第89話 08月19日【4】
「――というわけで、ウチの事務員の子を手伝ってもらえませんか……?」
『まったく……
スマートフォンの向こうから、
夕方からの診療が続いている最中、私は2階の事務所で彼女に電話をかけた。どうやら帰宅途中のらしい。
『
「す、すみません…」
引き攣った笑みを浮かべて私は頭を下げた。もちろん彼女には見えていないが。
「やっぱり無理ですよね。急に言われても、お忙しいですよね」
『いえ、大丈夫です。行きます』
「……えっ!?
一寸の間も置かずに
私の喉には「行くんですか!」というツッコミが
『もともと明後日は
「あ、そうですか…」
皮肉交じりに
「とにかく、ありがとうございます。ウチの
『それが
「それに?」
『
「ぶっ!」
私は思わず吹き出した。デスクの上に唾液が飛散する。何も口に含んでいなかったのは不幸中の幸いだった。
「な、なに言ってるんですか!?」
『だって、あの可愛いお嬢さんからのお願いなんですよね?』
「はい」
『綺麗で物静かな、あの事務員さんも誘われるおつもりなんですよね?』
「まあ…」
『美人な
「たぶん……」
『そんな満貫前席と懐石料理とフレンチのフルコースを目の前に出されて、
「………」
矢継ぎ早の質疑応答に、微苦笑を浮かべる私はまたも閉口した。
『仮に
子豚と比喩されたことにも引っかかるが、3人を狼に例えたことが私の脳内に妄想を生み出した。頭の中ではハロウィンのコスプレみたく、狼の耳や尻尾を付けた
『ですが安心して下さい。
だが
「えっ………じゃ、じゃあ結婚までそういうのは無しなんですか!?」
『当然です』
光より明瞭な即答。彼女の意思が盤石なものだと分かる。私は思わず身を乗り出した。
「ど、どこまでなら結婚前でもOKなんです?」
『うーん、【A】までなら』
「【A】………あっ、キスのことですか!」
一瞬、頭の中がクエスチョンマークで満たされた。
数秒後、豆電球が光るように思い出して私は机を叩いた。まるでクイズ番組の解答ボタンを押す感覚だ。
『あ、でもライト・キスまでですよ。フレンチ・キスは結婚までNGです』
「え……あ、はい…」
『あ、すみません。今から電車に乗るので、一旦失礼します。時間など決まったら、また御連絡をお願いします』
「分かりました。ありがとうございます」
『いえ。おやすみなさい』
「おやすみなさい」
私は終話ボタンをタップした。そして大きく深呼吸する。
以前から感じていたことだが、
神妙な面持ちで私は天井を見上げた。
そして思い立ったように、再びスマートフォンを手に取り、検索アプリを起動した。
「……フレンチ・キスってディープ・キスのことなんだ」
※※※
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ様でした」
業務を終えた看護師さんらが退勤していく。私と
診察室で父がパソコンと向かい合っている間、私と
いつもそうだ。
余程のことが無い限り、父より先に上がることはない。
ちなみに寝不足のお嬢ちゃんは、最後の患者様がお帰りになられた直後に帰宅を促した。
「そうだ
「はい。
掃除の手を止めて、
「話が早くて助かるよ。それで、明後日の予定なんだけど…」
と、私が言い終えるより早く、
「申し訳ありません、事務長」
「私は、御力添えできません」
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