「第5章 未練作りの一環として」
「第5章 未練作りの一環として」(1)
(1)
キャラメルマキアートを飲み終えた澄人は、一旦店を出て昭彦を待つべきかを提案する。すると彩乃が時間を確認する為に電話を掛けた。受話器から聞こえてくる落ち着いた低い声。電話の向こうにいるのは、話に出てきている昭彦のようだ。
数分の短い会話を終えて彩乃は「昭彦さん十分後に来るって。もう少しだけいようか」と提案された。
その為、二人は空のカップを持ったまま十分間を過ごす。行きの地下鉄と同様に互いの間に会話はない。会話がなくてもそれぞれの時間を過ごしている事で自然と肩の力が抜けた十分間を過ごせた。
あらためて澄人は彼女との間に流れる穏やかな空気が好きだった。特に沢山の会話をする事なくても充分な充実感。それこそが今の感情の正体。それは前野や佐川といる時とは違う。どちらかと言うと家族といる時に近い。でも、近いというだけで、同じ系統かと言われると微かに周波数が違う。
充実感の正体が分からないまま澄人は店を出た。前を歩く彩乃は自分といる時に同じものを感じてくれているだろうか。聞いてみたい衝動が少しだけ喉から顔を出すが、気付かれないように飲み込んだ。
二人は店を出て大勢の人々がアーケードに向かう為の交差点を渡り、そのまま南下する。この街は元々、港町という事もあって少し南へ足を向ければ遠くに海が見える。潮風が冬の力を借りてより勢力を増して顔に当たる。数分前までいた喫茶店の暖房が早くも恋しくなってくる。
そのまま南下して繁華街からオフィス街へ。そして大通りから一本外れた所に銀のセダンが一時停車していた。
「あ、もう来てる」
車を見つけた途端、彩乃がそう呟く。つまりあれが今から乗る車であの車には、
例の昭彦なる人物がいる。駅改札での正弘とは違うのは承知しているが、それでも緊張してしまう。
彩乃は車に駆け寄り左ハンドルのパワーウインドウをノックする。するとゆっくりとパワーウインドウが音を鳴らして下がっていく。乗っていたのは短い黒髪をたたせて茶色いフレームを掛けたスーツの男性だった。顔立ちに幼さが残っていた正弘と比べて大人の顔をしている。
「意外と早かったね。何だかんだでもうちょっとかかると思ってた」
「今日は仕事が順調だったからな。彩乃から連絡が来ても早退出来るぐらい」
「いつもそうしてくれると晩ご飯を一人で食べなくて済むのに」
「最近はなるべく早く帰ってるじゃないか。勘弁してくれ」
「はいはい」
彩乃はそう言って、反対側に周り助手席のドアを開ける。その場に立っていた澄人は、どうしたらいいものか動けないでいたら、彼女と目が合った。
「どうしたの? 早く乗って?」
「あ、うん」
彩乃に促されて澄人はようやく一歩を踏み出す事が出来た。あらためて運転席にいる正弘に頭を下げる。
「えっと、和倉さんのクラスメイトの三嶋です。お忙しいところすみません」
「ああ。彩乃から聞いているよ。君も乗りなさい」
「はい」
正弘に言われて澄人は後部座席のドアを開けた。茶色の革張りのシート。程よい暖房が効いていて、微かに芳香剤の香りもする。家族以外の車に乗る事はココ最近少なくなり、今ではタクシーぐらいしかない。その事もあってか、彼はまるで借りてきた猫のように通学カバンを膝の上に置いて大人しく座る。
三人を乗せた車は静かに走り出す。車内には音楽やラジオはかかっておらず静寂に包まれて、時折方向指示器の規則正しい音が鳴るだけだった。
「いきなり呼び出してごめんなさい」
「いや、いいよ。もう慣れたから」
「ありがと」
「それよりも正弘だ。最近、大人しいからやっと諦めたと思ったんだが……、まさか尾けるとは。流石に俺も毎日、送り迎えは出来ないし」
そういう昭彦の声色からは、彩乃を心配していると共に正弘への嫌悪が伝わってきた。
「大丈夫。正弘さんに出来るのは尾けるぐらいだから。あの人、態度だけで内心は臆病だもの。それ以上の強行手段に出るような事はしないよ」
「だといいんだが」
正弘の話を二人がする中、昭彦が「三嶋くん」と澄人に話を振ってきた。
「はい」
突然、話を振られて緊張しながらも応える。
「君にも迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない」
「いえ、そんな事は」
「そうかい? そう言ってくれると正直ありがたいよ」
運転をしたままで昭彦は澄人にそう言って小さく笑った。自分が緊張しているのが伝わっているから、話を振ってくれているのは分かっていたが、分かっていても中々、緊張は解けるものではない。
澄人がそう考えていると、昭彦が「ところで……」と前置きを作ってから恐る恐ると言った感じで口を開いた。
「それで一つ、確認しておきたい事があるんだけど、いいかな?」
「はい。何ですか?」
「君は、彩乃の彼氏なのか?」
「ちょっと変な誤解しないで。三嶋君はそんなのと違うから」
澄人が答えるよりも早く、彩乃が否定する。彼女がしっかり否定した事に安心したのか、昭彦は小さく笑った。
「分かった。彩乃がそう言うのならそうなんだろう。三嶋君もそれで良いか?」
「はい、勿論」
昭彦に同意を求められて、澄人は了承する。元々了承するつもりだったのに、こちらから答える前に彩乃から答えられた事に少しだけ違和感が生まれた。
生まれた違和感をどうこうする事はせず、落ち着かせるつもりでシートに背中を深く預ける。気付けばずっと緊張していた為、今まで背中がシートに付いていなかったのだ。
シートに預けて窓の外からいつもの場所を眺める。普段は歩いているので車から見る事はない景色。それが何だか新鮮だった。昭彦の運転はまるでタクシーのように丁寧なブレーキングで落ち着けた。前の二人の会話もいつの間にか無くなっており、車内にはヒーターだけが音を主張していた。
暖かさと心地良さに次第に澄人の目蓋が重くなっていく。目蓋の重さを自覚した時には、もはや彼の意識は奥へと沈んでいた。
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