて


「・・・・・・また、もう来なくていいと言えなかった」


がくりと項垂れ、そのままずるずると畳に転がる時雨に、梓は呆れ顔で


「完食してから言うの、それ」

「だって美味しくて、止まらなかったんだ。毒も入ってないし」

「毒殺する性格じゃな・・・もう諦めたら?毎朝あんたと同じやり取りしてる気がする」


うぅ、と頭を抱える時雨をしり目に、梓は漬物でもう一杯白米をかきこんだ。




生誕祭から一週間。月長宮をはじめ、二人の境遇は目まぐるしく変わっていった。

奥向きは廊下が腐り落ちるのを心配せずに歩けるようになったし、雨漏りもしない。食料も新鮮なものが運ばれてくるようになり、時雨は初めて白米を食べた後、感動のあまり口がきけなかった。


全て朽葉糺が手配したことだ


一週間前、安全確認を終えた彼はどこから持ってきたのか、新品の寝具と着物を置いて帰っていった。それだけでも十分だったのだが、翌朝またやってきて、今度は後ろに大工と食料が詰まれた大八車を引きつれていた。


「こちらの元侍従長と話をしてきました」


にこりと笑う彼の足元で、いつか喚いていた男が這いつくばって頭を下げていた。ぶるぶると震えていた男は後からやってきた衛士に連れられて、その後は見てない。

そして入れ替わるように鳶色の官服を着た青年が現れ、後任が見つかるまで朽葉糺が代理人を務めるので、とだけ伝えて帰っていった。


ぽかんとする時雨の隣で、梓のこうなると思った、という呟きは大工たちの喧騒に紛れて消えた。





「糺のご飯、美味しいでしょ。何の文句があるわけ?」

「文句なんてない」


そんな贅沢言うわけがない。しっかり焼くか、生のまま食べる、だったのがきちんとお箸で食べるご飯になったんだ。進歩という言葉はこういう時に使うんだろう。

家だってそうだ。畳は青々としていて、寝転がるといい匂いがする。御簾も格子も綺麗に取り替えられて、部屋の中がすっかり明るくなった。

着るものも、用意してくれた朽葉は着古したもので申し訳ないのですが、と言っていたが、色も綺麗で穴も開いてないし、継ぎあてもない。贅沢すぎるくらいだ。


「文句ではなくて・・・分不相応だろう。それにこんなにしてもらっても、朽葉に良いことなんてない。僕にかまけるのは時間の無駄じゃないか」


自分で言っていて悲しくなってきた。でも梓と違って、朽葉は僕から得られるものがないのは事実だ。いつか疎まれて終わるくらいなら、あっちに善意が残っているうちに離れたい。


「後任だって、決まると思うか?」


乳母がいなくなってから世話人はずっといなかった。前の侍従長?はきっと“形だけ”というやつだ。

宮廷というのは形だけ、でも色々必要らしいと前に梓が言っていた。


『護衛なんて初めて見た?・・・ああ、あんた一応皇子様だから、形だけでもそういうのいないと問題になるんでしょ

見たことなかった護衛みたいに、見たことない女官とかもいるじゃない?』


それなのに一週間経っても後任が見つからない。朽葉がきちんと仕事をすると僕が生き残る可能性が高くなるから、絶対に母の母たちはすぐに“形だけ”を連れてくると思っていたのに。


それとも代わりがいなくても、呪い子なんかの世話なんてすぐに辞めると思ったのだろうか。


「あんた毎日そうやっていじけるのに、糺に来るなとは言わないよね」


背を向けているから顔は見えない。ただなんとなく、怒っているんだなと思った。


「いい加減、諦めれば?」


怒っている時の梓は怖い。戦っている時も獣みたいで怖いけど、怒った時は抜き身の刃みたいになるから。静かなのに、痛い。


「すぐ終わることよ」


うん、わかってるよ、梓


「代わりは見つかる。そうしたら糺はもう来ないから」


そうだったらいいなと思う。だってもう、十分だ


「さっさと覚悟しなさいよ」


独りじゃないだけで十分だったのにな、梓







二人で食器を片付けると、途端に手持無沙汰になってしまった。

今までは水汲みや食料の確保、畑の世話、掃除洗濯に襲撃の対処とやるべきことが沢山あった。ところが今や畑以外は全て(いつの間にか)朽葉糺が済ませてしまう。


それ以外にやることがない二人は、空いた時間を大いに持て余していた。


「森に行こうかな・・・」

「さっき糺が掃除してくるって刀もって森に向かったから、刺客がいるわよ」

「・・・・・・何の音もしてないぞ?」


宮の周辺からは鳥のさえずりと風の音しか聞こえない。とても誰かが争っているとは思えない。


「多勢に無勢で正面から乗り込んでいったりしない。分断して一人ずつ消すから、声はしない」


時雨は一週間前のことを思い出した。大工や家財道具を持った大人が沢山現れ、驚いた時雨は山中に逃げた。梓が追いかけ、そのまま二人で木陰に隠れていたのだが――


「お食事の用意が出来ましたよ」


何の音もなかった。地には木の枝も葉も落ちていたのに、足音も、衣擦れの音もなく、朽葉糺はすっと背後に現れた。梓は予想していたのか驚かなかったが、時雨は恐怖と驚きで叫び声すら出なかった。

木々に光が遮られ、屈みこんでいたせいで普段より更に高い位置にある顔が全く見えなかった。低い声は優しかったが、薄闇の中の笑顔に更に恐怖が増して、そのまま立てなくなった。


思い出すと今でも寒気がする。悲鳴も上がらない理由を嫌でも察してしまった。


「・・・森はやめておこう」

「その方がいい。昼寝でもすれば?そのうち元通りになれば、ゆっくり寝る時間もなくなるし」


梓が縁側にごろりと寝転がった。武器こそ抱えたままだが、一週間前まではこんなに気を抜く姿を見たことなかった。彼女の言う通りかもしれない。今は朽葉が色々手配してくれているが、後任はそうはいかないだろう。


――――お前が幸せになるなど許さない


慣れてはいけない。当たり前になる前に、早く終わって欲しい。だって、こんな、


「二人とも、お昼寝ですか?」


梓が跳び起きて身構え、時雨はまたも身動きすら出来なかった。

森にいると思われていた朽葉糺は分厚い本を山ほど抱えて、なぜか室内の方から現れたのだ。森の掃除は終わったらしい。血の跡どころか土さえついていないが、生きて立っているということは、まあ、そういうことなのだろう。

刺客ではなかったことに二人そろって安堵の息をつく。安心するには早すぎたが。



「梓」


え、と思った時にはもう風を切る音がして、梓が庭の真ん中まで吹っ飛んでいた。


「え」


いま、朽葉が梓を思い切り蹴り飛ばさなかっただろうか?


理解が追いつかないうちに、梓が姿勢を立て直して地を蹴った。飛び込んできた梓の蹴りは軽くかわされた。間を取って、師と弟子だと思っていた二人が相対する。

再会した後も仲が良い、とは思わなかったが、それでも急に攻撃してくるほど険悪には見えなかった。やはり裏があったのか、急いで梓に駆け寄り、力を使おうとしたが、この状況でも未来はなにも視えなかった。


いつもなら危なくなれば先が視えるのに、どうして―――


「どんな状況であろうと、護衛が主君への注意を怠ってはいけない」


ん?


にこりと、朽葉が笑った。何度も見た笑顔だが、今はなんともいえない圧を感じる

なんだろう。ずっと昔にもこんな気持ちになったことがあるような・・・?


「私が森へ行けば守りはお前一人だ。討ち漏らした刺客が襲ってきたらどうする

さっきの攻撃が刃物なら腕をやられていた。主君からも引き離されて、間に合ったかな?」


梓から動物みたいなうめき声が漏れた。いつの間にか正座になっている。

時雨もなんとなく隣に座って、思い出した。


―――時雨様!手を洗わずにご飯を食べてはいけません!


あ、これ乳母に叱られた時と同じやつだ。


「お前、竹林で会った時も知り合いだからと油断しただろう

私が近づいた時も警戒どころか逃げるそぶりも見せなかった。あの距離は私の間合いの内だとわかっていたのに」


暗に梓という盾があっても殺せた、と言われてぞっとする。本当に敵じゃなくて良かった。


「あの人数相手に、守りが苦手なお前が怪我もさせず逃げたのはよくやったが、詰めが甘い」

「・・・きちんと仕事したって言ったじゃん」

「三の君をお待たせしてまでする説教ではなかったからな、あの時は」


――――三の君の護衛はきちんと仕事をしたようですね


そういえば、あの時も梓の様子が少しおかしかった。あの時は朽葉糺を警戒しているのかと思っていた。しかし今思えば警戒していたなら僕を連れて逃げるか、刀を抜いたはず。だがあの時、梓は刀を鞘に収めたままだった。


「・・・もしかして、朽葉と初めて会った時に梓が大人しかったのは」


師匠が怖かったからか?幽鬼も刺客も顔色ひとつ変えずにすぱっと斬る梓が?

まさか、と梓を見上げると、彼女は不快気に目を眇めた。心の中では舌打ちしているに違いない。


「あんたのその変に鋭いとこ、いつか命取りになるわよ」


怖いのか・・・そうか、梓にも怖いものってあるのか・・・

虫も平気で食べるし、幽霊は鼻で笑うし、敵の臓腑が飛び散っても掃除の心配しかしないので、梓に怖いものなど無いと思っていた。


どさりと朽葉糺が山盛りの書物を梓に渡した。というより押し付けた。


「私がいる間に、宮廷の作法と護衛の基本を覚えなさい―――わかったな?」


有無を言わさぬ口調に、時雨は出会って初めて、青ざめた梓というものを見た。

怖いものがない人間などいないのだ。彼はひとつ真理を悟ってしまった。





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