第8話フェリシア領主ノワール

「ヴェラ様、決して私から離れないで下さい」


魔導車から降りる際にフォルテは幾重にも防衛結界をヴェラに掛けた。いくら強いヴェラであろうとも、遠距離攻撃魔法を全て防ぎ切れるかはわからない上に、フォルテが派手に動けば悪目立ちしかねない。隣ならば肉弾戦に関しては完全に守り切る事ができるが、離れてしまえば異郷の地の香りの中にヴェラを見失いかねない。ループス領の領民はフェリシア領民よりも嗅覚に頼っており、異郷の慣れない香りの中ではヴェラを探すのは困難となってしまう。


「えぇ、フォルテ」


最低限の警戒心は保ったまま、ヴェラはフェリシアの城下町を楽しそうに見物していた。ループスには無い、獣化しないと通れないような細い路地。高低差のある建物。屋根に登って獣化して昼寝をするネコたち……。シャガートでも見たネコ姿での喧騒。

フェリシア城の正門の前に立つとクルッと振り返ってヴェラはフォルテに言う。


「さぁ、行きましょう。

 フェリシア領主の御前に」


不敵に笑うヴェラを見て、フォルテはむしろ安心していた。


―――フェリシア城、廊下


「ようこそおいでくださいました

 ヴェラ・A・ループス様」


ペルシャ猫の使用人らしき女性獣人がヴェラとフォルテを迎え入れた。挨拶もそこそこにチラリと城の内部を見回すヴェラ。外見とはうってかわって、豪奢なシャンデリアや猫を模したガラス細工や高価そうな壺が等間隔で整然と並べられているフェリシア城の廊下。高級なカーペットが敷かれており、猫の優美な一面を表すかの様であった。ループス城とは違い、使用人はそれほど多くない。もしくは獣化してその身をどこかに潜めてしまっている様だ。銀細工の照明が照らすその長い廊下をヴェラとフォルテは静かに歩いていく。



―――一時間前、フェリシア領主の部屋


「ノワール様……っ」


仕事机から立ち上がる際にフラついたノワールを、彼の執事兼秘書であるシルヴェスは瞬発的に支える。金色の髪と灰色の耳と尾が特徴であり、ノワールと同じくリビアヤマネコの純血の女性だ。


「あぁ、大丈夫だシルヴェス」


誰がどう見ても大丈夫では無いことは明白である。目の下に大きなクマを作っている徹夜明けのノワールは頭を覚ますために軽く頭を振る。その程度では冴えないらしく、側においてあったコーヒーを一息で飲む。獣人に進化した今なら死ぬようなことこそないものの、あまりコーヒーを多量に摂取することは勧められていない。むしろ体に毒である。


「本日は縁談の日だと言うのに

 何故徹夜など……」


シルヴェスが心配している側から、ノワールはこめかみを抑えて辛そうな表情をする。


「頭痛薬をくれ」


シルヴェスは俯いて了承の意を表す。しかし、朝食もろくに摂らないままコーヒーで頭痛薬を流し込もうとするノワールに待ったをかける。


「ノワール様!

 ダメです、朝食をお摂り下さい!」


心配故の叫びだが、ノワールには届かない。片手で食べられる物を、とサンドイッチしか食べず、シルヴェスはため息をつく。


「シルヴェス、気にするな」


彼女の心配をよそにノワールはフラフラと鏡台の前に立つ。そして自分の顔を見て苦笑する。


「ハッ、元より冷たいであろうこの目がより一層爛々と光っていて恐ろしいことだろう。

…… あまりに目の下のクマが酷いな。シルヴェス、メイクでなんとかならないか?」


ロレオーヌ領からの侵攻宣言をされてから2週間、既にノワール直属の特殊部隊『微睡』を派遣してロレオーヌ領が侵攻を企てていることは事実だということを確認してからは、他領との関係を良好にし、条約をこぎつけようと様々な領に書簡を送る日々。加えて、国内の治安維持や陸路・海路交易の取り締まりなどの強化の為に各地を飛び回る彼は、悲鳴をあげる体に鞭を打ち、なんとかやってきた。


全ては、愛するフェリシア領を守る為に。


「不可能ではありませんが……、少し仮眠を取られた方が良いと思いますよ」


ノワールがフー、と長い溜息と共に気を抜いた一瞬、シルヴェスは彼に催眠魔法を放った。


「なっ……、シルヴェス、何を……」


一瞬の抵抗の後、ノワールはカクン、と糸が切れたマリオネットのように脱力した。


「寝て下さい」


溜息をついたシルヴェスは、力なく目を伏せる。彼女はノワールに10年もの間仕えてきた。同い年であり、今年25歳を迎える。

ネコという種族にしては珍しく忠誠心に厚い彼女は、ノワールにとても重宝されている。真面目で冷静な彼女だが、その忠誠心は恋慕へと変わっていた。

しかし、彼がどれだけ多忙かと言うことをよく知る彼女だからこそ、決してその好意は見せない。


彼の銀縁のメガネを取り、首を痛めないようにクッションを挟むと、彼に頼まれた目元のクマを隠す為のアイメイクも、血色を良くする為のチークも、全て整える。今まで一度も反抗したことは無かっただけに、彼は目覚めた時に何を言うのだろうかとふと我にかえりつつ、また深い溜息をついた。主人と秘書などあまりに身分が違いすぎる。あと数十分もしないうちに始まる縁談も、彼女にはどうすることもできない。出来るのは、サポートのみ。


「それならば、

 完璧にサポートして見せましょう」


それが唯一の彼への貢献だ、と自分に言い聞かせて。30分ほどノワールを寝かせた後、催眠魔法を解除する。


「くぁ……、って、シルヴェス!

 あなたいくらなんでも……!」


仮眠から目覚めてすぐにシルヴェスを注意しようとしたノワールだが、一瞬彼の目に映ったシルヴェスの心配そうな表情を見てつい言葉を失う。


「コホン、あまりに見苦しい姿だったな。

 確かに身体を壊しては元も子もない。

 ……その、感謝する」


感謝の言葉すら澱みなく言えない自分を情けなく思いながら、ノワールは立ち上がる。もう大切な人は失うのは御免だ、と目を伏せながら。


「さぁ、オオカミ様との御対面だ」


それはまるで自身に言い聞かせるように。

不安で仕方ない自分を奮い立たせるように。


ノワールは自室から廊下に踏み出す。その後をシルヴェスは静かに追従する。

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