「第5章 未練作りの一環として」(6-2)

(6-2)

 

 火が落ちた途端に勢い良く、燃え始める札束。


「あああああっ‼︎」


 正弘が立ち上がり声を荒らげる。今まで聞いた事のないような声だった。注がれたサラダ油の量は僅かだったが、紙幣を燃やすにはそれで充分であり、耐熱性のボストンバッグの中身はあっという間に燃えてしまった。


 彩乃は呆然とする正弘を余所にスタスタと歩いて、予め用意していた水入りのバケツを持って、ボストンバッグにかけた。白い煙が立ち上ぼり彼女と正弘の間に壁を作る。風に吹いて煙が吹き飛ばされた頃には、お金は完全に燃えて失くなった。


「正弘さん、ごめんなさい。これで私が正弘さんに渡せるお金は失くなってしました。もう渡せません」


 決められた台詞を言って、頭を下げる。依然として呆然としていた正弘は、彩乃に言われてようやく事態を把握する。


「ははっ……、ココまでするかよ。お金を払いたくないからって……」


 今まで敬語で隠していた正弘の本心が垣間見えた。彼は、一歩ずつゆっくりと彩乃に近付いていく。想定外の行動だった。二人の予想では、正弘はここで帰ると考えていたのだ。

 正弘は彩乃の元へ向かう途中にあった用済みのボストンバッグを蹴り上げた。

 紙幣の消し炭がボストンバッグから宙に舞う。


 正弘は彩乃の前に立つと、彼女の胸ぐらを掴んだ。


「ガキのくせに余計な事しやがってっ!! 最初から大人しく金を渡したらいいんだよ!!」


「止めてっ!」


 掴まれた正弘の手を掴んで彩乃は抵抗するが、それが余計に腹立ったのか。彼は手を離して彼女を突き飛ばす。倒れ込んだ彩乃に蹴ろうとした。


 様子を見ているだけでいいと言われていた澄人だったが、もう限界だ。

 隠れていた木の裏から飛び出して、正弘を背後から捕まえて押し倒す。


「うおっ!」


 不意打ちで押し倒されて倒れ込む正弘。自分を倒したのが、澄人だと分かると「お前は……確か」と訝しむように見つめていた。


やがて「ああ」と声を出して澄人の事が分かると立ち上がり、体に付いた砂埃を払っていく。


「お前の入れ知恵か?」


「これは和倉さんが決めた事だ。もう、彼女のお金を狙うのは止めてください」


 澄人がそう言うと、正弘はじっと彼を見た。大人から受けるハッキリとした悪意に怯みそうになるが、彩乃もこれを受けたのだと何とか踏ん張れた。


 数秒間、互いに睨み合う時間が流れると正弘は「はぁ〜」とワザとらしいくらい、盛大なため息を吐いた。


「もういいわお前ら。バカバカしい。勝手にやってろ」


 一方的にそう告げた正弘は、公園前に停車していた自分の車に乗り込んで発進した。スモークガラスの向こうからは顔は見えなかった。もしもの事を考えて、緊張の糸を張ったままにしていた澄人は、彼の車が走行音が遠くに行ったのを聴いて、ようやく肩を下ろす。


「ふぅー。何か色々と言われたけど、これで解決かな?」


 澄人がそう言って振り返ると、彩乃は座り込んだままだった。飛ばされた時にどこか痛めたのかと慌てて近付く。


「大丈夫?」


「うん、大丈夫」


 澄人の問いかけに彩乃は弱々しくも笑顔で返す。彼女の笑った顔を見て、ああ本当に終わったんだと、やっと実感する事が出来た。


「自動販売機で飲み物買ってくるよ」


「あ、じゃあお金……」


 彩乃スカートに手を入れて財布を取り出そうとするので、手を広げて制止する。


「それぐらい自分のお金で買うから」


「でも、私のせいで沢山迷惑かけたのに」


「大丈夫だから。何が飲みたい?」


「……コーンスープ」


「分かった」


 彩乃の注文を受けて、澄人は自分のレモンティーとコーンスープを買って彼女の下へ。彼女は、濡れてグシャグシャになったボストンバックを足下に置いてベンチへと戻っていた。


「はい。お待たせ。熱いから気を付けて」


「うん。ありがとう」


 澄人からのコーンスープを両手で受け取った彩乃は、アルミの蓋を回してゆっくりと口を付ける。澄人もレモンティーに口を付けた。冷たい口元に優しく温かいレモンの香りが入ってくる。


 一連の出来事が終わったのを示すレモンティーを丁寧に澄人は味わった。


 澄人の隣で彩乃が大事そうにコーンスープを飲み、口元から缶を離す。


「美味しい。私、今日のコーンスープの味。一生、忘れない」


「まあ、衝撃的な一日だったからね。嫌でも覚えてると思うよ」


 澄人がそう言うと、彩乃はクスッと笑って首を左右に振る。


「そうかも」


「ああ。十年は少なくとも覚えてると思うよ」


「十年かー、長いなぁ。私、生きてるかな」


 十年後をまるで果てしない遠い未来のように話す彩乃。そう話す彼女の頭に挟まっている栞は、もうかなり白くパッと見たらオレンジと判別が出来ない。


「大丈夫だよ。十年後もちゃんと生きてるって」


「本当? 本当にそう思う?」


 澄人の言葉に彩乃が首を傾げて問いかける。真っ直ぐにこちらを見つめる少し茶色がかった瞳は、吸い込まれそうなぐらいに綺麗で長く見ていると、不安になってしまいそうになる。


 その不安をかき消すように澄人は頷いた。


「ああ。本当にそう思う」


 彩乃の瞳より目線を上げた先にあるほぼ白い彼女の栞。そこに向かって澄人は答えた。すると彼女は、少しだけ黙って「そう……、」と感想を零した。


 二人で無言のまま淡々と飲み物を口に入れる。最初は温かかったレモンティーも時間が経てば、冬の寒さにやられて段々とぬるくなっていく。


 先に綾乃がコーンスープを飲み干した。


 飲み口から離れた彼女の口元から湯気と共にコーンの香りがする。


「ふぅ、美味しかった。ごちそうさま」 


 澄人も飲み終えて、二人は自動販売機の横にあるゴミ箱に捨てた。ボロボロになったボストンバッグは中身の灰になった偽札の束を用意していたゴミ袋に入れて、それを公園内のゴミ捨てに入れた。ボストンバッグはココには入りそうになかった。


「さて、これからどうする?」


 ボストンバッグを手に持った澄人が彩乃に尋ねる。


「やっぱり早くここから離れた方がいいかな。大丈夫だとは思うけど、正弘さんに見つかる可能性だってまだゼロじゃない」


「確かに。正弘さんが偽札って気付いたら戻って来そう」


 彩乃が腕を組み「うーん」と唸って考えを巡らせた。澄人は黙って見守る。やがて結論が出たらしく、一回頷いた。


「やっぱりグリーンドアかな。あそこなら大丈夫。香夏子さんも深くは聞いてこないよ」


 彩乃の言う通り、ボロボロのボストンバッグを持っていても察してくれる香夏子の様子が目に浮かんだ。確かに状況的に言って行けそうな所はあそこしかない。


「分かった。じゃあ、グリーンドアに行こう」


「うん」


 二人はグリーンドアへと向かう事となった。


 公園を出て、少し歩いてから澄人は振り返る。行く時には公園全体が暗く見えて、重力も強く感じていたのに事が終わると、嘘のように軽かった。

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