第103話 09月18日【6】

 お嬢ちゃんが独り、駅の階段を登っていく。


 涙でまぶたを腫らしながらも、彼女は最後まで精一杯の笑顔を向けてくれた。

 

 美しい。


 改めてそう想った。

 可憐な後ろ姿が見えなくなっても立ち惚けていた私は、ようやくと身を翻し車に戻った。


 少しだけ、後ろ髪を引かれていた。


 運転席に乗り込みシートベルトを締める。けれどサイドブレーキは降ろさない。

 ギアも【P】に入れたまま、私はスマートフォンを取り出し電話を掛けた。


 『も、もしもし…』


何度目かのコールの後、スピーカーの向こうから震える声が届けられた。相手は、綾部あやべさんだ。


 「こんばんわ、綾部あやべさん。今、大丈夫?」

『は、はい…』

「ごめんね、夜遅くに」

『いえ…』


余程驚いているのか、彼女の声にいつもの平静さが感じられない。

 だが大きく深呼吸する音が聞こえた直後、『失礼しました』と咳払い一つでいつもの調子に戻った。


 「今日はゴメン」

『とんでもありません』

「今、診療所の近くなんだ」

『そうですか………あの、事務長」

「なに?」

『もしかして、そのためだけに電話を?』

「いや、そうじゃないよ」

『では何か御用事でしょうか?』

「ああ、えーっと…」


私は答えに迷った。改めて聞かれると、なぜ電話を掛けたのか自分でも分からない。考えても仕方がないので、私は――


「今から、会えないかな」


――心に浮かんだ言葉を、そのまま声に換えた。


『今から……ですか?』

「うん」


綾部あやべさんの声が上擦っている。当然だ。なにせもうすぐ午後の9時。こんな時間に上司から呼ばれて不審に思わない方がおかしい。

 私は言葉を翻そうとした。けれど、


『……1時間ほど、お待ち頂けますか』


その言葉に、出掛かった声が消え失せる。


 「ありがとう。◇◆駅近くの〈コジローの森珈琲〉に待ち合わせで良いかな?」

かしこまりました」

「じゃあ、1時間後に」

『はい………あっ、あの、事務長!』

「なに?」

『ありがとう、ございます』


瞬間、私の脳裏には微笑む綾部あやべさんの顔が浮かんだ。妄想にもかかわらず恥ずかしそうに微笑む彼女の姿に、私の頬にも思わず笑みが浮かんだ。

 そうして車を走らせ、◇◆駅の地下駐車場に車を停めた。

 だが夜も遅い。周辺の店は殆どシャッターを降ろしている。

 見慣れない風景に背筋震わせながらも、私は指定した喫茶店に足を向ける。

 すると道中、1件の花屋が目に付いた。

 特別に洒落ているわけでもない、地味で小さな町の花屋といった様。

 その狭い店頭に飾られているブーケ型のアレンジメント・フラワーが、私は気になった。

 白を基調とした花々の中心に据えられた3本の赤い薔薇バラ。それに小さな向日葵ひまわり。名前も分からないハート形の緑葉植物も可愛らしい。

 私は小振りなその花束を手に取ると、レジで簡単なラッピングだけしてもらい、小脇に抱えて喫茶店へと向かった。

 すると、綾部あやべさんが既に店の前で立って居た。約束の時間より随分と早い。


綾部あやべさん!」


スマートフォンを見つめる綾部あやべさんが、私の声に驚いて振り返った。

 私は小走りに彼女の元へ駆け寄った。


 「ごめんね、急に呼び出して」

「いえ。こちらこそ、お忙しい中ありがとうございます」


ペコリとお辞儀する綾部あやべさんは、心なしか喜んでいるよう見えた。


 「小篠こしのさんのお父様とは?」

「うん。多分上手くいったと思う。聞いていた感じと違って、娘想いのお父さんだったよ。あとはお嬢ちゃん次第かな」

「そうですか。それなら良かったです」

「うん。あ、そうだ。綾部あやべさん、これ」


私は花束を差し出した。綾部あやべさんは照れ臭そうに、恐る恐ると受け取った。


 「夜遅いのに、呼び出してゴメン。それと、今日は約束を破っちゃって」

「いえ。事務長は約束を守って下さいました。こうして、会いに来て下さったのですから」


小さな花束に鼻先を寄せると、綾部あやべは心地よさそうに息を吸い込んで香りを味わった。


「それに、こうして誕生日のプレゼントまで………本当に、ありがとうございます」


「………え?」


一瞬、閃光が走ったかのように頭の中が真っ白になった。


 「あ、綾部あやべさん、今日誕生日だったの!?」

「え、ええ。それを御存じで、こちらをご用意下さったのでは?」

「あー………ゴメン! すっかり忘れてた!」


祈るように両手を合わせて、精一杯に頭を下げた。

 すると頭上から、軽い溜息が聞こえる。


 「本当に、事務長は要領の悪い御人ですね。適当に『そうだ』と仰っていれば良いものを」

「だって、綾部あやべさんにはそんなことしたくないから。誕生日のプレゼントは、ちゃんとそれとして用意したいし。

 それに、どんな些細なことでも嘘を吐きたくないんだ………綾部あやべさんだけには」


ゆっくりと頭を上げながら言うと、裏腹に今度は綾部あやべさんが顔を背けた。

 そのまま「コホン」と咳払いすれば、桃色に染めた頬でもって視線を戻す。


 「……ならば今日、これからプレゼントを頂けませんか?」

「う、うん! なんでも言ってよ! でももう遅いし、開いてる店なんて殆ど無いよ?」

「大丈夫です。物ではありませんので」

「じゃあ、なに?」


尋ね返すと、綾部あやべさんは指先をモジモジと遊ばせ上目遣いに唇を震わせた。


「私の部屋に、来て下さいませんか?」

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