「第5章 未練作りの一環として」(3-2)

(3-2)


 自分より遥かに経験も知識もあるお金だってある。そんな昭彦が頭を下げている事に澄人は動揺する。慌てて「ちょっと……っ」と立ち上がった。


「頭を上げてください。頭を下げられるような事は何も」


 澄人に言われて昭彦は静かに頭を上げる。


「僕に出来ない事をしてくれてるんだ。頭ぐらい下げさせてくれよ」


「一応、これからも彩乃さんの力になりたいと思っているので……」


 彩乃の力になりたい。その言葉を聞いた昭彦は肩をゆっくりと上下させた。


「その言葉が聞けただけで、今日話をした甲斐があったよ。さて、そろそろ頃合いか」


 腕時計を見ながら昭彦が話す。澄人も携帯電話で時間を確認すると、彼と話してから十五分程経過していた。


「すまないね、本当だったら駅まで車で送ってあげたいが、あいにくと今は、この部屋から出る訳にはいかないんだ」


「全然大丈夫です。むしろ、俺の方こそお忙しいところ、すいません」


「そう言ってくれると正直、助かるよ。ありがとう」


 澄人は昭彦に礼を言って彼の部屋から出た。そして彩乃の部屋の前に立ち、ドアをノックする。


「和倉さん?」


 十五も分待たせてしまった事に彩乃に怒られるかと覚悟していたが、澄人がドアをノックしてから、ドアが開く事も彼女の声も聞こえなかった。


 余程、怒らせてしまったのだろうか。より慎重に再度、ノックするが彼女からの返事はない。


「和倉さん、開けるよ?」


 ドアノブに手を掛けてそっとドアを開ける。すると彼女はベッドに仰向けになり、目を瞑っていた。


「寝てる……」


 彩乃は、規則正しい寝息を立てて、胸を上下に揺らしている。制服も髪も無造作にベッドの上に広がっている。


 澄人は静かに彩乃の傍まで近付き、彼女を見下ろす。いつも周囲に対して隙を見せないようにしている彼女が、ココまで無防備でいるのが、何だか不思議な光景だった。


 そこからは無意識の動作だった。澄人はそっと彩乃の頬へと右腕を伸ばす。


 部屋に二人きり、誰にも邪魔されない。


 あと少し。あと少しで彩乃の透き通るような白い頬に手が触れる。


 自然と澄人の指先に神経が集中していく。


 緊張が最高潮へと上がっていったその時、


「起きてるけど」


「っ……⁉︎」


 澄人は素早く手を引いた。


 彩乃が静かに起き上がった。そしてじっと澄人を見つめる。


「三嶋君って。そういう事はしないと思ってた……」


「ごめんっ! 和倉さんが眠ってるの初めて見て、それでつい」


「ついって……」


 彩乃は大きく息を吐く。そこに映る呆れたという感情に澄人の胸がカーッと熱くなった。


「ごめんなさい」


 澄人は頭を下げて彩乃に謝罪する。彼女はスッと立ち上がった。


 肩にトンッと軽い感触があった。そして上から声が聞こえる。


「よろしい。許してあげる」


 彩乃はニコッと笑う。


「ありがとう。よし、じゃあ行こうか」


「ああ」


 二人はマンションから出た。彩乃の部屋から見た通り、夕焼けが完全に無くなり、代わりに青暗い夜空へと姿を変えていた。


「もうすっかり遅くなっちゃったね。お家に帰って怒られる?」


 駅までの間、隣を歩く彩乃は夜空に視線を移しながら、尋ねてくる。澄人は今よりも遅くなった事があるので、そこまで心配はしていない。


「大丈夫」


「そう。それなら良かった」


 澄人の大丈夫を聞いて、視線を下ろす彩乃。


「昭彦さんと何を話していたの?」


「そんな大した話じゃないよ」


 流石に内容までは話せず、澄人は流し気味に答えたる。すると彩乃は「ふーん」と口から溢していた。彼女にとって、そこまで知りたい内容では無かったんだろうか。


 駅までは一本道で視界の先から薄らと踏切が見えてきた。


 すれ違う人も次第に多くなっていく。殆どは学生だ。家に帰る彼らとは逆に駅に向かう自分達を澄人は少し異質に感じる。


 踏切を越えて、駅前のロータリーまでやって来た。


 何台かの車が停まっていた。タクシーではないので誰かの迎えに来ているのだろう。あの車一台一台にそれぞれの家族がある。そう考えると、決して自分中心で世界は回っていないのだ。


 改札前にやって来ると、夜道が一気に明るくなる。太陽光ではない人工の白い照明に目を細めながら電光掲示板で時間を確認する。


「次の電車まであと二分だね」


 澄人よりも早く彩乃が電車を見つけた。


「本当だ。じゃあホームで待つよ」


「三嶋君、今日は本当にありがとう。また明日からよろしく」


 そう言って彩乃はこちらに手を伸ばしてきた。


「ああ、こちらこそ」


 初めての未練作りの握手を思い出しつつ、澄人も手を伸ばした。


 改札前で互いに握手を交わす。


 握手をしている間、両者の間に会話はなく、お互いの顔だけを見つめていた。


 今、この瞬間に言葉は無粋。


 澄人はそう思った。


 二人の握手を終わらせたのは、ホームに響くアナウンス。


 女性のアナウンスが響き、電車の到着を知らせる。それに合わせて彩乃が手を離した。


「じゃあ、また明日。おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 彩乃と別れて澄人は電車に乗った。それまで知らない街の知らない駅のホームだったが、電車はいつもの電車だったので中に入った瞬間、安心する。


 閉まるドアの隙間から彩乃が見えた。彼女はこちらを見ながら、手を振っている。普段なら、その行動に驚いて手を振り返す事は出来ないだろう。


 だが、今日は彼女の部屋で話した時間がある。


 澄人は何の驚きも躊躇いもなく、素直な気持ちで手を振り返した。


 電車がゆっくりと動き出す。最初は子供でも追い付ける速度で、だが次第に速度が上がる。あっという間に彩乃の姿は見えなくなった。


 彩乃は澄人から見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。

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