「第4章 何気なくを人工的にやる人」(7-2)

(7-2)


 ホームで彩乃を見かけたと言う事は、彼は二人を尾行していた事になる。その事実を何の悪びれもなく話す事に澄人の背中がゾワッとした。


「何の用ですか?」


 彩乃は一歩も動かずに尋ねる。右手は拳を作りもう片方の手は通学カバンの持ち手を強く掴んでいた。力が強いのか持ち手にシワが寄って、彼女の手が白くなる。


 彩乃が警戒しているのを見て澄人にもいかに正弘という人物が危険なのか把握出来た。正弘はわざとらしい作り笑いを浮かべて口を開く。


「いやだなぁ、彩乃ちゃん。何の用だなんて本当は分かってる癖に。例の件だよ」


「あの件はもうお断りしました。昭彦さんもそう言っていたでしょ?」


 昭彦という名前を彩乃が出すと正弘の作り笑顔がほんの一瞬だけ、崩れたのを澄人は見逃さなかった。同時にそれは苛立ちからなのも。


「いやぁ〜。昭彦さんには何度かお願いしているんだけど、中々納得してもらえなくてね。最近じゃ、彩乃ちゃんに会わせてもくれなくなった。おかしいなー。きっと何か誤解をしているだけなんだと思うんだけどさ」


 後頭部に手を置いて恥ずかしそうに話す正弘。口調自体は穏やな話し方だが、彼の根底にある汚れた感情は隠し切れていなかった。


 正弘は困ったように顎に手を置いて「うーん」と唸った後、急に視線を澄人へと移した。これまでまるで眼中に無かったのにもかかわらず。


「そうだ、彩乃ちゃんの彼氏君。君はどう思うかな?」


「どうって、言われても……」


 話の核を何も知らないのにいきなり振られても答えられない。澄人は無意識に一歩後ずさってしまう。正弘はそこを見逃さない。彼はすかさず一歩足を前に出した。


「そうか。君は彩乃ちゃんの今までの彼氏とは違うんだね。それなら僕も安心だ」


「正弘さん!」


 彩乃が大声を出す。それはとても大きく、地下鉄の改札に響く。ザワザワとした人々の喧騒が弱まり不特定多数の視線を受ける程だった。それを把握しているのか彼女は慌てて口に手を当てる。


 一方で大声を出された正弘は尚も表情を崩さない。


「彩乃ちゃんから話す予定だったのか。なら申し訳ない。今日はココまでにするよ。二人ともまたね」


 そう言って、正弘は振り返って改札に向けて足を進めた。彼が改札を完全に通るまで澄人は油断が出来ず、目を逸らせなかった。向こうがホームへと続くエスカレーターへ乗り姿が見えなくる時、こちらに顔を向けた。


 何気なくを人工的に行っているような笑顔を作って手を振り、消えていく正弘に澄人の背中がゾクッと危険信号を発した。彼の姿がホームへと消えて隣にいた彩乃がその場にしゃがみ込む。


「大丈夫⁉︎」


 動揺する澄人に首を縦に振って返す彩乃。両肩を抱きしめて小刻みに背中を揺らすその姿は、とても大丈夫そうには見えなかった。先程集めてしまった視線が霧散したのに再度、集まり始める。このままではいずれ駅員が様子を見にやって来るだろう。


 取り敢えず今、自分に出来る事をと彩乃の震える背中をさする。三十秒程して、次第に彼女の震えが収まってきた。


 これまでずっと伏せていた顔を上げて、「ありがとう三嶋君。もう本当に大丈夫だから」と背中をさすっていた澄人に告げる。


「分かった。歩ける? どこかで腰を下ろそう」


「うん」


 彩乃はゆっくりと腰を上げた。正弘に気丈に振る舞っていた代償なのか、その表情からは疲労が見て取れた。


 それから二人は地上エスカレーターから出口へと出て、興奮で火照った体を冷ましながら、予定通りコーヒーチェーンへと入った。


「いらっしゃいませー」


 緑のエプロンを着た清潔感のある女性店員が、笑顔で二人を迎え入れる。彼女の笑顔と寒気からしっかりと守ってくれる暖かい空調。まるでココは、世界の酷さから断絶された避難所に似た尊さを感じる。


 二人はレジに並び、キャラメルマキアートを注文した。ランプの下で注文したキャラメルマキアートを持った二人は二階へと上がる。


 二階は平日の夕方という事もあってか多くの学生の姿があった。勉強をしている者やただ話しているだけの者など、店内はガヤガヤと騒がしい。普段ならそこまで考えないが、今の二人にはこの日常にとても助かっていた。


 店内奥にあるソファ席に腰を下ろす。ココまで会話らしい会話はない。冷静さを戻しているが、それでも普段に比べたら疲れた雰囲気を持つ彩乃。


 プラスチックのカップの蓋を外して火傷しないよう慎重に口を付ける。ほんの少しだけ口に含んでから口を離した。離れた彩乃の口からはキャラメルソースの甘い香りがした。


「美味しい。ホッとする」


「ああ、キャラメルマキアートにして正解だった」


 お互いのコンディションからキャラメルマキアートを注文したが、一口飲むとそれが当たりだったと分かる。


「和倉さん」


 両手でカップを持ったまま彩乃に呼びかける。


「何?」


「えっと、さっきの正弘さんって……」


 彩乃の口から出た彼の名前を口にすると、彼女の眉が微かに震えた。名前を出す事すら拒絶反応があるのが伝わる。


「あ、話したくなかったら……」


 両手を振って制止する澄人。だが彩乃はと首を左右に振った。


「ちゃんと説明する。そうじゃないと、三嶋君に申し訳ないから。だけど正直、聞いて楽しい話ではないと思う。それでもいい?」


「ああ。いいよ」

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