第106話 09月22日【2】
「よくやったな、
父の言葉に私は目を丸くして驚いた。てっきり殴られるものかと思ったが、まさか褒められるとは。
だがそれ以上に、優しく微笑む父の姿だ。
父が私に笑いかけるなど、いつ以来だ。
「お前はやれば出来ると思っていたぞ。流石は私の息子だ。報告が無かったのは頂けないが、色恋の話だからな。親には言い
ポン、ポンと強めに私の肩を叩くと、父は上機嫌で椅子に腰を下ろした。
「出来ることなら
二の句も継げず惚ける私に反して、父は嬉々として続ける。私は全身から力が抜け落ちるような感覚に見舞われた。
「い……いいの?」
「何がだ?」
「僕が
「ああ。それがお前の選択ならな」
父は振り返ることもなく、デスクの上のパソコンをシャットダウンする。
「でも父さんは、この診療所をずっと続けていきたいんでしょ?」
「勿論だ」
「だけど僕が
「だろうな」
「なら、どうして!?」
思わず声を張り上げた私に対して、父は背中を向けたまま静かに。
「お前の将来が、約束されているからだ」
そう、答えた。
それはとても心地良い声だった。
懐古感とでも言うのだろうか、なんとなく胸の奥がむず痒くなる。
父はデスクの上を片しながら続けた。
「確かに私はこの〈つがみ小児科〉の永続を望んでいる。だがそれは全て、お前の幸福と安寧を考えてのことだ」
「僕の幸福?」
父は静かに椅子を回すと、静かに頷いた。
「
普段使用するパソコンは
上下関係の厳しさも、同僚との付き合い方も、上司に媚びる方法もな。
そんな新卒と相違無い三十路のお前が、一体どんな会社で働けると言うんだ」
「そ、それは…」
私は口籠った。なぜなら私自身、同じ年頃の人達と比べて、社会人としてのスキルや常識に欠いていると常々感じていたから。
「……だが女医を嫁にとり診療所を継続していけば、その心配は無い。今と同じことを続けていれば良いんだからな」
「じゃあ、
「同じ理由だ」
通勤用の鞄を閉じると、父は椅子に大きくもたれ掛かった。
「診療と調剤で多少毛色は違うだろうが、どちらも医療関係であることに代わりはない。
なにより彼女は経営者だ。結婚すれば彼女の会社に入れるし、なんなら社長や副社長の地位も狙えるだろう。調剤薬局は薬剤師など特別な資格を持たなくても経営が出来るしな」
その説明に私は
「仮に彼女の会社に入らずとも、
結果的に
余程上機嫌なのだろう、普段は仏頂面で寡黙な父が笑いながら
私は少しだけ、緊張から解放された
「ところで
「な、なに?」
明るい声の父に呼応するよう私も声高に答えた。
けれど…。
「
ほっとしたのも束の間。私の全身からみるみる血の気が引いた。
「ど………どうして
「
私は身震いした。息子の私が言うのも何だが、やはり父は頭が切れる。
「あ……
私は口籠った。
父の視線が再び鋭く澄まされる。
その目に、私の脳裏に過去の記憶が蘇った。
幼い頃から父は厳格だった。自分が絶対的に正しいと信じて揺るがない人だった。
その自信を裏付けるだけの頭脳と権力を父は有していたから。
同時に父は完璧主義者だった。
息子の私や母にも自分と同じものを求めた。
少しでも自分の意に添わなければ、怒声張り上げ物に当った。
そんな父が、私は恐くて堪らなかった。
だが同じくらい、憧れてもいた。
自分に絶対の確信を持ち、言葉と信念を曲げない父の背中に。
そんな父の隣に笑顔で寄り添う、優しい母に。
そして………
『なにもない』『ただの雇用関係だ』………そう答えた方が安全なのは分かっている。
だけど、例えその場凌ぎの嘘だとしても、それだけは言いたくなかった。
口にした瞬間、
もう二度と彼女と分かり合えない気がした。
だから私は、震える体でもって歯を食いしばり、拳を握った。
「僕は……僕は
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