第85話 薬局長と石動くん【3】

 「貴方、もう御辞めなさい」

 

項垂うなだれる僕の頭上から、彼女の声が重たく響いた。

 一瞬驚くも、僕は自嘲じみた笑みを浮かべて顔をもたげた。

 そして険しい表情の彼女に、力なく頷き返す。

 僕には彼女の魂胆が分かった。

 このまま僕がパワハラを受け続けて体調を崩したり、訴えを起こしたりと、大事おおごとになる前に会社を辞めさせる腹積もりなのだ。

 深々と頭を下げ誠心誠意に謝罪するフリをしているが、結局彼女も保身や体裁ていさいを第一とする会社の歯車なんだ。

 絶望的な諦念感ていねんかんに包まれながら、僕は懐の辞表を取り出そうと腕を引いた。

 けれど、その瞬間。


「じゃあ、週明けから私の店舗に異動ね」

「……え?」


懐にもぐらせた手が、ピタリと止まる。


 「手続きはもう済ませてあるわ。交通費はしばらく実費精算なさい。落ち着いたら正式に異動の書類を渡すわ。こっちの店舗には私から言っておくから、今日はもうお帰りなさい」

「え……で、でも…」

「あら、なにか質問かしら? 店舗に置いている荷物のことなら心配無用よ。責任を持って私の店舗に送っておくわ。貴重品は置いてないわよね?」

「は、はい…」

「なら問題ないわね。新しい店舗の場所と連絡先は後でメールアドレスに送るわ」


矢継ぎ早に言い重ねる彼女に圧倒されて、気付けば僕は珈琲片手にコンビニを出ていた。

 彼女はというと、「来週から宜しくね」とだけ言い残して行ってしまった。

 残された僕は途方に暮れるつつも、白衣姿のまま帰宅した。


 そして二度と、今の店舗に行くことは無かった。

 


 ※※※



 翌週。

 指定された店舗を尋ねれば、彼女が笑顔で出迎えてくれた。清潔な白衣を纏うその姿は神々しさすら感じる。

 彼女に案内され事務所に行くと、僕の荷物とロッカーが置いてあった。

 休憩時間や店舗の構成人数など簡単な説明を受けて、僕は彼女と一緒に店舗へ向かった。すると…。

 

「あ! おはようございます! 佐江木さえきさん!」


薬局前の歩道で、白衣姿の男性に声を掛けられた。

 年の頃は僕より少し上くらいだろうか。白衣の種類が違うから、同じ店舗の人ではなさそうだけど。

 ふと彼女を見れば、落ち着かない様子で目を泳がせていた。神々しさはおろか、先日の凛とした態度も消え失せて。


 「つ……津上つがみくん……お、おはよう」


彼女は照れ笑いを浮かべながら、白衣の男性を上目遣いに見た。

 男性は少しだけ困ったように、人好きのする笑顔で返す。


「その『津上つがみくん』ていうの、いい加減やめてくださいよ」

「じゃ、じゃあなんと呼べば良いの?」

「普通に『津上つがみさん』とか」

「それだと、院長先生と区別しにくいわ…」

「なら『津上つがみ事務長』とか」

「……長たらしい呼び名は好きじゃないの」

「じゃあどんな呼び方なら良いんですか?」

「そうね……しょ、『翔介しょうすけさん』というのは、どうかしら?」

「却下でお願いします」

「なんでよ!」


まるで別人格が表出したかのようだった。

 女神のように思えた彼女が、今はか弱い乙女のに見える。

 桃色に頬染め、はにかむ薬局長の横顔。愛らしい姿にも関わらず、僕の心には暗雲のような小さなもやが立ち込めた。



 ※※※



 僕の心に生まれた雲は、次第に大きくなっていきました。

 それはもう、夏の空に広がる雲のように。

 最初は恩人のような存在だったけれど、顔を合わせるたび、言葉を重ねるたび、僕は薬局長やっきょくちょうに惹かれていきました。

 彼女を上司や管理者ではなく一人の女性として想うのに、時間は要りませんでした。

 ただ、今年入った新卒の女の子は薬局長やっきょくちょうのことを怖がっているし、先輩たちも「社長の娘だから」と微妙に距離を置いています。

 確かに薬局長やっきょくちょうは厳しいし、社長の娘で経営者です。だけど、どんなことにも真っ直ぐだし権力を振りかざすようなことは絶対にしません。


 そんな薬局長のことが、僕は堪らなく大好きなんです。


 いつかこの会社で一人前の薬剤師になったら、薬局長やっきょくちょうにプロポーズをしよう。

 そう思い、今では辞表に代わって、女神への想いが詰まったラブレターを内ポケットに忍ばせています。


 そして僕は今日も、佐江木さえき薬局長やっきょくちょうのお傍で笑顔と共に働くのだ。

 

 ご清聴、ありがとうございました。

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