第96話 09月15日【2】

 「……わたし、〈つがみ小児科〉を辞めるかもしれないです」


不安な面持ちのお嬢ちゃんが、震える声で告げた。

 絞り出すかのような弱弱しい声量。にも関わらず私は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 同時に、頭の中では音にならない声が駆け巡る。


「次の事務員を募集しなければいけないのか」

「9月や10月は人が動くから採用もし易いか」

「『かもしれない』ということは、まだ辞職しない可能性があるのか」


そんな文言もんごんが縦横無尽に脳内を埋め尽くす。

 衝撃と絶望、そして当惑する私を察してか、お嬢ちゃんは申し訳なさそうに、また項垂うなだれた。

 薄暗い診察室に、静寂が満ちる。


「……と、取り合えず、辞める理由を聞かせてもらってもいい?」


必死に作り込んだ歪な笑顔。動揺も隠せず尋ねれば、お嬢ちゃんは恐る恐ると頭を上げた。


「父から、お見合いをするよう言われたんです」

「お、お見合い?」


受けた言葉をそのまま投げ返すと、お嬢ちゃんは小さく頷いた。

 頭に疑問符を浮かべながらも、私はお嬢ちゃんの声に耳を傾ける。


 彼女の御父上は、先日紹介された通り医療経営のコンサルタント会社を経営している。オフィス街のビルにも事務所を構えていて、従業員も30名以上と中々の規模らしい。

 そんな御父上だが、お嬢ちゃんが普通の会社で勤務することに難色を示しているそうだ。新型ウイルスの流行や雇い止めなど、騒々しい今の世の中では確かに仕事を見つけるのにも苦労する。

 故に御父上は、大学卒業と同時に自分の会社へ入社するよう勧めたそうだが、お嬢ちゃんは既にモデルの講師インストラクターを務めていたため、それを拒んだ。

 説得を重ねられたが、お嬢ちゃんの意思は意外にも固く、折衷案として『25歳までは待つから、その間に自分の進路を固めること』『講師インストラクター以外にも、医療機関で働くこと』という条件で落ち着いた。

 だがレッスンがあるから、必然とパート勤務に絞られる。おまけに未経験で無資格の新人事務員を雇うような医療機関は、立地や就業環境に何かしら問題がある場合が多い。

 事実、お嬢ちゃんが最初に勤務していた耳鼻科医院も、未経験者の就業をOKとする代わりに、職員の入れ替わりが激しい苛烈な環境だった。

 最初に勤めた医療機関がそんな場所であっただけに、半ば就業を諦めかけていた時、当院の求人広告を見つけたのだと言う。

 思い返せば面接の時にも「働けるのは『3年間だけ』」と言っていたな。まさか、そんな取り決めが交わされていたとは夢にも思わなかった。


 「……あれ? ちょっと待って。そういえばお嬢ちゃん、まだ23歳だよね?」

「はい」

「約束の期限まで、まだ時間があるじゃない」

「そうなんです。だからわたしも驚きました」


言いながら、お嬢ちゃんは愕然と肩を落とした。


「父が、先月のモデルイベントに知り合いの歯科医師さんを連れてきてたんです」

「そうなんだ。御一人じゃなかったんだね」

「はい。それで、その歯科医師の先生が、私を見て『結婚したい』って言ったみたいで…」


お嬢ちゃんは顔を赤らめつつ、けれど困惑の様相は保ったまま私に説明した。

 確かに少し性急な気もするが、あのウエディングドレス姿を目にしては一目惚れする気持ちも理解できる。


 「でもわたし、見たことも会ったこともない人と結婚するなんて絶対イヤですっ! でも結婚しないと……この診療所クリニックもモデルの講師も辞めて、父の会社に入社させられます…」


徐々に声の勢いは衰え、覇気も失われていく。未開封のまま握られた紅茶が妙にむなしい。


「まあ、お父さんの気持は分からないでもないけど、約束の期間を勝手に短縮して、唐突にそんなことを言い出すなんて、ちょっと乱暴だね」

「そうなんです! だからわたし、怒ってつい言い返しちゃったんですっ!」

「なにを?」

「あ、その……『結婚も考えている恋人がいるから、お見合いなんてしない』って…」

「……へっ!?」


素っ頓狂な声が漏れ出た。まさか、お嬢ちゃんに意中の相手が居たとは知らなかった。

 そんな私の驚きと落胆が表情に出ていたか、お嬢ちゃんは慌てて両手を振った。


「ち、違います違います! 本当はそんな人いないです! 勢いというか、お見合いをしたくない気持ちが先走って…」

「あ、ああ。なるほど。見栄を張ったんだね」

「そ、そうなんです! でも、そしたら父が『実際に合わせなさい』って言ってきて……だから――」


と、お嬢ちゃんは視線泳がせ言葉を探した。

 しかし意を決したのか、一つ深呼吸をすると桜色に染めた頬で私を真っ直ぐに見つめる。


「――事務長が……わたしの恋人に、なってもらえませんか?」

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