「第5章 未練作りの一環として」(6-1)

(6-1)


 その日は放課後までずっとソワソワした一日だった。プログラム通りに動くロボットの如く、黒板に書かれたを板書していただけで、授業内容は記憶に残っていない。前野達とも会話はしているが、内容は思い出せない。

二人にも何かあると気付かれただろう。


 帰りのホームルームが終了して帰るだけとなった今から、澄人と彩乃の一日は始まると言っても過言ではない。いつもは周囲の目もあるので、あまり学校では話しかけないようにしていたが、今日は違う。


 周囲の誤解など後で幾らでも言い訳出来る。澄人は、帰りのホームルームが終わると、すぐに彩乃に話しかけた。


「あれから正弘さんから連絡は?」


「来たよ。場所と時間の変更がしたいってメールが来た」


 彩乃は帰り支度をしながら答える。彼女の机横のフックには昨日買った東急ハンズの袋が掛かっていた。


「予定を変更するなら、融資の話はなしだって言ったら、すぐに納得してくれた。あらためて感じるけど、お金の力って凄いよね」


「正弘さんの場合は特に」


 澄人が訂正すると、彩乃は「そうかな?」と首を捻る。


「お金の力って本当に凄いよ。大抵の人は言う事聞いてくれるから」


 なんて事ないようにサラリとそう言った彩乃は 肩掛けの通学カバンを背負い、続いて東急ハンズの袋持って立ち上がる。だが、東急ハンズの袋を落としてしまう。幸い倒れず袋は直立を維持していた。


「大丈夫?」


「何が?」


 澄人が声を掛けると、彩乃は逆に聞き返してきた。明らかに彼女からは余裕が無くなっている。あと数時間後に何度も苦しめられている正弘との対決。


 昨日までは準備段階な事もあって、テンションがハイになっており、当日になって初めてこの後起こる出来事について、緊張しているのだ。


「あのさ……、どうしても難しかったら日取りを変える事も出来るんじゃないか? 体調が悪いとか言えば、正弘さんは納得してくれるでしょ」


 澄人がそう提案すると、彩乃は首を振る。


「大丈夫だから。心配してくれてありがとう。私は大丈夫」


「それならいいんだけど……」


 自分自身にも言い聞かせてるような彩乃の大丈夫は、聞いている澄人側が苦しくなる。


「三嶋君が怖いなら私一人でも行く。変に日付をズラしたら勘付かれそうだし」


「まさか。俺が言い始めた事なのに肝心な所にいないのはおかしいって。最後まで付き合うよ」


 澄人がハッキリと話すと、彩乃が少しだけ笑って「ありがと」と礼を言った。それだけで若干だが、彼女が抱えていた緊張が抜けたのを感じる。


「よし、じゃあ行きますか。今日で正弘さんを退治しよう」


「ああ。行こう」


 少しでも不安を軽くして澄人と彩乃は学校を出た。


 二人が正弘との待ち合わせ場所に指定した公園は、住宅街にポツンと忘れ物のように置かれていた。ブランコ、砂場に滑り台と一通り公園に必要な遊具は揃っている。        

 砂場には緑色のシートが引かれて砂が舞わないようにされているあたり、本来の役目は果たせていないようだ。


 学校の最寄り駅の反対側入口にある公園、本当に危ない時は走って逃げられる。電車通学の生徒はやって来ない。


 様々なメリットを考えて決めた公園だった。


 昨日、既に澄人達はバケツ等をトイレの用具室に隠していた為、まずそれを回収。水を溜めて、木の裏に隠しておく。


 澄人は公衆トイレの裏に隠れて待機。携帯電話を彩乃と通話状態にして、イヤホンマイクを耳に着ける。


 彩乃は近くのベンチに腰をかけていた。ベンチ下には昨日東急ハンズで購入したボストンバックがある。正弘が到着するまで、後五分を切った。


 下を向いて正弘を待っている彩乃。彼女は一体、どんな心境なのだろうか。

 約束の時間を少し過ぎて、公園の前に一台の黒のセダンが止まった。チラリと一瞥した彩乃は、遠目からでも分かるくらいに肩を固くする。その反応ですぐに正弘の到着を知った。


 運転席から降りた正弘は前回とは違ってスーツを着ていた。正装のつもりなのか分からないが、澄人にはそれがとにかく気持ち悪く見えた。彼はゆっくりと歩き、彩乃の前に立つ。


「やあ、彩乃ちゃん。待たせちゃったかな?」


「いえ、大丈夫です」


 携帯電話越しから聞こえる二人の会話。彩乃の長髪に隠れたマイクのコードは制服の中から繋げているのでまずバレない。


 彩乃がゆっくりと顔を上げて立ち上がり正弘に応える。彼女の顔は怯えを隠し考えを決めたような顔をしている。表情まで話していなかったけど、その顔を見せた事で正弘の警戒心はかなり薄れた。


「早速銀行に行こうか。僕から担当には連絡してるから何も心配はいらないからね」


 彩乃の肩に手を置いて柔らかく話す正弘。彼の手が肩に乗った時間、小さく体を跳ねた彼女は、首を左右に振った。


「大丈夫です。お金はもう持って来てます。これが正弘さんが希望された三千万円ですよね?」


 彩乃はベンチ下からボストンバックを取り出して開く。中にはギッシリと札束が入っていた。見せられた札束に正弘が口を丸くする。


「なんだ、もう用意してくれたのか。ありがとう。ごめんね? 手間を取らせちゃって。いやぁ、このお金は大切に使わせてもらうよ。大丈夫、ご両親も君のやった事を責めはしない。応援してくれるさ」


「そうですか」


「そうだよ。昭彦君だけは未だに反対してるけどね。今夜にでも僕から彼には言っておくよ。安心しなさい」


 ボストンバックに視線を移しながら話す正弘の言葉は何も心に入って来ない。

 それを至近距離で聞いてる彩乃は一体、どれほどの苦痛なのだろうか。本当は今すぐにでも飛び出したいが作戦上、自分の存在がバレる訳にはいかない。澄人は息を殺して二人の様子を窺い続ける。


 正弘がボストンバックに手を伸ばそうとした時、それよりも先に彩乃が手を伸ばした。


「ん? どうしたの?」


 正弘は貼り付けたような笑顔で彩乃に問いかける。


「正弘さん、貴方にお金をあげる事は、やはり出来ません。このお金はお父さんとお母さんの命のお金だから」


「うん、それは分かるけどね。だがね、冷静に資産としての運用を考えてほしいんだ。どうするのが将来的に君の得になるのか」


 目前まで迫った大金に手が届かない。そのもどかしさから、正弘の口調は焦っていた。彩乃は構わず続ける。


「このままだと私はおじさんから融資を迫られ続けます。お金を持ってる限り……。だから、こうする事に決めました」


 彩乃は予め決めた台本の通りに話して、ブレザーのポケットから小さなサラダ油を取り出した。蓋を開けて逆さまにすると重力に従って落ちていくサラダ油は、札束にシミを作り広げていく。


 目の前で起きた突然の出来事に正弘は、固まっていた。彼がようやく動けたのは彩乃が、マッチを取り出して火をつけ、ボストンバックに落としてからだった。

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