ハニーサックル
Jack Torrance
愛の絆
今も目を瞑れば瞼の裏に少女時代の彼女のあどけない笑顔がくっきりと浮かぶ。
ダークブラウンの瞳に濃い眉毛。
前髪を眉のところで揃えてはちみつ色の肩まで伸びた髪を三つ編みに結っていた。
彫りの深い顔立ちで気難しそうに見えた彼女だが笑うと何とも言えない安らぎを僕に感じさせてくれた。
彼女の名はジュディ コープランド。
その名は僕の少年期において甘い甘い魅惑的な響きだった。
学校からの帰り道。
家が同じ方向だった僕と彼女はいつも一緒に帰っていた。
学校での授業の話や昨日見たテレビの話。
図書館司書のコーネル先生に勧めてもらった『ハックルベリー フィンの冒険』や『宝島』や『秘密の花園』などの本の感想なんかも言い合ったりした。
歴史のゴドフィン先生の喋り方を僕が真似たりして彼女を笑わせたりもした。
僕らの家の帰り道には春になると見事なまでにハニーサックルが鮮やかに咲き誇っていた。
白色から黄色に変色していく艶やかで可憐な花弁。
春のそよ風が甘い香りを運んでくれて僕とジュディはそのハニーサックルの繁みを抜ける度に何とも言えない幸福感に包まれた。
花筒を千切っていつも二人で蜜を吸っていた。
その蜜の味はとても甘美で彼女の秘部から滴る蜜もこんな味がするんだろうなと僕は勝手に妄想を膨らませていた。
僕は父さんが読んでいたプレイボーイなんかを黙ってこっそり覗いていたので既に異性への愛だの恋だのといった感情を意識するようになっていた。
僕はジュディへの溢れる想いを言の葉に乗せて彼女に贈った。
「ジュディ、君はハニーサックルの花言葉を知っているかい?」
僕は募る思いを抑制出来ずに彼女に尋ねた。
多分、僕の鼻孔は興奮していたせいだろうか。
かなり広がっていたと思う。
彼女は僕の突然の質問に面食らったようにちょっと戸惑って答えた。
「いいえ、知らないわ。何て言う花言葉なの?ガブリエル」
僕は彼女の知らない事を知っているんだというちょっとした優越感に浸り有頂天になって答えた。
「ジュディ、ハニーサックルの花言葉は愛の絆って言うんだよ。僕は君に愛の絆を誓うよ。未来永劫に」
ジュディは桜色に頬をほんのり染めて気恥ずかしそうに言った。
「まあ、嬉しいわ、ガブリエル。あたしもあなたに未来永劫に愛の絆を誓うわ」
しかし、僕とジュディは互いに多くの友人とも関わるようになり僕はフットボール、彼女はフィールドホッケーのクラブに所属するようになり話す機会も減少し自然と疎遠になっていった。
決定的だったのは進路が異なり僕は大学進学でミズーリのカンザスシティへ、彼女は地元のノースカロライナに留まりアパレルメーカーに務めだした。
僕はエンジニアの職を選びノースカロライナに帰る事無くカンザスシティに住み着いた。
僕は仕事も忙しくノースカロライナに帰る事も稀で父さんや母さんが僕の住むカンザスシティに遊びに来る事が多かった。
僕の方もノースカロライナに帰ってもフットボール部の仲の良かった友人数名と会う程度でしか旧交を温める事はなかった。
ハイスクールを卒業してから16年後。
僕らの同窓会が催されるという連絡がフットボール部で一番仲の良かったカールからあった。
「ガブリエル、お前もたまにはこっちに帰って来て旧交を温めろよ。他の奴らもお前に会いたがっているぜ」
僕は真っ先にジュディの事を思い出した。
「カール、ジュディ コープランドはどうしてるか君は知っているか?」
「いや、俺は知らない。彼女と仲の良かった子らとも俺は付き合いがあるって訳じゃないからな。ガブリエル、帰って来るんだろ」
「ああ、久し振りに彼女とも会って話したいからね。帰る事にするよ。それじゃ、同窓会の時に会おう」
何時の間にか僕はまた、あの少年期の甘美な思い出に浸っていた。
ジュディに会える。
僕はそう意気込んで同窓会に出席した。
旧友達との久し振りの再会。
カールを始め仲の良かったスチュアートやピーター、それにクラスメイト達と現在の境遇やハイスクール時代の思い出話に花が咲く。
1時間、2時間と楽しい時は瞬く間に過ぎていく。
だが彼女は待てども待てども一向に現れない。
クラスメイト達に彼女の事を聞いてみようかとも思ったが余計な詮索をしているみたいで気が咎めたので聞くのは止めた。
僕は彼女にも家庭や仕事の事情があり出席出来なかったんだろうと半ば諦めの境地に達していた。
酒が入り皆が思い思いの事を口にしだした。
隣のクラスで金持ちの息子でいつも威張りくさっていたエド コーツィが急に言い出した。
彼はカールから聞く話によると親父さんの経営するカーディーラーのお飾りの要職に就き高級なメルセデスを転がして遊び回っているとの事だ。
「おい、ジュディ コープランドがどうなったか知っている奴いるか。あの女、今じゃジャンキーになって街角で男を拾っているらしいぜ。あばずれもいいとこだよな、ハッハッハ」
親のお陰で苦労無く悠々自適に遊び回っているコーツィがおもしろ半分に声を大にして彼女の事を罵った。
僕は煮え滾る怒りを自制出来ずコーツィの前に出て注意を喚起した。
「此処に来ていない彼女の事をおもしろ半分に揶揄するのは止めた方が君の為だよ。君も影では何て言われているか分かったものじゃないからね」
コーツィは僕から窘められて身の置き場に困ったような素振りを見せた。
僕は彼女の現在の境遇を不憫に思い居た堪れない気持ちになり皆に別れの挨拶を述べてその場を辞去した。
僕は矢も盾もたまらず街角の娼婦が屯している場所に車を走らせた。
数人の娼婦が声を掛けて来たがそれを無視して僕は彼女を捜した。
いた。
街灯の薄暗がりの下で立っている彼女が。
あの姿は紛うことなき僕と昔、愛の絆を交わしたジュディ コープランドだ。
僕は車から降り無言で彼女の手を取って車の助手席に押し込んだ。
彼女は突然の出来事に驚き声を失った。
状況が掴めたのかジュディは嘆息を漏らし小さく声を発した。
「ガ、ガブリエル」
「いいから、黙って僕に付いて来てくれ」
彼女にも心の整理があるだろうと思って車中では僕の方からは何も喋りかけなかった。
運転中横目でちらっと彼女を見た。
彼女も行き成り16年振りに目の前に現れた僕にどう接していいのか分からないといったような感じでずっと自分の太腿に視線を落としていた。
僕は昔からある【エンド オブ デイ】という古びたバーの前で車を停めた。
僕は下戸なので同窓会では一杯も飲んでなかった。
だが、今は一杯飲みたい気分だった。
彼女の手を引いてバーに入った。
僕は雇われバーテンダーと思わしき若い男にハニーサックルを二杯注文して店の一番奥のボックス席に座った。
店には4、5人くらい客がいたが人の目なんて気にしなかった。
多分、僕が娼婦を買ってホテルにチェックインする前に一杯引っ掛けているくらいにしか映ってないんだろうなと想像した。
彼女の身なりはむなぐりが深くバストを強調したブラウスに素足を露出したミニスカートだったから。
はちみつ色の髪をショートカットにして若作りしていたが彼女の顔を照明の下で見たら34歳とは思えないくらいに老け込んでいた。
目の下にはくまが見て取れ少し窶れているように僕の目には映った。
僕は彼女の手の甲に手を添えてやさしく諭すように語り掛けた。
「ジュディ、一体どうしてしまったんだい。さっき同窓会で君の現状を聞いて矢も盾もたまらず君を捜したんだ。昔の君は何処へ行ってしまったんだい。あの無邪気に笑い掛けてくれていたあの少女時代の君は…」
彼女は目に涙を溜めて何も言わなかった。
若い男のバーテンダーがオーダーしたハニーサックルを僕と彼女の前に置いて「ごゆっくりどうぞ」と言い残しカウンターの奥に戻って行った。
僕は彼女に尋ねた。
「学校の帰り道のハニーサックルを覚えているかい?」
彼女は焦点の合っていない小動物のように視点が定まらずキョロキョロと周囲に気を配りながら情緒不安定な感じだった。
恐らくこの現状を如何に打破しようかと僕の一挙一動を観察しているのだろう。
「少年時代に君とハニーサックルの繁みを通り抜ける時僕はとても大きな幸福感に包まれたのを今でも鮮明に覚えているよ。あの時に君と交した会話とかさ」
彼女は黙して何も語ろうとせずテーブルの上で指を絡ませた両手に視線を落とし蝋人形のように固まっていた。
僕はカクテルグラスを手に取り僕は一席ぶった。
「君の明るい将来に。僕は信じてる。ジュディ コープランドを」
彼女はカクテルグラスを手に取る事はなく視線を僕の方へ向けると一心に僕の目を見据えていた。
僕は一人でハニーサックルを一気に飲み干した。
彼女は最後までカクテルグラスに触れる事は無かった。
別れ際に僕は言った。
「昔誓った愛の絆を覚えているかい?僕はもっと君が君自身を大切にしてくれたらと願っているよ。それじゃ、ジュディ、元気で」
無言でこくりと頷いた彼女の頬に涙が伝った。
僕はジュディを送れそうもないし彼女の貴重な時間を僕の為に浪費させてしまい辛い現実に直面させてしまったという責め苦を負った。
僕は彼女の前に100ドル置いて「これでタクシーで帰ってくれないかい。僕はお酒を飲んで君を送れそうにない。それじゃ、ジュディ、君の幸運を祈っているよ」
僕はカウンターでハニーサックルの料金としてチップ込みで20ドル置いてバーテンダーの若い男に代走サービスを頼んだ。
これが僕とジュディとの最後の別れとなった。
半年後。
僕とジュディが最後に別れたその日を境に彼女は街角から姿を消して街からも消え去って一切音信不通となったと風の便りで聞いた。
僕は願う。
彼女が新天地で昔のジュディ コープランドに戻っていてくれたらと。
ハニーサックル Jack Torrance @John-D
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