茶色の宝石
巨大な猫会議というものを見た事がある。
普段行かない町を通りすがって目撃したもので何十匹という規模だったと思う。
夕暮れの町で広い空き地もはみ出して、それはもう沢山の猫が道路にもうずくまっていた。
鳴き声はなかったので会議ではなかったと思うが皆同じ方を向き、帰り道のサラリーマンや主婦達も見つめていた不思議な光景だった。
あの猫達が何を考えて何をきっかけにあの場所に集まったのかは解る事はきっとないだろう。
その光景も含めて猫というものは私にとっては神秘的で特別な存在なのだ。
昔、実家に帰ってきた弟に連れられて、我が家に一匹の猫がやってきた。
アビシニアンの長毛種でその発生の国ソマリアの名をとって猫種はアビシニアン・ソマリという。
名は『モンキー』。若い大きな雄猫だ。去勢されている。一人暮らしから戻ってきた弟によると子供の時は子猿に似ていたからそう名づけたという。
アビシニアンというのは野性的でかっこうよく美しい種だったが、その長毛種ともなると茶色の毛がなまめかしく流れてそれはもう茶色の宝石の様だった。
アビシニアン・ソマリは人見知りが激しい種類で、この家に来た当初は私は顔を合わせる度に息を荒げて威嚇された。
しかし人懐こいのもこのソマリの特徴で数日経って家に慣れると無防備に私達を受け入れ、高い鳴き声で顔を擦りつけさんざんに甘えてきた。
ひどくツンデレなのだ。
アビシニアン・ソマリは消化器系の理由だった気がするが、健康を保つ為にダイエットフードの様な特別な缶詰の食事しか与えられなかった。
その食費は割高で、その頃の家計は両親の管理だったがちょっとぼやいていた気がする。
ある日、モンキーは調理中のキッチンに立ち入って網で炙っていた魚に手を出し、熱い網に顔を近づけすぎて髭に火が燃え移ってしまった事があった。
燃え移るといっても感覚毛数本を焦がす程度だが、猫の長い髭というのは熱に負けるとぐるんぐるんに溶け曲がり、終いには炭化して落ちてしまうのだ。
食べさせてくれない焼き魚に手を出したモンキーは眉毛と髭を数本失い、またはきついパーマをかけた様に曲がりねじれ、何日かはとてもしまらない顔になった。
モンキーは本当は外に出してはいけない家猫だったが、隙を見つけて家をよく脱走した。
よく近所で喧嘩していたらしい。モンキーが外に出るとしばらくして雄猫同士の激しく戦う音が家の中にもよく聞こえてきたものだ。
相手が近所のボス格だったかどうかはよく知らない。
ある日、モンキーは大怪我をして外から帰ってきた。
近所の獣医で手術をしたが家に帰っても下半身が麻酔で痺れていた。
それでも家で普段通りにふるまおうと私の眼の前で低い家具から高い家具の上に跳び移ろうとした。
しかし下半身に力がなく、跳躍は失敗して畳の上に無様に落ちた。
モンキーは私を見上げて不思議そうに哀しそうに鳴いた。
私は普段通りの事が出来なくて戸惑っているモンキーを膝に乗せ、毛をやさしく撫でてやった。
やがてモンキーの実質的な飼い主である弟がやってきたので、撫でる役を弟にゆずった。
哀しそうに弟に抱かれ鳴くモンキーの声を背に、私は部屋のドアを閉めた。
隣の家の飼い猫『ミー』が死んだ。
ミーと私は隣家に来たばかりの子猫の頃に庭で会って、手で鼠の真似をして狩りの本能でじゃれつかせてからのつきあいだった。
我が家の駐車場に停めてあった車の下でうずくまり、鼻血をたらして静かに死んでいる状態でミーは見つかった。
弟は脳溢血で死んだのではないかと言った。猫は死ぬ前に姿を隠すというが、隣の家族から身を隠して回復を待っている内に死んでしまったのだろう。
ミーはもう老猫だった。
そうか、もうそんなに時間が経っていたのかと私は思った。
モンキーももう若い猫とはいえなかった。
弟はまた一人暮らしをする為にモンキーを我が家に残して出ていった。
モンキーはもはや完全にこの家の飼い猫でそれは猫ですら受け入れていた。
その時、家で一番モンキーに気に入られていたのは私なのは間違いない。
モンキーは私が仕事に出かける時によくついてきた。本当はその鼻先で玄関のドアを閉めるのだが、それをすり抜けて家の外に出てきてしまうのだ。
私を追って歩く猫はまるで親子の鴨みたいと近所の人は笑った。
外に出たモンキーはしばらく住宅街で私の後を追っていたが、決まってある家の前で離れてその家の敷地に入っていた。そこまでが縄張りらしい。
私が病気で長期入院をした時、ずっとモンキーは私のベッドの上にうずくまってすごしていたらしい。
それを聞いた時、私の胸は何ともいえない熱が湧いた。
飼って一〇年以上がすぎた。
モンキーは老猫になった。
外見はそんなに変わらなかったが、仕草や動作に老いを感じさせるのろさや静かさが目立つようになった。
それでもモンキーは気が若いままというか無鉄砲な猫だった。
ある日、モンキーが外に行った後、近所で猫同士が喧嘩している激しく大きな鳴き声が聞こえてきた。
近所では猫が世代交代していて、とても大きくい強い猫がボス格のはずだった。
やがてモンキーが帰ってきた。
部屋に置かれていたタオルを重ねていた物の上にうずくまる。
眼の上に大きな傷があり、もう既に大量の緑色の膿が溜まっていた。深い傷だった。
呼吸がつらそうだった。
ああ、それが来たんだなと私は感じた。
冷めていた。覚悟していたと言ってもいい。
もう、そんななんだなとぼんやり考えた。
あの時の胸にあふれていた熱は何だったのか。
さよならな、モンキー。
私は心の中で静かに思い、ずっと見守っていた。
畳まれたタオルの上にうずくまっていたモンキーはそれでも永い間もっていたと思うが、やがて息をしなくなった。
私は家族にモンキーの死を伝えた。
家族も私と同じ様な態度だった。
自分がその後、泣いたかどうかはよく憶えていない。
あれから何年も過ぎた。
今、私は何も飼っていない。
あの時、猫にいれ込んでいた事が今の自分にはよく解る。
道を歩いている時、視界に入ってくる物がモンキーと同じくらいのサイズだと一瞬それが猫に見えてしまう。見えるというか感じるのだ。
勿論それは猫である事すらない。
だからあれは、あの茶色の宝石は、私にとっては雄雄しく、女女しく、神秘的で格段に特別な存在だ。
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