第86話 08月19日【1】

 「お前、隣の薬局長と駅前の整形外科に行ったらしいな」

「え…」


休診時間中。執務室のデスクで昼食を摂っていた私に、同じくデスクで天丼を食らっていた父が唐突と口火を切った。

 嫌な汗を噴き出しながら、私の脳内ではあらゆる思考が飛び交い渋滞を起こした。


「どうした? 行ったのだろう?」


押し黙る私に父が追い打ちをかけた。これ以上の沈黙はマズイ。私は考えも纏めず口を開いた。


「い、行ったけど……なんで知ってるの?」

「昨日の食事で聞いた」


瞬間、思考回路がショートしブラックアウトした。

 そして再接続された神経は、自動的オートマティックに答えを導き出す。


「じ、じゃあ父さんが約束してた人って…」

「その整形のドクターだ」


ガーン……と、鍵盤を叩きつけるような擬音が、頭の中で響いた。

 目眩めまいすら覚えそうな衝撃。全身の血が足の裏から抜け出るかのよう。


「彼女は私の大学の後輩でな。それまでは面識も無かったが、開院時に挨拶を貰っていた」


背中越しに海老天を齧る父は、淡々と言い連ねた。

 あの女性医師が以前より挨拶を……医師同士の繋がりを甘く見ていた……いや、よく考えれば当然か。

 開業医は地元や出身大学から程近い場所に診療所を構えることが多い。医学部なんてそう多くは無いのだから、出身大学が父と同じという可能性も充分に考えられた。迂闊うかつだった。


 「そ、その先生とは何を話したの?」

「基本的には開業のことと、近隣地域のことだな」


懸命に言葉を選んだ私に反し、振り返った父は平然としている。その表情に怒気は伺えない。

 

「ああ、それに調剤薬局のことを聞かれた。今度〈ヴェール・ファーマシー〉を誘致して院外処方に移行するようだ……と、お前も知っているか」

「う、うん…」


私は歯切れ悪く答えた。

 口振りから察するに、私が薬局王キングと二人で整形外科に訪れたことは完璧に把握しているようだ。

 だが不幸中の幸い。向こうの医師ドクターには『婚約者(のフリをして来た)』ということを伝えていない。その事実を知るのは光希みつきさんだけだ。彼女が暴露しない限り、それが漏れることはないだろう。


「しかし、私に言われずとも開業医に挨拶へ行くとは、お前もようやく経営者としての自覚が出てきたんだな」


焦る私を他所よそに父がしみじみと呟いた。私は「えっ?」と抜けた声を漏らす。


「だが、そういう事は前もって私に報告しろ」

「え……あ、ごめん…」


気のせいではない。叱責も柔らかだ。普段なら鬼のような形相で怒鳴っているだろうに。

 それどころか、笑っているようにも見える。


「隣の薬局長やっきょくちょうさんから誘われたのか?」

「あ、うん…」

「そうか。彼女のバイタリティはお前も見習う所があるな。良い機会だ。これからは薬局運営のことも勉強させてもらえ」

「う、うん、わかった…」


何故か分からないが、お咎めも無いようだ。

 以前には『薬局のことなど考えるな』などと発言した父だ。てっきり薬局王キングのことを良く思っていないものと考えていたが。

 なんにせよ、薬局と良好な関係が築けるのは良いことだ。私は椅子をただしてカップラーメンを啜った……が。


 「それで、神永かみなが嬢とは上手くいっているのか?」

「ぶふぅっ!」


口内に貯めた麺が、勢いよく噴き出た。

 喉に引っ掛かったネギが鼻まで逆流し、「ゲホゲホ」と咽いでしまう。


「か、関係って…」

「あの見合いの後から、お前達二人は個人的な交流あるのだろう?」

「なっ……なんで知って…」

「やはりか」


父は「ふむ」と鼻から息を吐いた。カマをかけたのか、このオヤジ。


 「整形のドクターが誘致の件について『神永かみながさんの推薦で』と言っていた。光希みつき嬢と〈ヴェール・ファーマシー〉が懇意にあったと考えたが、わざわざお前を連れて行った意味を鑑みれば、お前と交友関係を考える方が自然だろう」


さも当然かのように父は言った。

 真相を見抜かれたわけでは無いのに、何故こうも核心を突けるのか。何にせよ光希みつきさんとの関係がバレるのは頂けない。彼女もそれは望んでいないはずだ。ここは何としても誤魔化さなければ。


「と、父さん僕は――」

「分かっている。皆まで言うな。彼女と親交を深めることは全く悪いことじゃない。光希みつき嬢を手籠めに出来なくとも、友人の女性医師を紹介してもらうもある」


明らかに機嫌良く父は言うと、父は空になった天丼の容器をゴミ箱に投げ捨てた。

 まるで彼女をダシに使うため、私が友好を図っているかのようなニュアンスだ。


「だが薬局長やっきょくちょうとの付き合いも大事にしておけ。彼女も優秀な人物だ。なにより経営側の人間だからな。必ずお前のプラスになる」


そう言うと父は白衣を羽織り、執務室を後にした。

 薬局王キングのことを褒められた嬉しさよりも、彼女らの立場を利用するような発言が、私の胸には浅黒い苛立ちと不満を残した。

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