第109話 09月25日【1】

 「薬局王キング…」


全くの偶然だった。恐らくそれは彼女も同様。驚いた顔で私を見つめている。

 けれどすぐに薬局王キングは「クスッ」と柔らかな微笑を浮かべた。


 「お疲れ様」

「……お疲れ様。薬局王キングは今終わり?」

「ええ。丁度シャッターを降ろしたばかりよ」

「そう…」


私も彼女と同じようにねぎらいの笑顔を贈りたかった。

 けれど、どうしても笑えない。表面だけつくろうことさえ出来ない。


 「なんだか、久しぶりね」

「うん、久しぶり…」

「何かあった?」

「……わかるの?」

「当然よ。長い付き合いだもの」

「そっか…」


覇気の無い返答をする私に、薬局王キングは袖口まくり腕時計を見やった。私のプレゼントした天然石のブレスレットがチラリと覗く。


「ねえ、いま時間はあるかしら?」

「え?」

「少し、話さない?」


私は少しだけ考えた。けれど今はまだ事務所に戻りたくない。

 「いいよ」と答えると、薬局王キングは着替えのために一度マンションへ戻った。



 ※※※



 私達は近くの喫茶店を訪れた。

 こうして彼女と向かい合わせに座っていると、以前に婚約者のフリをして、整形外科へ伺ったことを思い出す。


「婚約者か…」

「なに?」


メニューを眺めていた薬局王キングが顔を上げた。

 「なんでもない」とだけ答えて、私はテーブルの端に立てかけてある期間限定メニューを取った。


 「それで、何があったの?」


注文したアイスカフェオレにシロップを加えながら薬局王キングが問うた。

 私は事の顛末てんまつを語った。

 ただし、お嬢ちゃんから告白を受けたことや、それを断った事などは伏せて。あくまで父の逆鱗に触れ、綾部あやべさんが退職を申し出たことだけをい摘んだ。


「それはつらかったわね…」


案の定、薬局王キングは真摯な面持ちで私の話に耳を傾け、理解を示してくれた。

 頼んだアイスコーヒーに口も付けず、項垂れる私は黙って頷く。


 「アナタは、どうしたいの?」

「……分からない。正直、いまは何も考えられない」

「……そうよね」


複雑な心境だろう。それでも優しい声で返してくれた薬局王キングは、一口だけアイスカフェオレを飲んだ。

 沈黙が狭い席に満ちる。


「……薬局王キングこそ、なにかあった?」


不意に私が問いかけると、薬局王キングは猫目を丸めて「分かるの?」と聞き返した。


「わかるよ。薬局王キングのことなら。ずっと一緒に仕事してきたんだから」


さきの彼女を模倣マネして、私もようやくとアイスコーヒーに手を伸ばした。

 既に氷は融けかけて、色も薄くなっている。

 薬局王キングは、少しだけな悲壮感をかもした。 


「父から、異動を命じられたわ」


コーヒーを混ぜる手を止め、私は彼女を見た。

 なんとなく、いつかはそうなる気がしていた。

 けれど今だけは……聞きたくなかった。


 「遅かれ早かれ、こうなるとは思っていたわ。私は役員。一つの店舗で続けていくのは土台無理な話。その時期が来ただけよ。

 石動いするぎ君も仕事に慣れてきたし、他の職員達もよくやってくれているわ。実際、ここ最近私が新店舗の開局で店を離れていた時も、問題なく業務を回せていたし…」


諦念と空虚感を孕ませた声で呟くと、薬局王キングはまた喉を潤して、前屈みに視線を伏せた。


「アナタとも、これからは合いにくくなるわね…」


微苦笑が浮かべる薬局王キングを目にするや、彼女との3年間がフラッシュバックみたく想い起こされた。


 初めて出会った時のこと。

 仕事の愚痴を言い合ったこと。

 何度も助けてもらったこと。

 彼女の想いに、ずっと気付かなかったこと…。

 

 ズキリ、と胸に鋭い痛みが走る。

 

 綾部あやべさんが辞めてしまう。そこに追い打ちをかけるよう薬局王キングまで……悔しい現実が、私の胸に見えない刃を突き立てた。

 

 嫌だ。これ以上、大切な人が居なくなるのは。


 「……ねえ、薬局王キング


想いが衝動となり、思考のフィルターを介さず私の口を動かした。

 「なに?」と薬局王キングが尋ね返す。 


「前の居酒屋さんでのこと、覚えてる?」

「……当たり前じゃない」

「その返事、まだしてなかったよね」


神妙な面持ちの薬局王キングに、私は今できる精一杯の笑顔を湛えて、彼女の小さな手に触れた。


薬局王キング。僕にはもう、君しか――」

「やめて」


だが重ねた私の手は乱暴に振り払われて、ギロリと強い視線が私を睨みつける。


「それ以上口に出そうものなら、私はアナタを軽蔑するわ」


ギラつく瞳と同じ、凶器のような言葉を穿つ。

 私は肝を冷やした。

 戦慄わななく心。

 硬直する身体。

 唖然と口開く私に、薬局王キングは眉を顰めた。


 「確かに私はアナタのことが好きよ。『アナタが欲しい』とも言ったわ。出来る事ならアナタと結婚したいし結ばれたい。それは本心よ。だけどそれは、私の一方的な嘆願では意味が無いの。アナタが私と同じくらいに愛してくれて初めて…」


 薬局王キングは重苦しい溜め息と共に腕を組んだ。

 その言葉が重石のように私の心と体に圧し掛かり、拷問のような辛苦に見舞われる。


綾部あやべさんに嫌われたから? 院長先生に私となら結婚しても良いと言われたから? そんな理由で選ばれても、嬉しくもなんともないわ。

 本命がダメだからって、滑り止めにこの私を選ぶなんて冗談じゃないわ。おこぼれ頂戴なんて、私は真っ平ゴメンよ」


追撃に大きな溜息を吐くと、薬局王キングは勢いよく椅子を引いた。


「馬鹿にしないで…!」


そして私に一瞥もくれることなく、肩で風切り怒りの足取りで店を後にした。

 残された私は、愕然と絶望に打ちひしがれた。


 どれくらい時間が経ったろう。少なくともアイスコーヒーの氷は殆ど溶けて、同じように思考も定まらない。

 最中さなか、ポケットのスマートフォンが震えた。

 電話だ。

 私は半ば無意識に通話ボタンをタップした。


 『もしもし、神永かみながです――』

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