「第7章 君のオレンジなんか救けなきゃ良かった」(1-3)
(1-3)
「澄人の栞が白くなっていくのは、純粋に嬉しかった。こんな私でも誰かの役に立てるんだって実感出来たから。週末はいつも部屋にいた私を外に出すきっかけを作ってくれた。本当に感謝してる」
当時を振り返るように顔を上げて、感想を呟く彩乃。澄人は昔、親戚に教えてもらった栞の事を思い出した。
「俺に——」
「うん?」
「俺に栞について教えてくれた人は言っていたよ。オレンジ色になってしまった栞を白くする事は出来ないって。どれだけ助けようと頑張っても色は変わらず、最後には自殺してしまう。それが栞のルールだって」
「……そう」
「そのルールを彩乃は変えたんだ。彩乃はオレンジの栞を白に変える事が、つまり他人を救う事が出来る。だったら……っ!」
「だからだよ」
彩乃が澄人の言葉を断ち切る。
「二人共、オレンジのままでいれば、いつか澄人にもやって来る。あの絶対的な安心感を感じてくれて、一緒に死のうと思ってた。まさか白くなるなんて。本当、君のオレンジなんか救けなきゃ良かった」
「……どうして一緒に死のうと思った?」
澄人に絶対的な安心感が発生するまで待つ理由が分からない。澄人は疑問を口にすると彩乃は悲しそうな笑顔を浮かべた。
「君に救けられたあの日から、私にはもう絶対的な安心感が来なくなっちゃったの。一度機会を失くすと次は相当長い間——、もしかしたら十数年単位で来ないのかも知れない。そんなの私には耐えられない。だから、責任を取ってもらおうと思った」
あの日以降、何故彩乃が自殺をしなかったのか。その理由がようやく判明した。
「てっきり、未練作りの効果が出てたかと思っていたよ」
澄人の言葉に彩乃は申し訳なさそうに後頭部を掻く。
「そっか。期待させてしまったならごめんね。効果が出ているのはあくまで澄人のオレンジの栞で私じゃないから」
「あぁ、分かってる」
彩乃の為にと頑張ってきた事が跳ね返って自分の為になっていた事。悲しいとは思うが、結果的には彼女に対して効果が出ているのなら受け入れるしかない。
「さてっと、」
澄人がそう考えていると、彩乃が立ち上がる。彼女の横顔は月明かりの下でも分かる程、ハッキリ見えていた。そしてその顔には一つの決意が浮かんでいた。
彩乃は一歩、足を前に出した。その一歩は普段歩くのと何も変わらないように見えるのに澄人には、とても大きく見えた。
「待って」
澄人は手を伸ばして彩乃の腕を掴む。
「離してよ」
彩乃はこちらを見ずにそう言った。
「離さない。離したら、彩乃はココから飛び降りるんだろ?」
「良く分かったね。そうだよ、私は今から飛び降りる。だからココに来た」
彩乃はゆっくりとこちらを振り返った。月明かりに照らされた彼女は、とても綺麗で、どんな映画でも小説でも描写出来ない神々しさがあった。頭のオレンジの栞は月明かりに反射して、より存在感を増している。
その神々しさはとても今から生命を断つ人間が出せる魅力ではなかったが、逆を言うと、今から死ぬ人間だからこそ出せる最後の輝きなのかも知れない。
見惚れてしまった澄人は、腕を離そうと力を入れた彩乃に引き戻された。
「……ッチ。何かボーッとしてるから今なら振り解けると思ったのに」
「確かに。今のは危なかった」
素直に認める澄人だが、依然として彩乃の腕を掴んだまま離さない。
互いに見つめ合ったまま、動かさない。
目を逸らしてしまったら、もう二度と彩乃には会えなくなる。その気持ちが澄人の心にあった。
沈黙は五分か十分。もしくは永遠に感じるくらい長かった。
夜風が時折、彩乃の黒髪を乱暴になびかせる。彼女はそれを抑える事なく、真っ直ぐな目で澄人を見つめていた。
大きめの夜風が吹いてからしばらくして、彩乃がゆっくりと口を開いた。
「……どうして、助けようとするの?」
彩乃の真っ直ぐな訴えに澄人は上手く返せない。言葉が出せず口を紡ぐ彼に対して、彼女は抑えられない苛立ちを向ける。
「最初から何一つ、澄人には関係ないじゃない‼︎ どうして救けようとする訳⁉︎ オレンジの栞が見えるからって良い気分なのかも知れないけど、そんなの迷惑でしかない!!」
彩乃の発する言葉の鋭さに体が貫かれる。たとえ、その言葉が本心であろうとなかろうと受けたダメージは変わらない。
澄人が小さく口を開けて受けたダメージを放出しようとするが、彩乃が更に攻撃の手を緩めない。
「死ぬ事でしか報われない人がいて、本人も分かっている。なのに何で邪魔をするの⁉︎」
そう言い放った彩乃自身の体が小刻みに震えていた。それを見て澄人は彼女自身も自分の発した言葉でダメージを受けているのだと知った。
澄人は彩乃を掴んでいた手を引き寄せる。引き寄せられた彼女は何の抵抗もなく、彼に体を預けた。それがトリガーとなり、彩乃は瞳から大粒の涙を流し始める。彼の胸に顔を埋めて泣き顔を見せないようにしても、震える体とじんわりと胸元から感じる温かみが彼女の心境を物語っている。
「どうして死なせてくれないの? どうして気まぐれで助ける澄人に付き合わないといけないの? 感謝はしてるから……、だから邪魔しない、で」
顔を少しだけ離して訴える彩乃。その声色からはとても攻撃力はなく、澄人はその小さな背中に手を回して抱きしめた。
「確かに最初は事情を知らなかった。栞が見えただけで、それだけで助けてしまった。それは本当にごめん。だから、約束する。この先、俺のオレンジが白になっても未練作りは続ける! そして、いつか本当に彩乃の栞を白くするからっ!!」
心の中にあった想いを伝える。推考されていない想いは少し突けば簡単に崩壊するような、そんな儚いものだったけど、それでも彩乃の心にちゃんと届いた。
彩乃は澄人の胸に顔を埋めたまま、問いかける。
「…………本当に白く出来る? 普通、栞の色を変えるなんて出来ないんだよ? ただ、私が偶然出たからって澄人にも出来るとは限らないんだよ? そんな曖昧な約束を私は本当に信じて良いの?」
彩乃が顔を上げる。涙を流して潤んだ瞳は真っ直ぐに澄人を捉えて逃さない。彼には分かっていた。ここでの返事が目の前にいる彼女の一生を決める事を。
頷く事、了承する事、約束する事。そのどれもが簡単に出来ない。とてつもない覚悟がいる。
自分から言っておきながら、いざ問われると上手く答えられない。なんて情けないのか。所詮、その程度の覚悟だったのか。
心の内で誰かにそんな事を言われた気がした。澄人は口から息を吐く。白い吐息は冬の夜に溶けて、霧散していく。
彼女を抱きしめる手に力を込めた。
「がんば、る」
澄人が何とか絞り出せたのは、不確定で小さな決意表明だった。
沈黙の後、彩乃が顔を離してクスクスと笑う。
「今から死のうとしてる人間を引き止めるのに頑張るって言われても、ちょっと弱いなぁ」
「それは、そうかも」
指摘された事はもっともだと自分でも分かっているので、澄人は否定出来ない。困ったように目線をズラすと、彩乃は「もぉ〜」と声を漏らした。
「しょうがない。確かにオレンジから白になる実例がある訳だし。ネガティブな事ばかり考えても前進しないのは確か。それならオプティミストになった方が良いよね」
「オプティミスト?」
聞き慣れない単語に首を傾げる澄人。すると、彩乃はまたクスッと笑って彼の背中に手を回す。
「ありがとう。澄人君の頑張りを少しだけ信じてみる」
彩乃にそう言われて、澄人は張り詰めていた糸が切れたように緊張が抜けた。体がコンニャクのように柔らかく感じて、「あぁー」と声が漏れる。
油断すると後ろに倒れそうになるので、重心を前にして彩乃に持たれかかる。
「おっとと。どうしたどうした」
急に体重を掛けられた彩乃が驚きつつ、澄人を支える。
「ごめん。何か力、抜けちゃって」
「なに? そんなに心配してくれたの?」
「そりゃするよ。今日は一日、ずっと心配してた」
「なるほどなるほど」
澄人の心境を知って納得した彩乃は彼の背中に回していた手に力を入れて、背中を優しくトントンっと叩いた。
「なら、この重さは甘んじて受け入れましょう。澄人がそれだけ私を心配してくれた重さとして」
彩乃の温もりを、優しい言葉を一生忘れない。
澄人は彼女に包まれながら、そう思った。
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