第110話 09月25日【2】

  『もしもし、神永かみながです――』


スマートフォンの画面から聞こえてきた声に、私はハッとした。

 ボケていた頭もピントが合致したみたく、意識が明晰化する。


 『こんにちは、翔介しょうすけさん。今、お時間よろしいですか?』

「は、はい…」


こんな時に光希みつきさんの声を聴くなんて、真綿で首を絞められるような感覚だ。


 『ありがとうございます。お忙しいところを申し訳ありません。実は先ほど、私の父から電話があったんです』

「お父様から?」

『ええ。なぜか急に『翔介しょうすけくんと仲良くするんだぞ』とか『見合いの甲斐があったな』などと言い出して……何のことか分からず聞き返しても、はぐらかされてしまって。翔介しょうすけさん、何か心当たりはありませんか?』


言われて、私の頭にはすぐに父の顔が浮かんだ。根拠に乏しい直感のようなものだが、まず間違いないだろう。

 父の姿を思い浮かべた途端、また脳みそがぼやけて、視界がグラリと揺れた。


 「……光希みつきさん」

『はい?』

「今から、会えませんか…?」



※※※



 どうにか、なりそうだった。

 ひとりで居ると、綾部あやべさんの辛辣しんらつな表情が強制的に思い起こされた。

 いきどお薬局王キングの姿も、激昂する父の怒声も。

 それらの記憶が負の感情となって、不気味な吐き気と眩暈めまいを催す。


 今はただ、目の前の現実から目を背けたかった。


 光希みつきさんとは◇◆駅前のBARで待ち合わせをした。彼女の提案だった。

 この◇◆駅は、先日綾部あやべさんと待ち合わせをした喫茶店の近くだ。

 店に到着すると、カウンター越しの店主に待ち合わせを伝えた。

 私は先に1人でスクリュードライバーを傾ける。

 薄暗い静かな店内に居ると、またモヤモヤとした複雑な感情が胸の中を掻きむしった。

 それを洗い流すように、私はカクテルをあおった。

 2杯目のカクテルを注文して間もなく、光希みつきさんが店のドアを開けた。


「こんにちは、翔介しょうすけさん。お久しぶりです」


久しぶりに会った光希みつきさんの笑顔は、以前と変わりなく、優しく美しい。

 とても懐かしい気分になって、生温かい安堵感が胸の中のザワつきをオブラートのように包み込んでくれた。


 「すみません、突然お呼びして…」

「いえ。丁度私も御話したいことがあったので」

「お父様のことですか?」

「それもありますけど、仕事のことで」


私の隣に座った光希みつきさんは、カウンター越しの店主にモスコミュールを注文した。


「それで、翔介しょうすけさんのお話はなんですか? 私の父からの電話と、なにか関係があるんですよね」

「はい。実は――」


私は薬局王キングに話したのと同様、光希みつきさんにも事情を打ち明けた。

お嬢ちゃんのことは伏せ、父が憤慨したことと綾部あやべさんが退職の意思を示したことだけ伝えた。

 薬局王キングのことは……敢えて言わなかった。


 途中、頼んだモスコミュールが出された。

 光希みつきさんは乾杯もせず、「いただきます」とだけ囁いてグラスを傾けた。

 

 「事情は分かりました。父の言っていたことにも合点がてんがいきます」


光希みつきさんはくし切れのライム刺さったグラスを見つめながらため息交じりに呟いた。


「恐らく……津上つがみ院長は私との結婚を望んでいるようですね。翔介しょうすけさんの意思を尊重する風に仰っておられても、そのじつ私と結婚して診療所を継続することを切望されているのでしょうね」

「だから光希みつきさんのお父様に電話を…」

「ええ、きっと」


神妙な面持ちで、光希みつきさんはまたカクテルを一口だけ含んだ。

 相変わらず、凛とした綺麗な横顔だった。

 思えば最初に私を「好き」と言ってくれたのは光希みつきさんだった。だというのに、私は今の今まで彼女の優しさに甘えて返事も有耶無耶うやむやにしていた。

 綾部あやべさんに拒絶され、薬局王キングにも愛想をつかされて、私の心はもう……限界だった。


 これ以上独りで居るのは、つらい。


 父が裏で手回しをしているようだし、そもそも父は光希みつきさんとの結婚を望んでいる。

 この前は口論になったが、今の私があるのも父のお陰だ。

 学校に行けたのも、家や食事があるのも、すべて父と〈つがみ小児科〉があったからこそ。

 その父に報いるためにも、やはり私は光希みつきさんと結婚すべきなのか…。


 「翔介しょうすけさん」


黙考する私を、光希みつきさんの一声が呼び戻した。

 真っ直ぐな視線と美貌が私の意識を絡めとる。

 真摯な雰囲気に、私はゴクリと固唾を飲んだ。


「私は、貴方とは結婚できません」


突拍子の無い一言に、私は「……え?」と呆気に取られた。

 まるで頭の中を読み取られたかのよう。

 思わず背筋に寒気がはしった。


「確かに私は翔介しょうすけさんが好きです。貴方を愛しています。だから私は貴方に求婚しました。その想いは、今もなお変わることはありません。貴方を愛しているからこそ、貴方の幸せを一番に考えます」


光希みつきさん…」


「もちろん私と結婚することで翔介しょうすけさんが幸福になることが、私にとって一番の願いです。いずれはそうなってほしいと心から想っていました。

 でも今の貴方は、それで幸せですか? 私と結婚して、翔介しょうすけさんは本当に幸せになれますか?」


心の奥底を見透かすような光希みつきさんの瞳に、私は何も答えることが出来なかった。

 そんな私の反応さえ見越していたかのように、彼女はカクテルを飲み干し、席を立った。


翔介しょうすけさんは……少し優しさが過ぎます。どうか御自身の幸せを、なによりも一番に考えてください」


恭しくお辞儀をすると、彼女は「失礼します」と一人店を後にした。

けれどその表情に、笑顔など微塵も無い。

 真一文字に唇結んで、力なく項垂うなだれる私の前に、注文してもいないロングカクテルが差し出された。


 年配の店主が静かに頷く。


 私は透明なそれを、一気に流し込んだ。

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