第108話 09月22日〜09月25日
「私はこちらを………〈つがみ小児科〉を辞めさせて頂きます」
眉ひとつ動かさず平静な口調でそう言うと、
瞬間、頭の中が真っ白になった。
焦りと不安、そして恐怖が私に襲い掛かる。
「ど、どうしたのさ急に! もしかして、さっきの話を聞いてたの?」
私は苦々しい笑みを浮かべ慌てて取り繕った。
一体いつの間に二階へ上がってきたのか。玄関ドアが開く音は聞こえなかったが………いや、そんなことは問題じゃない。
「だ……大丈夫だよ! 僕が必ずなんとかするから、
「なんの話ですか?」
――
その氷のような声と表情に、私は彼女がウチに入職した頃のことを思い出していた。
「私が退職を希望するのは、あくまで私自身の意思です」
「な、なんで……どうして!?」
混乱する思考の中、情けない声で返す私に、
「貴方に心底呆れたからです」
「……僕に?」
オウム返しする私に、
「先日のことで事務長の軟弱さを改めて理解しました。まさか女性が部屋に誘ったにも関わらず何も出来ないような腑抜けとは思いませんでした」
今度は大きく、肩ごと「はぁ…っ」と溜め息を吐いた。私の胸が、亀裂が走ったように痛む。
「しかも私の誕生日もお忘れで……少しでも期待した私が愚かでした。せいぜい
「そんな……そんなこと僕は望んでないよ! だって僕は――」
「ああ、そういえば事務長は最初から
「そ、それは…」
取り付く島もない
それでも私は、最後の力を振り絞って彼女を正面に見据えた。
「確かに前はそうだったよ。でも今は違う! 僕は本当に、
「やめてください!」
強く放たれたその一言が、彼女に伸ばした右手と言葉を遮った。
シーンと静まり返る室内。次の言葉を探す気力すら、最早私には無かった。
「セクハラ……です…」
その日所だけが、微かに響いた。
久しぶりに聞いた台詞だ。以前は笑いのネタみたく掛け合いをしていた。
だけどいつものように温かみが感じられない。
なにひとつ笑えない。
当然だ。
言葉を口にした本人が、受けた私よりも辛そうな顔をしているのだから。
「……ごめん」
その一言が、今できる精一杯だった。
私にはもう、どうして良いか分からなかった。
二人の間に静けさが満ちる。
「……とにかく、私はこちらの
そう言って会釈すると、彼女は更衣室に入った。
綾部さんの言葉は本心じゃ無い。そんなことくらい、私でも理解できる。
なのに彼女を止められない。
「辞めないでくれ」、そのたった一言が出ない。
彼女は従業員。
私は雇用主。
その隔たりが、私に二の足を踏ませた。
※※※
翌日の金曜日は祝日だった。
当然仕事も休みだが、私は一睡もしていない。
頭の中では
そうして眠れぬまま、翌日の土曜日。目の下に分厚いクマをこさえて私は出勤した。
私だけではない。
やはり退職は彼女の本心では無いのだ。
だが何も聞けない。何も言えない。
なにせ今この場にいる私と彼女は、男女である以前に雇い主と被雇用者なのだから。私が下手なことを口走れば、ハラスメント行為に成り兼ねない。
「お、おはよう…」
「………おはようございます」
挨拶は交わしてくれる。でも目は合わせてくれない。
昔はそんなこともあった。それでも平気だった。
けれど今は………苦しくて堪らない。
私は逃げ出すように、二階の事務所へ向かった。
そうしてデスクに腰かけ悶々としている間に診察は終了した。
看護師さんらが退勤して
父は何も言わずデスクに着いた。
私は
父は驚かなかった。どうやら今しがた、
無粋にも父は私との関係を尋ねたらしいが、
無論それは彼女の優しさ。下手なことを言って父の逆鱗に触れぬよう配慮してくれたのだ。
父もそれ以上追求することなく、退職の申し出を受け入れた。
「これで何の気兼ねもなく、
デスクに腰かける父が嬉々として言った。
腹の底から怒りが込み上げた。
けれど今ここで父に食ってかかっては、
私は衝動に駆られるまま事務所を飛び出した。
するとマンションのエントランスを出た先で、
「翔介…?」
偶然にも、
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