第34話 演者は心の中でほくそ笑む。

「だから、悪いこと言わないやめなさいって!」


「でも、先輩…私別に校則違反してないし…せっかくから切りないっていうか…」


「わかるけど! ウチの学校で……黒髪ロングは厳禁! あなたと一緒に入った子、覚えてない?」


「えっと……確か三崎さん、でしたっけ? 同じような髪型でしたよね…最近見ませんね…」


「知らないの? あの子ねぇ……あっ! お、おはようございます。河副かわぞえ事務長……」


「おはよう、これから朝練ですか」

「あっ、はい。そ、そうです! えっ…と…し、失礼します!」


 黒髪ロングの新入生は、おかっぱヘアの先輩につられ、慌てて頭を下げる。そして急ぎ、おかっぱヘアの先輩の後を追った。


「先輩! なんでダメなんですか、この髪型」

「後で説明するから、! 後で!」


 立ち去るふたりの弓道部の女生徒を目で追う初老の男…正確には彼の視線は後で束ねて弾む、黒髪の女生徒の背中しか見てない。


 彼の名前は河副かわぞえ博。私立常和台ときわだい高等学校で長年事務長を勤めていた。彼もまた常和台ときわだい高の出身者だ。


(もう、40年近く前になるのか)


 彼はその昔に、そう今のような季節の中でひとりの女生徒に出会い、恋をした。そう、出会いはちょうど今彼が立っている弓道場の前。


 突然の出会いだった。内向的な彼は珍しい行動に出た。弓道着に身を包んだ黒髪ロングの女子に名前を聞いたのだ。彼の人生においてこれ程積極的な行動に出たのはこの時が初めてだった。


『なに言ってんの、河副かわぞえ君。同じクラスじゃない? あっ、席遠いとわかんないか。じゃあ改めて自己紹介。私飯塚いいづか沙苗さなえよろしくね、河副わわぞえ博君』


 衝撃的な出会いだった。自覚はあった。自分が地味であること、目立たないこと。なのに自分のことを、名前を覚えてくれていた女子に心を奪われない訳はなかった。


 実際のところ付き合っていたか――よくわからない。教室で話をすることも多いし、廊下ですれ違うと立ち話をしたり。同じ委員会になったり、どちらともなく選択科目を同じにし、進級する度に同じクラスになるようにした。


 その当時流行っていた言葉を借りるなら、友達以上恋人未満。そんな言葉がピッタリなふたりの関係。


 現在と違いスマホで気楽に連絡が取れるわけでもなければ、相手の今現在の消息をネットで知ることも出来ない。


 ふたりは各々の目指す大学に合格し、各々の目標としていた職に付いた。彼は伯父が理事長を務める母校で、事務員として就職するため地元に戻った。


 彼女は大学の近くで銀行員としての職を得た。地元には戻ってこなかった。いや、戻ってこれなかった。彼女の父は転勤族。中高を過ごした街での住処は社宅だった。


 常和台ときわだいに足場を持たない彼女。就職も別の地域でしたのだ。常和台ときわだいに戻る理由はなかった。


 ただ少し、河副かわぞえのことは気になっていた。どうしているだろうか、元気だろうか。しかし、ケ―タイのない時代。卒業アルバムを覗けば実家の電話番号はわかるが――


 4年の月日が過ぎ去り、本人が出るとは限らない電話を鳴らす勇気は彼女にはなく、そのまま時は過ぎ去り、ある男性と出会い家庭を持った。そして彼のことを思い出す機会もなくなった。


 河副かわぞえ自身はどうかといえば――よくわからない。その言葉がもしかしたら、ぴったりなのかも知れない。彼自身は従妹の許嫁と結婚した。子供の頃から決まっていたことだし、特に疑問にも思っていなかった。


 しかし、風の噂で知った。彼女が、飯塚いいづか沙苗さなえが結婚したことを。彼は少なからずショックを受けた。


 彼は彼自身は子供の頃から許嫁がいて、いずれ結婚するだろうと覚悟があった。


 ただ、彼にはなかった。彼女もまたいずれ誰かと結婚するだろうという覚悟が。彼女の噂を耳にして確実に彼の中の何かが壊れ始めた。積もった雪がどさりと地面に落ちるように、確実に何かを侵食した。


 彼が許嫁である従妹と結婚した当初、夫婦仲は決して悪くなかった。彼らの夫婦仲に暗雲が垂れこめてきたのは、今思えばどう考えても飯塚いいづか沙苗さなえの結婚の噂を聞いたからだ。


 しかし、彼は彼女に対して直接的な行動は取らなかった。取らない代わりに彼は飯塚いいづか沙苗さなえ


 飯塚いいづか沙苗さなえと初めて出会った、年齢くらいの黒髪ロングで色白な女子を求めた。求めはしたが彼は力ずくで、手に入れるようなことはしなかった。そのようなやり方は彼の性癖を満足させないからだ。


 初めて彼が手にした飯塚いいづか沙苗さなえの代替品。少女は家庭的な問題を抱えていた。少女の父親の事業が失敗したのだ。


 そのことを知ったのは授業料の度重なる滞納。本来なら担任を通して滞納通知を生徒に渡るようにするのだが……督促の意味を兼ねて事務室に呼び出した。


 現れたのはまさに飯塚いいづか沙苗さなえの空気をまとった少女だった。彼は後に奨学金をエサに少女と関係を迫る。事務長の彼にとって、奨学金の操作は難しいことではなかった。


 今から20年ほど前のことだ。取り立てて理由があった訳じゃないが、初めて精神的に服従させた少女の事を彼は思い出していた。


(確か名前は――コマツバ………)


 そんな彼は不意に声を掛けられた。見覚えがあるようでない女性だ。


! 本日校長先生にインタビュ―お願いしてます『小松原こまつばら有紀ゆうき』と申します。学校の方ですか? 校長室にはどのように行けばよろしいですか?」

 黒髪ロングをなびかせ、透けるような白い肌。言葉は丁寧だが自信に満ちた声色。


(そうだ、彼女の名前はだ)

 河副かわぞえは記憶の中の『コマツバラユウキ』と突如現れた小松原こまつばら有紀ゆうきを重ね合わせた。


 頭では理解できていた。彼が知る『コマツバラユウキ』は30歳半ばのはず。目の前の『小松原こまつばら有紀ゆうき』どう考えても20代半ば。単なる同性同名に過ぎない。しかし心は納得出来てなかった。


 彼が1番執着したのは飯塚いいづか沙苗さなえ。2番目が『コマツバラユウキ』だった。


 そしてその事実を小松原こまつばら有紀ゆうきは知っていた。いや、正確に言おう。


 小松原こまつばら有紀ゆうきは知っていたのだ。








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