「第4章 何気なくを人工的にやる人」(6-2)

(6-2)


「それをね、少しずつ少しずつ溶かしていったの。大変だったよー。最初なんて話しかけても完璧に無視するからね」


「うわっ。それは中々……」


 学校で話しかけられても流石に無視はしない。その時は、今よりもより膜が厚くなっていたようだ。


「大きなきっかけは大雨の日かな。あの子、傘持ってないのに、ずぶ濡れでお店に来てね。私がタオルを渡したの。そしたらね、タオル代を払う。お金は沢山持ってるからって言い出して。たかがタオルぐらいでお金は取らないよって言ったけど、中々納得してくれなくて。最後にようやく折れたのよ」


「お金を払うって言ったんですか?」


「うん」


 彩乃がお金を払うと言ったという事は、以前に瀬川から聞いた通り。彼女の周囲は……。


「どうしたの?」


「あっ、いや」


 澄人が急に黙ってしまったので、香夏子が首を傾げる。澄人は何でもないとかぶりを振った。


「ずぶ濡れで風邪とか引かなかったのかなって心配して」


「あー、それは大丈夫みたい。次の日には洗濯したタオルと傘を返しに来たから」


「そ、そうですか」


「そこからかな、彼女が心を開き始めてくれたのは。高校受験の時にはさっき言ったみたいにカウンターで巧くんに勉強教えてもらってたし」


 五年近く昔の事をまるで、一週間前のように話す彼女の距離感。この距離感と話しやすさは、香夏子が持っている才能だ。彩乃は心を開く相手を決して間違っていない。


 澄人がそう考えていると、香夏子が「出会いはこんな感じかな? 次は澄人くんが話してよ。学校のあの子ってどんな感じ? いつも聞いても教えてくれないだよね」といつの間にか用意していた彼女用のコーヒーに口を付けて尋ねる。


 学校での彩乃。


 香夏子に聞かれて、あらためて澄人は考える。彼が知っている彼女は本当にごく最近でからでしかなく、それまでの学校での様子は皆無と言っていい。言える事は本当に限られている。慎重に言葉を選ばないと。


「そうですね……、実を言うと最近まで俺は知らなかったんですが、教室での和倉さんは最初にココに来た時に似ているのかも知れません」


「あっ、やっぱり? バリア張ってる?」


 香夏子の指摘に澄人は頷く。


「はい、張ってますね。でも……、最近彼女と関わるようになってから、そのバリアの意味も何となく分かってきました。それにバリアの内側に入ってしまえば心を開いてくれますから」


 言える範囲で澄人の印象を話す。バリアの内側という言葉が香夏子に響いたのか、彼女は口を丸めて「ホー」と感想を漏らす。


「私があんなに苦労したバリアの内側にキミはもう入ったのか。凄いなー。一体どんなやり方で?」


「それはちょっと言えないです」


 香夏子には下手な誤魔化しは通じない。言えない事は言えないとハッキリ伝えた方がいい。澄人は正直に断り、両手で小さくバツを作った。


「企業秘密ってやつね。なるほどなるほど」


「もし言える時が来たら、話しますよ」


「うん。その時は宜しく」


 澄人の言葉に香夏子は疑う事なく、笑顔でそう答えた。果たして言える時なんて本当に来るのだろうか。約束した澄人が一番分からない。話す為にはあまりにもハードルが多いからだ。


 でも、いやもしかしたら……、香夏子にならいつかは話せる日が来るのかも知れない。


 何せ彼女は、彩乃のバリアの内側にいるのだ。それも栞や彼女の事情を知らず、自分の力で。


 それだけ彼女の力は大きく少なくとも澄人より上だ。


「もしもーし、どうしたの? 急に黙っちゃって」


「あっ! いや、すいません」


 考え込んでしまったせいで、香夏子が澄人の目の前で手を振り様子を尋ねてきた。


「えっと……、だから俺は和倉さんについては正直あまり分かってないんです。騙したみたいで本当申し訳ないですが」


「ううん。教えてくれてありがとう。澄人くんが正直に知ってる事を教えてくれただけで嬉しい。でも、そっかー。あの子、学校じゃバリア張ったままかぁ」


「そうですね。常時、展開してます」


 澄人がそう肯定すると、香夏子は腕を組んで唸る。


「本当は学校でもココみたいにバリアを解いてほしいんだけどなー」


「解いてくれるなら、それが一番ですけど中々、難しそうですね」


 香夏子にそう同意する澄人。だが、心のどこかでは優先順位はそこまで高くないと思っていた。何故なら彩乃のバリアを解く=栞がオレンジから変わるではないからだ。


 そう言った利己的な考えが出来るのも栞が見える澄人だからであって、彼の目の前にいる頭に白い栞が挟まっている香夏子には分からない。澄人がそう考えていると、良い事を思い付いたと言わんばかりの笑顔の香夏子が口を開く。


「今度さ、彩乃ちゃんをココに連れて来てよ?」


「えっ? それは……」


 まさか自分と二人で彩乃のバリアを解こうと言うのではないか。その可能性が瞬間的に澄人の頭に浮かぶ。大人ならいかにも言いそうな事だからだ。


 それをもし、本当に香夏子が提案してきたら、澄人はやんわりと逃げようと思う。従うフリをして、実際には本人には伝えないとか、伝えたけど断られたとか、回避策はいくらでもある。とにかく今は大人がやりそうな事に付き合うのは、乗り気ではない。


 香夏子は頭が良いし何より優しい。先程、話した学校での様子を聞けば、そう考えるのは当たり前の話だ。まるで不登校の生徒が通う保健室のようにこの喫茶店を提供しようとするなら、その時は……。


「最近、全然来てくれないんだよね。色々話したいのに。バリアの事は本人の事情もあるから無理には出来ないでしょう? そうじゃなくて友達としてあの子に会いたいんだよね」


「あっ……」


 香夏子の話を聞いて思わず口から声が漏れた。彼女は大人がやりそうな事は最初から考えていない。むしろ、澄人の方が考えてしまっていた。


「どうかな? 彩乃ちゃんを呼んでもらうのは難しい?」


 香夏子の問いかけに澄人は首を左右に振る。


「いいえ。そんな事ないです。そうですね、次の週末にでも来れるように俺から誘ってみますよ」


 澄人が了承すると、不安そうだった香夏子の表情がパアっと明るくなる。彼女の笑顔にそれまで自分の中にあった邪な考えが申し訳なくなった。


 澄人は自然と頭を下げる。


「ごめんなさい」


「えっ? 何が?」


 突然の謝罪に香夏子は意味が分からずオロオロと混乱していた。その様子に澄人は、クスッと小さく笑ってから「秘密です」と答えた。


 グリーンドアからの帰り道。澄人は口内に残ったコーヒーの風味を楽しみつつ、携帯電話を開きメールを送る。相手は彩乃。いつもなら長文で事務的に淡々と書くメール。


 今日は一文しか書かない。


【今週末、グリーンドアに行こう】


 それだけしか書かなくても彩乃には通じる。だから、余計な事を書く必要はない。メールを送り携帯電話をポケットにしまってから、澄人は駅までの道を歩く。


 信号待ちの時にどこかで見ていたかのようにポケットが振動した。予想通り彩乃からのメールだった。


【りょーかい】


 自分が送ったのより更に短い返信に澄人は思わず笑ってしまった。

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