第114話 10月29日

 「皆さん、長い間お世話になりました」


土曜日の業務が終わって間もなく。表のドアを施錠した綾部あやべさんが別れの挨拶を告げた。


 今日は綾部あやべさんの最終勤務日だ。本当は31日までの勤務だったが、その日は年休消化に充てられた。


 二人の看護師さんは「寂しくなるわね」「新しい職場でも元気でね」と激励を送った。寂しそうな様子のお二人からも、綾部あやべさんがどれほど〈つがみ小児科〉に必要な存在だったかがうかがい知れる。

 

 「綾部あやべさん」


最後の談笑もそこそこに私が呼ぶと、彼女は勢いよく振り返った。けれどすぐさま、気不味そうに視線を逸らす。


「……なにか、御用でしょうか」


つっけんどんな台詞。だが本意ではない。奥の診察室に、まだ父が居るのだから。

 理解はしている。だがそれでも胸は痛む。

 締め付けられるような苦痛に奥歯を噛み締め、私は出来る限りに笑顔を作ってみせた。


 「2年間……いや、もう2年半かな。本当にありがとう。お疲れ様でした」


私は用意していた花束を渡した。以前彼女の誕生日に渡したものより、ずっと大きな花束。


「ありがとうございます……事務長」


私の手から綾部あやべさんの手に渡った瞬間、パチパチと拍手が響いた。

 お嬢ちゃんだ。

 悲しさと淋しさを併せた複雑な笑顔で、懸命に手を叩いている。

 看護師さんらも、合わせるように拍手を打った。

 

 「綾部あやべさん」


と、その時。奥の診察室から父が現れた。

 二人の看護師さんは何か察したように「それじゃあまたね」とだけ告げて診療所を後にする。

 相変わらずの仏頂面を構えて、父は綾部あやべさんに向かい合った。


「今日まで御苦労様でした。色々と、ありがとう。少ないが、これは取っておいてください」


そう言って父は上質な封筒を差し出した。これまでの誰に贈ったどの封筒よりも分厚い。父なりの感謝と詫びの気持ちが表れているのか。


「院長……こんな私などに恐れ入ります。ありがたく頂戴いたします」


最敬礼のお辞儀で綾部あやべさんは封筒を受け取った。

 父は「次のところでも頑張って下さい」と会釈で返し、診療所を後にする。

 その後ろ姿が見えなくなるまで頭を下げていた綾部あやべさんは、静かに顔を上げると今度はお嬢ちゃんを見た。


 「小篠こしのさん」

「は、はいっ!」

「事務長のこと……宜しくお願いしますね」


優しく微笑みかけながら、綾部あやべさんは歩み寄り右手を差し出した。


綾部あやべさん…!」


両の眼いっぱいに涙を浮かべ、お嬢ちゃんは握手に応えた。綾部あやべさんが差し出して言葉と右手に、お嬢ちゃんも何らの意図を感じたのだろう。

 

 ――コンコンッ…。


と、今度は施錠済みの自動ドアがノックされた。磨りガラスの向こうに人影が見える。

 私はいそいそと自動ドアを開いた。すると――


 「薬局王キング! それに光希みつきさんまで!」


――笑顔で手を振る二人が、そこに居た。


「私達も挨拶させて頂いてよろしいかしら?」

「もちろんだよ! さあ、入って!」

「失礼します」


突然の登場に綾部あやべさんは驚きを隠せないでいる。そんな彼女の前に二人は並んだ。


 「綾部あやべさん、2年半お疲れ様。貴女と一緒に仕事が出来て嬉しかったわ」

薬局長やっきょくちょう様……私こそ、薬局長やっきょくちょう様と仕事をさせて頂いたこと、光栄に思います」


「私はまだ知り合って間もないですが、綾部あやべさんとは深い縁のようなものを感じました。きっとまた、どこかでお会いすると思います」


「ありがとうございます、神永かみなが先生。私も先生とは何かを感じておりました。機会があれば、その時は是非よろしくお願い致します」


礼節正しい挨拶と共に、二人はそれぞれ餞別の品を渡した。

 綾部あやべさんの両手は花や選別の品でいっぱいになった。それだけ彼女が皆から慕われていた証拠だ。


 「そうだ! 最後に皆で写真撮りませんか?!」

「あら、良いわね!」

「ええ。良い記念になります」


薬局王キング光希みつきさんに賛同を受けたお嬢ちゃんは、いそいそと自分のスマートフォンを取り出して、セルフタイマー設定し受付カウンターに置いた。


「じゃあ皆さん、笑ってくださいっ!」


そうして綾部あやべさんを中心に集まった私達は、この診療所クリニックで最後の思い出を作った。



 ※※※



 「――では、給与明細とか源泉徴収票などの書類関係は今と同じ住所に郵送します。必要なものがあれば、遠慮なく仰ってください。制服とシャチハタはお譲りしますので、使うなり、処分するなりして下さい」

「分かりました」


賑々しい別れも終わり、薬局王キング光希みつきさんが帰ってすぐ、お嬢ちゃんも事務所で綾部あやべさんに餞別を渡して帰宅した。

 ロッカーの片付けを終えた綾部あやべさんに、私は退職後の手続きについて説明をしていた。

 だがそれも終わり、いよいよ綾部あやべさんがこの診療所を去る。両手いっぱいに、花束や選別皆からの気持ちを抱えて。


 「今まで本当に……お世話に、なりました」

「僕も綾部あやべさんと一緒に仕事が出来て……本当に、嬉しかったよ……ありがとう」


そこにあるのは笑顔でも涙でもない。もどかしく、喉に何かがつかえたような顔。


「……それでは、失礼します」


綾部あやべさんはペコリと会釈し、玄関に向かおうと踵を返した。

 瞬間、ドクンッ…と私の心臓が大きく拍動した。私は震える拳を握り、大きく深呼吸して、


綾部あやべさん!」


彼女の名前を叫んだ。

 綾部あやべさんは足を止めて、静かに振り返る。


「待ってて…………下さい!」

「え…?」


「こんな別れ方は嫌だ! 僕はまだ綾部あやべさんと一緒に仕事がしたい! もっと君と一緒に居たい! だから必ず君を迎えに行く! 何年かかるかわからないけど、それまで待っててほしい!」


思考のフィルターを通さず、何の装飾も施さず、胸の奥に溜まった荒削りな想い。


「……どうして私なのですか?」


だが綾部あやべさんは、影を落とし力無く項垂れた。

 

 「私は医師でも薬剤師でもありません。何の取柄も資格も、後ろ盾もありません。小篠こしのさんのように愛嬌があるわけでも、資産を持っているわけでもありません。事務長なら他にいくらでも素敵な女性かたられるはずです。なのに、どうして…」


「そんなの決まってるだろ。僕は綾部あやべさんのことが好きだからだよ。世界で一番、君のことを愛してるから。ただ……それだけ」


私はゆっくりと彼女へ歩み寄り、小刻みに震える肩へ手を置くと、胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。そして――


「僕と、結婚してください」


――ずっと秘めていた言葉を、ようやく声に表した。


「………はい」


 俯いていた綾部あやべさんは静かに顔を上げると、美しい涙を浮かべ応えてくれた。

 初めて目にした彼女の泣き顔。それは満面の笑顔に溢れ、宝石のように輝いて。


「私も、事務長のこと――ずっとずっと、ずっと前から……お慕いしておりました」


「僕もだよ。でも父さんや周りのことが気になって、ずっと言い出せなかった。ずっと自分に自信が無かった。でも、これだけは自信を持って言える」


 高揚する感情。昂る衝動。ドキドキと鳴りやまない心臓を静めるべく、私は大きく深呼吸をして彼女を見据えた。


「僕は他の誰より、綾部あやべさんが好きなんだ。君のためなら、どんなこともやり遂げてみせる。君と一緒に居られるなら僕は――」


その瞬間、私は声を出せなくなった。

 

 綾部あやべさんが、私の唇を奪ったから。


 まるで「もう言葉は要らない」と言わんばかり、声を塞ぐかように力強い抱擁を添えて。


 初めて味わう彼女の唇。

 触れ合う舌先に小さな電撃が奔るかのよう。

 驚きながら私も、強く彼女を抱きしめ返した。

 

 彼女の柔らかい唇。

 柔らかな胸。

 甘い香り。

 細くも力強い腕。

 温もり。

 頬に触れる涙。


 感じる全てが、ただ愛おしい。

 彼女の全てを、自分の中に受け入れたかった。


 綾部あやべさんは静かに唇を離すと、照れ臭そうに私を見つめた。


「セクハラ……でしょうか?」

「……かもね」


意地悪く笑いながら答えると、私達はふたたび顔を寄せ合い唇を重ねた。

 

 心地よい浮遊感に私達は包まれながら、時の流れも記憶の彼方に、私達はただ只管ひたすらに、互いの存在を確かめ合った。




 

 ※※※





 ――それから、2年の月日が流れた。

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