「第4章 何気なくを人工的にやる人」(7-1)
(7-1)
一日の授業が終わり、澄人は最寄り駅のホームで地下鉄を待っていた。佐川と前野は反対側の路線なので、彼はいつも一人で帰っている。二本の路線を挟んで向こうのホームに見える前野と佐川が仲良く話すのを見て、少し羨ましいという気持ちと一人になった自由を感じていた。
ホームにアナウンスが鳴り暗いトンネルの奥から暖色系のライトがこちらに向かってくる。既に並んでいるホームにいる乗客達。その中に彩乃がいる事を澄人は気付いた。
彩乃が自分と同じ路線とは知らなかった。
灰色のマフラーに顔を埋めて、寒風から身を守る彩乃に澄人はそう感想を抱いた。彼女の前後に並んでいるのは同じ学校の生徒のグループ。彼らと同じ制服を着ているのに一切、顔を上げずに正面を見るその姿は、まるで世界から拒絶されているように見えた。
澄人の足が自然と彩乃の方へ向く。そして地下鉄が到着して列の境界が崩れかけた事を良い事に彼女の肩に手を乗せた。
肩を小さく跳ねてから、彩乃はゆっくりと振り返った。普段の彼女かからは想像出来ない怯えた表情をこちらに向けて。相手が澄人である事が分かると彼女はホッとしたようで肩を上下させた。
「三嶋君、何?」
「いや、和倉さんってこっちの方だったんだ。知らなかった」
地下鉄のドアが開き、暖気と寒気を交換している中、二人が乗り込んで空いている一席に彩乃が座りその前に澄人が立つ。倒れないように銀の支柱を左手で持った。
澄人の問いに彩乃は首を横に振った。
「普段はこっちの方じゃないの。ただ、今日はちょっと……」
「何か買い物?」
「買い物とは違うけど。ちょっと用事」
彩乃はそう言って学校指定のダッフルコートから携帯電話を取り出した。地下鉄で携帯電話を取り出す意味が澄人には分かっていたので、彼も肩掛けカバンから文庫本を取り出して、片手でページを開く。
時間帯の事もあって車内には多くの学生の姿があった。学校が終わった解放感と冬の寒さから地下鉄の暖気に守られる事で彼らの声は大きかった。地下鉄のどこにも行き場のない走行音が鳴り響き、学生達の話し声が聞こえる中で二人は無音だった。
何駅かの乗り換えのある駅を通ると車内にいた乗客の姿は次第に減っていく。
読んでいた文庫本の一つの章が終わった時、澄人は彩乃に問いかける。
「さっき用事ってさ、俺がいたらマズい?」
「えっ?」
ふいに話しかけられた事に彩乃は驚いて顔を上げる。彼女の表情は完全に油断していたと言わんばかりの顔であり、二つの瞳は大きく開いて、口を小さく開けていた。
「別にマズくはない。でも、退屈かも知れないよ。ただ時間潰すだけだから」
「時間を潰すだけ?」
「そっ。別に欲しい物がある訳でもないけど、ちょっと喫茶店でコーヒーを飲むだけから」
「喫茶店って前に行ったグリーンドア?」
頭に浮かんだ喫茶店を尋ねると彩乃は首を振る。
「違う。あそこは大事な時に行くようにしてるから、こんな時には行かない。もっと適当な……そうだな、駅前とかにあるチェーンの喫茶店とかでいい」
「そうなんだ」
大事な時にしか行かないと決めている喫茶店、グリーンドア。
彩乃があそこに自分を呼んだのは彼女にとって、あの出来事がどれだけ大事だったのかと裏付けていた。おそらく言った本人は無意識で話したのだろう。そうだとしても澄人はそれが聞けて嬉しかった。
「なんでニヤニヤしてるの?」
「あっ、いや。何でも」
目を細めて不審感を持った彩乃にそう指摘されて、慌てて弁明する。彼女に言われて澄人は初めて、自分の口元が緩んでいるのを知った。
澄人の弁明にしばらく目を細めていた彩乃だったが、興味を失ったのか「ま、どうでもいいけど」と興味なさそうに口にした。
「一緒に来てくれると話す相手がいるから助かるけど、大丈夫? 前に佐川くんから言われたばかりなのに」
「ああ、あれね。あれはもう大丈夫。和倉さんが心配する必要はない」
あの日の出来事はもう心配ない。駅前の喫茶店に二人でいるのを目撃されても佐川と前野は分かってくれる。それに他のクラスメイトに見られたところで、何かデメリットになるような事はないだろう。
佐川の名前が出た事で言い忘れていた彼からの伝言を思い出す。
「佐川がさ、」
「佐川君が?」
「悪かった。って伝えてくれって。アイツ馬鹿だけど、悪いヤツじゃないんだ。許してほしいとか偉そうな事を言うつもりはないんだけど……」
伝言の他にフォローも入れる。だけど、実際に許すのを決めるのは彩乃本人だし。普段話さないクラスメイトを庇ったとしても効果は薄いだろうと、段々と弱くなっていく。仕方がない事なのは承知しているが、出来れば仲の良い友人と険悪になってほしくない。澄人は頭の中でそう思っていた。
「まっ、三嶋君がそんな心配する事はないんじゃない? 佐川君とは話した事ないけど、普段を見てるからどんな人なのかは大体は分かってるつもり」
「そっか。ありがとう」
彩乃の言葉は澄人の心をスッと軽くさせた。まさに彼が欲しい答えだったからだ。同時に直接謝りたいと言っていた佐川を遠ざけてしまった事に心の隅にあった得体の知れないモヤが少し薄くなった気がした。
「うん。ほら、次の駅だから」
気付けば車内には一緒に乗っていた生徒は殆ど降りており、途中で乗ってきたサラリーマンや他の学校の生徒で一杯だった。いつの間にか変わっていた車内の風景に澄人は時間がいきなり移動したような感覚になる。
二人を乗せた地下鉄は目的地の駅へ到着した。
二人の降りた駅は乗り換えが多くて沢山の乗客の乗り降りがある。今の時間でも充分多いが朝の時間になると、ラッシュの為、ドアに押し付けられる事もよくある。あと一時間もすれば帰りのラッシュの時間帯に入るだろう。
二人は地下鉄を降りてホームから改札へと続く龍の背中のように長いエスカレーターに乗った。
ホームにそれぞれの定期券を通して地上へと出る最初の一歩を踏み出した時、後ろから「彩乃ちゃんっ!」と声が飛ばされた。
呼び止められて振り返る時、彩乃の顔がハッキリ変わった瞬間を澄人は目撃した。それはまるで戦争の前に武装していく兵士のようだった。振り返った彼女は小さく響く声を出す。
「正弘さん」
「いや〜、君を駅のホームで偶然、見かけてね。声を掛けようと思ったが、お友達と談笑中みたいで、今まで声を掛けられなかったんだ」
ネクタイを締めていない紺のスーツを着た彩乃に正弘と呼ばれた男性は、フレームレスのメガネを掛けていた。手ぶらであり敵意がはない事を証明するように両手を広げている。
笑顔をこちらに見せているが、口元だけ笑って目が笑っておらず、何かを企んでいるのが窺えた。
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