呪い子の希望
―――血の雨と共に生まれてきた忌まわしい子
それが
誰かに尋ねたわけではない。ただ母の母という存在が何度も、何度も、そう喚いては嘆いて殴ってくるもので、知っただけで。
母の家族がいうところによると、時雨を産んですぐに母は幽鬼に襲われて死んだそうだ。
産婆も助手も女官たちも、護衛の兵士も全員死んだ。乳母と同母の姉が生き残ったが、乳母は大怪我をして足が不自由になり、姉は意識を失って目を覚まさない。
室内は血の雨でも降ったようで、その中で産まれたばかりの時雨だけが怪我一つない状態で泣いていたらしい。
血と死と厄災を連れて生まれてきたと言ったのは、誰だったのか
姉は十一年経っても目が覚めない。忌み嫌われて月長宮に放置された時雨を世話してくれた乳母も、二歳の時に死んでしまった。
死という不浄を呼ぶ子供を、誰もが“呪い子”と呼んで疎んじた。
だが時雨は幸運だ。疎まれても一応皇子なので、食料だけは定期的に送られてくる
それに天界の主の愛娘・旭の記憶は二歳の時雨が生き残るための知識を与えてくれた。この二つがなければとっくに死んで腐っていただろう。
頼れる大人はいないし、父なんて時雨の存在を覚えているかも疑わしい。十一歳までに出会った人間は母の死の悲しみをぶつけてくる母の親族と、皇位なんてほど遠いだろうに時雨を殺そうと毒を差し入れてくる妃たち、異母兄弟、その配下。乳母は除く。人生詰んだな、と思ったのは一度や二度ではない。
それでも使えるものは全て使って生き延びてきた。
だがやせっぽっちの子供には、出来ることが限られていた。
対して時雨の死を望む者たちは、多くのものを持っていた。
どこに金をばらまいたのか。いきなり麻袋に詰め込まれて首都の外にまで運ばれたことがあった。
遠くに捨てようとしたのか、殺そうとしたのかは分からない。時雨を運んでいた男たちは途中で幽鬼に殺されてしまって、何も聞けなかったのだ。
あの時はもう駄目だと思ったな
見知らぬ場所で、夜で、春なのにとても寒かった。
せめて死ぬなら明るい時間が良かった。初めての“外”だったから―――最期くらい“いいもの”を見て終わりたかった。
「ねぇ、あんた生きてる?」
お互いに、運が悪かったのだと思う。
月は少し霞んでいたけれど、互いの姿を見るには十分に明るくて。
一閃で幽鬼を斬り捨てたのは“少女”だった。それくらいの年頃だ、と旭の記憶で判断した。
黒髪を雑に一つに縛り、着ている服装も宴で見る者達に比べて古めかしいけれど、
それでも、綺麗だな、と思った
人の造形はよくわからないが、死にかけたのも忘れてしまったのだから、きっとあれが初めての“感動”というやつだったのだろう。
ただそれもそのあとの衝撃で全て吹っ飛んでしまったが。
夜よりも深い黒い髪、沈む太陽の茜色、刀みたいな雰囲気もなにもかも違うけれど。
おぼろ、
おぼろ、おぼろ、おぼろおぼろおぼろ朧朧朧!!!!!
時雨の中の旭が叫ぶ。間違いない、絶対にそうだ、彼女が、
「――――おぼろ」
旭が切望して――――時雨がぜっっっったいに会いたくなかった“朧”だと確信した。
驚きにまるくなり、瞬く間に幽鬼相手の時よりも鋭くなった茜色に、あ、ばれた、と悟る。
すぐに逃げ出したかったが、残念ながら幽鬼から逃げた時点で体力はほぼ零だったのだ。かき集めてもぴくりとも動けなかった。
「・・・・・・あんた」
地を這う声に今度こそ終わったと思った。だが時雨の絶望など関係なしに、瞳は未来を告げてくる。
時雨を見下ろす“朧”の背後から矢が放たれ、“朧”の体が崩れ落ちる。
「後ろ!矢が!!!」
叫び、“朧”が構えたのと暗闇の向こうで影が動いたのは同時だった。
しかし視えた未来とは違い、“朧”は矢を斬り捨てた瞬間に跳躍し、ぎゃっと短い声が上がった。
「明かりもないのにこの距離で?稀人か、こいつ」
他の声はしなかった。なにも視えないということは、安全なはず、影は死んだのだろう。
がんがんと頭が痛んだ。限界だったところに未来まで視たせいで、意識がどんどん落ちていく。
・・・だめだ、逃げないと
しかし足は愚か指一本さえ動かせず、そのまま視界は暗転した。
間違いなく死んだと思ったが、目を覚ました時、時雨はまだ生きていた。
見覚えのない天井に慌てて体を起こすと、穴だらけの毛布がずり落ちた。着物が薄かったのに寒くなかったのは、このおかげらしい。
黴と埃の臭いが鼻をついた。狭いしあちこち隙間が空いているが、壁と天井がある。どこかの空き家だろうか。
「よく眠れるな」
冷え冷えとした声に視線を向けると、“朧”が刀を抱えたまま座り込んでいた。
壁にもたれて寛いでいるように見えるが、何かあればすぐに殺される、それは分かった。
「・・・あ」
「あんた“旭”だな」
無かったことにはさせてくれなかった。疑問でも確認ではない。彼女は確信している。
「私が誰か分かるでしょう?」
「・・・・・・朧」
だから時雨も観念して認めた。ただ視線を逸らすふりをして出口だけは確認した。
昨日の記憶が夢ではないなら、戦っても絶対に勝てない。だが、逃げるなら可能性があるかもしれない。
「言っておくけど、逃げても三歩以内に捕まえるから」
可能性が零になった。ぐうぅと唸り声をあげて、時雨は毛布を頭からかぶって包まった。ふて寝したかったわけではない。逃げられないならせめて猛禽みたいな視線から逃れたかったのだ。
状況的には全く意味のない仕草に、“朧”が片眉を上げる。しばらく間があって、ため息がひとつ。
「怖がらなくても殺しはしない」
「嘘だ」
反射で否定してしまい、はっと口を押えた。次の瞬間には勢いよく毛布が剥ぎ取られ、ころんと床に転がされた。
「おい」
「信じられるわけないだろ!」
“朧”の目つきがどんどん険しくなるが、どうせ
それならせめて最期くらい、言いたいことを言いたかった。
「だって
旭の記憶や感情を認識して、時雨が第一に思ったのは、あ、こいつやばい、だった。
好き勝手して死んで、朧が死んだのは自分のせいだ、なんてさめざめと泣いて慰められていた。全くその通りだがそれなら嫌われてる、とか思いそうなものなのに、旭は
『次は絶対に朧を幸せにしてあげる!』
と思っていた。馬鹿だ、絶対に馬鹿だ。
普通に考えて死ぬ原因になった奴と関わりたいわけがない。出会い頭に殴られてもおかしくない。
それが手に手を取って仲良し姉妹になれると思っているなんて、頭お花畑にもほどがある。
幸せにしたいなら目の前に現れるな。相手が自分でさえなければ、時雨は正気を疑っただろう。
旭の後、時雨に生まれる前の記憶はあまりないが、旭が役立たずだったことはなんとなく覚えている。
だから時雨は絶対に“朧”に会いたくなかった。ただでさえ命を狙われているのに、これ以上自分を憎む相手が増えるなど冗談じゃない。
「贅沢を言える立場ではないのはわかってる。だが出来ることなら長引かせずに、一息に殺してくれ」
ぎゅっと体を縮めて目を閉じた。視界を塞いでも痛みは変わらないが、最期に見るのが憎しみの籠った視線ではなくなるだけ、幾らかマシだ。
だが十秒か、二十秒か、それ以上待っても覚悟していた痛みに襲われることはなかった。
恐る恐る目を開けると決して柔らかくはないが―――それでも先程より棘がない朧が、水筒を差し出していた。
「毒か?」
「そんな勿体ないことするか。ただの水」
確かに水は貴重だ。前に井戸を壊された時は、小川を見つけるまで喉が渇いて大変だった。でも、
「ただの水なら、それこそ勿体なくないか?」
渡された水は濁っていないし、変な臭いもしない。貴重なものを、なぜ渡したのだろう。
朧は疑問には答えなかった。時雨から水筒を取り戻すこともしなかった。
「殺す気はない」
はっきりと、彼女は言った。茜色の瞳は真っすぐに時雨を見ていた。
これまで会った誰よりもしっかりと、“時雨”を見ていた。
「私は生きたいだけ。復讐なんてやってる暇はないし、“朧”も、他の連中の気持ちも、私のものじゃない」
そこでやっと時雨は、自分が“旭”ではないように、彼女も“朧”ではないことを思い出した。
そしてまだ、彼女の名前を知らないことも。
ぐっと息を呑んで、遠慮なく水筒に口をつけた。
本当はずっと喉が渇いて、喋るのは辛かったのだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
水筒を返して、自分を守っていた毛布を横に置く。お礼を言うのに、蹲ったままでは失礼だと思ったから。
「助けてくれたことも、ありがとう」
「あんたも助けてくれたから、お互い様」
あんたが気づかなかったら怪我してたのは間違いないから。
不思議な気分だった。人とこんな風に落ち着いて話す日が来るなんて、思わなかった
しかもその相手が“朧”の生まれ変わりなんて、なおさら。
「僕は時雨だ。雨の“時雨”
――――君の名前も聞いていいだろうか?」
「・・・・・・夢か」
目を開けると見慣れた月長宮の、蜘蛛の巣が張った天井が目に入った。
掃除はしているのだが無駄に天井が高く、梓と時雨だけでは手が届かなくてそのままになっている場所は多い。というか、ほとんどがそうだ。
よく眠ったせいか頭はすっきりしていた。そのまま頭を横に向けると、梓が刀の手入れをしていた。
「思ったより早かったわね」
抜き身の刀を手にしている所を見ても、もう殺されるとは思わない
「夜まで寝てるかと思った。時間、短くなってない?」
梓は言葉が足りないことが多いが、十分だった。それほどあの春の夜から今日まで、一年と少し、過ごした時間は色々とあり過ぎた。
「そうだといいな。まあ余計な事まで視ることは減ってきたからかもしれない」
お互いに名乗り会ったあと、過去を全て話すような真似はしなかった。
ただ必要な事―――梓が長く世話になった師の家を出て放浪していることだとか、時雨が敵に気付いたのは未来が視える目のおかげだとか、二人とも旭が嫌いだとか、互いに互いを判断するために必要なことを話した。
――――あんた、生きたい?
手を伸ばしたのは、梓が先だった。
梓は生きたいと言った。十分に備えてきたつもりでも、降りかかる死の危険が何か、いつくるのかはわからない。
時雨は身の危険は視えても、それを回避する力がない。謀ったように、二人に必要なものは一致していた。
だから時雨は梓の手を取った。
生きるためにはお互いが必要で、前世の記憶を共有できるから話が早い。
それに梓は、時雨を普通に扱ってくれる
好きではないだろうが、憎みも、蔑みも、殴りもしない。
非力さに呆れながらも疲れた時には休む場所を一緒に探して、食べ物を分け合って、同じ目標のために協力する。
普通だと旭の記憶で知っていても、わかっていなかった
独りじゃないことが、どれだけ暖かいことか
たとえそれが不要になったらすぐ終わる“ふたり”だとしても
いつかまた独りになっても、この暖かさはきっと、希望になるから
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