第102話 09月18日【5】
静かに目を閉じ身を委ねる彼女に、私はそっと顔を寄せた。
薄いリップに潤んだ唇へ、磁石のように惹き付けられて。けれど――
――コツンっ。
触れ合わせたのは、唇ではなく
お嬢ちゃんの小さなオデコに、私は自分のそれを触れ当てた。
「ごめん、お嬢ちゃん………やっばり、ダメだ」
ほんの少し身を出せば触れてしまいような鼻先。呼吸さえ感じる距離で互いの額を触れ合わせたまま、私は重く呟いた。
「僕はお嬢ちゃんの事が好きだ。それは本当だ。君は魅力的だし可愛いし、何より優しい。僕に持ってないものを沢山持ってる。だけど、ダメなんだ……僕は――」
触れ合わせた
するとお嬢ちゃんは、
「知ってましたっ!」
にっこりと、優しく笑った。それはまるで、太陽を見つめる
「わたし本当は、事務長には他に好きな人が居るって、前から気付いてましたっ」
明るい声で繋げるも、お嬢ちゃんは直ぐにまた視線を伏せた。
「でもそんなこと聞けないから、ずっとモヤモヤしてたました。だから今日、聞けて良かったですっ! ありがとうございますっ」
お嬢ちゃんは目一杯に頭を下げた。
だが再び上げた彼女の顔を直視することが、私には出来なかった。
「……ごめん」
「いえ。わたしの方こそスミマセン。急に変なこと言っちゃって……ダメですよね、わたし」
「そんなことない!」
張り上げた私の声に、お嬢ちゃんは目を見開いて驚いた。
「お嬢ちゃんにそう言って貰えて、僕は本当に嬉しかった! 幸せだった! 出来る事なら君と…」
そこで私は言い淀んだ。これ以上は言葉に出来なかった。声に出せば全てが終わる。そんな気がした。
歯噛みしながら、私は拳を握り締めた。
「……ありがとうございます、事務長。なんだかわたし、勇気をもらっちゃいましたっ!」
「勇気…?」
「はいっ! これでお父さんにも、ちゃんと正直に自分の気持ち伝えられます! だってわたし、生まれて初めて告白出来たんですっ! きっとお父さんとも、面と向かって話せると思いますっ」
そう言ってお嬢ちゃんは、またニコリと笑った。
けれど直後。赤らむ頬に、ツウ……と一筋の涙が落ちる。
「あ………あれ、ごめんなさい。全然そんなつもりじゃないのに、なんだか、勝手に…」
「えへへ」と笑いながら彼女は涙を拭った。だが一つ拭えば今度はまた一つと、大きな瞳からそれは溢れ出す。
「ごめんなさい、ごめん……なさい…」
止めどなく流れる、透明な雫。
それを受けきれず、お嬢ちゃんはとうとう両手で顔を覆って
もどかしかった。
抱き寄せることは簡単だった。良い男のフリをして、見様見真似に震える肩へ腕を回せば良い。
だけど出来なかった。
今此処でそんな軽率なことをすれば、お嬢ちゃんの覚悟と想いを無駄にしてしまう。
そう思えた。
だから私は、お嬢ちゃんの啜り泣く声を受けることしか出来なかった。
えずく度、鼻を啜るたび、私は胸が引き裂かれるような痛みに駆られた。
これが私の
※※※
「送って頂いて、ありがとうございました」
「本当にここで良いの?」
「はい。大丈夫です」
クリニック最寄りの駅前で、お嬢ちゃんが言った。
私は「自宅近くまで送る」と言ったが、彼女は「ここでいい」頑として聞き入れなかった。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ」
ロータリーの端に車を停めて、私も彼女を見送るため一緒に運転席から降りた。
駅からの明かりに照らされるお嬢ちゃんの顔は、赤らんで少し腫れぼったくなっていた。
「事務長」
「ん?」
「最後に、握手だけ良いですか?」
そう言ってお嬢ちゃんは右手を差し出した。拭った涙がまだ乾いていないのか、少しだけ濡れている。
「……最後だなんて言わないでよ。これからも、ずっとウチで働いてよ。まだまだ教えたい仕事も沢山あるんだから」
微苦笑まじりに、私はその手を握り返した。
「……じゃあ、今ひとつだけ、教えてほしいことがあります」
「なに?」
交わした手を離すと同時、お嬢ちゃんは両の手を私に向けて広げた。
「抱きしめて、くれませんか」
突然の申し出に驚いた私は、「えっ…」と声を漏らすほか無かった。
「わたし、お父さん以外の男の人に
少しだけ照れ臭そうに、だが明瞭な声でそう言うとお嬢ちゃんは小首傾げて混ざり気ある微笑みを浮かべた。
「……わかった」
私も同じ量の微笑で返す。平静を装うものの、内心では心臓が爆発しそうだった。
そうして私は、お嬢ちゃんの広げた腕の中に体を納めて、彼女の華奢な背中に腕を回した。
彼女の頬と私の頬が、わずか数㎝の距離に在る。
だけど決して触れようとしない。
私の心音に混ざって、彼女の心音が響いてくる。
だけど決して調和を奏でない。
二人の熱が、互いの体を行き来する。
だけど決して交わらない。
「ごめん………お嬢ちゃん」
「謝らないで下さい……わたしのほうこそ、事務長の気持ち知ってながら……ずるいマネして、ごめんなさい」
その瞬間、私の肩に熱い何かが触れて滲んだ。
それが何かを知りながら、止める術は私は持たなかった。
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