第90話 08月19日【5】

 「御力添えできないって、一緒には行けないっていうこと?」

「……はい」


診察終わりの静かな待合室で、綾部あやべさんは申し訳なさそうに頷いた。


「あー……まあ、そっか。そうだよね。急なお願いだし、用事とかあるよね」


私は淡白な笑みを浮かべて、白々しくもフォローを入れた。心苦しく萎れる綾部あやべさんの顔など見たくなかった。

 

「いえ。そういう理由ではありません」

「そうなの? じゃあ、どうして…?」


顔を伏せながら首を振った彼女に、私は思わず聞き返した。


「私には、モデルなど出来ません」


震える声で言いながら、綾部あやべさんはぎゅっと小さく拳を握った。

 それは忖度そんたく斟酌しんしゃくも無い純粋な言葉。まるで鉛でも下げているかのように、重々しく顔を伏せる彼女に対し、私はどんな言葉を返せば良いか分からず黙って耳を傾けた。

 

 「私には小篠こしのさんのような愛嬌がありません。昨日お見えになられた神永かみながドクターのように美しいわけでも、薬局長やっきょくちょう様のように前向きで能動的な性格でもありません。

 普段から笑顔一つ真面まともに作れず、人を避けて暮らす日陰者のような私に、スポットライトが降る煌びやかな舞台に立つことなど――」


と、綾部あやべさんが声を途切らせた。

 悲哀の様相で俯く彼女の前に寄り立ち、彼女の拳を取って握ったから。

 驚き顔を上げた彼女を、私は息のかかる距離で見据える。


 「僕は綾部あやべさんのこと、すごく魅力的だと思う。綺麗だし優しいし、少なくとも僕はす――」


と、そこまで言いかけてハッと我に帰った。感情任せに秘めた心根まで口に出してしまいそうな自分を抑制して。


「す…?」


頬を桜色に染め、綾部あやべさんは私の言葉を追った。潤んだ瞳が、私を捉えて離さない。


「す……素敵だと思う」


今度は私が顔を伏せた。

 狡い手だと自分でも思った。真正面から自分の心を伝えるのが怖くて、安全地帯に飛び込んだ。

 それは綾部あやべさんも理解しているはず。

 それでも彼女は、優しく微笑み返してくれた。


 「ありがとうございます、事務長。貴方のそんな分け隔てない優しさと思い遣りが、きっと皆様の心を掴まれたのでしょうね…」

「それは違う!」


私は声を張り上げた。綾部あやべさんはビクリと肩を震わせ、一瞬だけ診察室を振り返る。


「僕のこの気持ちは、綾部あやべさんにしか向けてない!」


伏せていた視線を上げて、私は真っ直ぐに彼女を見据えた。


 「人前に出るのがイヤなら、それでいい。無理にイベントへ参加して欲しいなんて言わない。だけどそうやって、君が君自身を否定するのが、僕は我慢できない!」


思考というフィルターを介さず、思いの丈が直接声に変換される。

 驚嘆の様相示し言葉無くす綾部あやべさんを前に、私は更に言葉重ねた。


 「綾部あやべさんは魅力的だ! 綺麗だし、気が利いて優しくて、普段はクールかもしれないけど、時々見せてくれる笑顔が僕は………大好きだ」


触れ合う肌から彼女の熱が伝わるよう。

 その熱が、私の中にある想いを膨張させフワフワと湯気のような浮遊感に包む。


「事務長…」

「だから綾部あやべさんには、もっと自分に自信をもっていほしい。綾部あやべさんなら、きっと綺麗な服も似合うと思う…」


萎む声に伴い、私の視線が徐々に下がる。

 同時に綾部あやべさんの拳を握る手が緩んだ。するとその手を、彼女は優しく解いた。

 そして返すように、今度は彼女の指先が私の手を包み込む。


「事務長は、綺麗な洋服を着た私を見ても………笑わないで頂けますか?」

「当たり前だよ……僕は誰よりも、綾部あやべさんのことを見てるから」

「なら……行きます」


互いに視線を合わせないまま、重ね合わされる指と言葉。そこから彼女の真意が伝わるかのよう。


「いいの?」

「はい……その代わり、ひとつお願いを聞いて頂けませんか?」

「なに?」

「今度、お休みの日に私と……二人で食事に行ってください」


囁くような、震えるような声に、私はようやくと顔を上げた。

 見れば綾部あやべさんが、鼻先赤らめ振り絞るかのような面持ちで居る。


「そんなことでいいの?」


綾部あやべさんは、唇結んだまま頷き返した。

 子犬を思わせるような、あどけない姿。普段とのギャップに私の頬は意図せず緩む。


「いいよ。綾部あやべさんとなら。何度でも」

「いえ、1日だけで良いんです。その日だけで…」


思い含めた声に、浮遊する私の心はいよいよ脳髄まで溶かして思考を妨げる。

 握られた手。今度は私が優しく解いて、結び合わせるように五指を絡めた。


「分かった。約束する」


自信と確信を込めた私の言葉に、綾部あやべさんはニコリと微笑んだ。


 やはり私は、彼女の笑顔が、一番好きだ。

 

 少なくともこの時の私は、そう思っていた。

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