第107話 09月22日【3】

 「僕は……僕は綾部あやべさんのことが好きだ! 他の誰よりも彼女のことを愛してる! だから僕は……綾部あやべさんと結婚したい!」


部屋の外まで聞こえるような声量で、私は想いの丈を吠えた。

 直後、今のさっきまで揚々と帰り支度をしていた父が、ゆっくりと振り返った。そして――


「ふざけるな…!」


――目を剥いて怒りあらわに、私の精神を搔き乱す。


 激しい動悸。

 乱れる呼吸。

 震える身体からだ

 噴き出た汗が滲んで不快感を増す。


 父の顔が、みるみると煉瓦れんが色に変わっていく。

 以前にも父とは口論になったが、発する威圧感が明らかに違う。


 「なぜだ……何故よりにもよって彼女なんだ! お前は私の話を聞いていたのか!? 言っただろう! 医者や薬剤師、経営者が妻であれば、お前は安泰な人生を歩めるんだぞ!!」


言葉を重ねるたび、父の語気が荒ぶる。肥大する迫力に、私の体はすくみ震えた。


 「綾部あやべさんの家庭事情は私も知っている。彼女には御両親が居ない! 兄弟も! そんな天涯孤独で、何の後ろ盾も生活力も無い彼女を、お前は何故わざわざ選ぶ!」


――ダンッ!


と、いよいよ父は机を叩いた。怒りが頂点に達した表れだ。


 憤慨する父に反して私は身じろいだ。

 膝が笑う。手の震えが止まらない。

 

 それでも、今日だけは退けない。

 退くわけにはいかない。

 私は右手に拳を握り込んだ。


 「そんなの関係ない。僕はただ……綾部あやべさんのことが好きなんだ」


反抗的な私の言動に怒りのボルテージは更に上がったか。父はフルフルと肩を打ち震わせる。

 そして私の言葉を掻き消すかのように、大きく腕を振った。


「結婚は遊びじゃないんだぞ! 相手の資産や家庭環境は大いに重視することだ! 惚れた腫れたで結婚して良いのは、お前に充分な生活力があって初めて言えるんだ! この診療所に居て私に生かされている身分で、一丁前なことをほざくな!」


乱暴な口調と言動。だが私は何も言い返さなかった。反論することが出来なかった。

 父のその言葉も、決して間違ったものとは思わなかったから。

 一つ大きな息を吐くと、父は額に目元を覆うよう額に手を宛てた。


 「綾部あやべさんとは交際しているのか?」

「……いや」

「肉体関係は?」

「……ないよ」


怒りがピークを過ぎて若干トーンダウンした父に、私も同じく覇気の無い声で応じた。

 すると父は、また「フゥ…」と息を吐いた。


 「ならまだ後戻りが出来る。幸い、光希みつき嬢にも薬局長やっきょくちょうにも断りは入れてないんだろ。綾部あやべさんのことは諦めて、二人のどちらかにしろ。それが嫌なら最悪、小篠こしのさんに泣きつけ」


「そ……そんなの出来ないよ! 僕は綾部あやべさんのことが好きなんだ! 彼女と一緒に居たいんだ!」


悲痛混じりに私は叫んだ。

 父は太い眉を吊り上げ、「お前…!」と勢い付けて椅子を引いた。

 一瞬たじろぐも、私はきしはらに力を込めた。


 「と……父さんだって綾部あやべさんのことは買ってたじゃないか! 『翔介しょうすけにしては優秀な人物を雇えたな』って………綾部あやべさんとなら、きっと力を合わせて、どんな困難も乗り越えて――」


「恋愛ドラマじゃないんだ! そんな浮ついた三文芝居のような台詞セリフ、虫唾が走る!!」


怒号が雷鳴のように空気を震撼しんかんさせる。

 稲光が空に走った時と同様、私の腕に不気味に鳥肌が立った。


「た……頼むよ、父さん! 一生のお願いだ! 綾部あやべさんとの結婚を認めてください!」


いよいよ私は両手両膝を折って、頭を下げた。

 中身の無い軽い頭だ。それでも塵芥ほどのプライドはある。相手が父親であれば、尚のこと。

 出来ることなら、この手は使いたくはなかった。

 けれど今の私には最早、これ以上の手段など持ち合わせない。

 直後、土下座する私の頭上から「はぁ…」と大きな溜息が放たれた。


「……分かった」

「と、父さん…!」


私は嬉々として頭を上げた。

 だが視線の先に立つ父は、そんな一縷の望みも断つかのように、


綾部あやべさんは解雇クビにする」


そう、言い放った。

 予想だにしない返答に私は唖然とした。

 額から頬を伝い、一筋の汗が落ちる。


 「彼女を諦めないなら、お前共々ウチを辞めてもらう」

「そ、そんな…」

「彼女は優秀なのだろう? 力を合わせればどんな困難にも立ち向かえるのだろう? なら二人で思う存分、その力を合わせればいいだろう。私の庇護ひごから離れて、出来るものならな!!」


皮肉を込めた台詞を並べ、トドメとばかりにデスクを叩いた。

 バンッ! と割れるような音が、締め切った部屋に反響する。


 「次の土曜日までに答えを聞かせろ。綾部あやべさんを諦めるか、二人ともこの診療所を辞めるか…!」


吐き捨てるように言うと、父は鞄を片手に大足で部屋を出た。

 残された私は独り、絶望に打ちひしがれて…。



 ※※※


 

 ――コンコンッ…。

 

 「ん…?」

 父が退勤してから、およそ1時間。執務室の扉がノックされた。

 デスクで頭を抱えていた私は、重い腰を上げた。

 ドアを開くと、そこには綾部あやべさんが。


「お忙しい所、申し訳ありません事務長。退勤時間になりましたので御連絡を」

「あ……そうか。もうそんな時間か……うん、お疲れ様」


覇気の籠もらない声と表情で、それでも私は笑顔を作ってみせた。綾部あやべさんは「お疲れ様でした」と会釈する。


「それから、事務長」


「うん…?」


「私はこちらを………〈つがみ小児科〉を辞めさせて頂きます」


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