第84話 薬局長と石動くん【2】

 「貴方が、新人の石動いするぎ君ね?」


僕の勤務する店舗に、彼女は突然と現れた。

 ゆるいウェーブのかかった髪に、愛嬌のある大きな猫目。スレンダーな体躯。

 凛とした雰囲気を醸す彼女は、まるで童話に出てくるお姫様のようだった。

 

 綺麗な人だ。

 

 ひと目見た瞬間に、僕はそう思った。

 後から聞くと、年齢は僕のひとつ上だという。にもかかわらず彼女はとても大人っぽくて、外見よりずっと落ち着いて見えた。

 そんな彼女の来訪は予定に無かったのか、管理薬剤師のオバサンは間抜けな顔で驚き、腰低く不気味な愛想笑いを浮かべた。


「忙しい所をごめんなさい。少し彼を借りても良いかしら?」


春風のように心地よい声で彼女が尋ねると、管理薬剤師はヘラヘラと不細工に笑ったまま、僕を突き出した。


「それじゃあ、行きましょう」


言うが早いか彼女は颯爽と踵を返した。呆気にとられながら、白衣姿のまま僕も外に出た。


「久しぶりね。私のことを覚えているかしら?」


優しく微笑む彼女に対し、僕は無言で首を振った。緊張と驚きで言葉が出なかった。


「そう。無理もないわね。入社の時に一度会っただけだもの。改めまして、私は佐江木さえきよ。この会社の役員をしているわ」

「ど、どうも…」


ようやく絞り出した僕の声は、気が抜けた炭酸水のようだった。

 『役員』と言われてもピンと来なかった。なんとなく偉い人なのは分かるが、年齢のせいかそんな印象を受けない。


「少し、話せるかしら?」


彼女は道路の向こう側にあるコンビニを指差した。僕は小さく頷いて応える。

 他に客の居ない、カウンタータイプのイートインコーナーに僕を先に座らせると、彼女は珈琲を買って戻ってきた。

 「いただきます」と、僕は恐る恐る珈琲に口を付けた。ほろ苦くも温かい珈琲が、固まる心を少しだけ解してくれた。


 「どうかしら、仕事の方は」


隣に腰掛けた彼女が、優しい声で尋ねた。

 やはりその話か、と僕は心の中で呟いた。

 きっと、以前マネージャーに相談したことが、この人の耳に入ったんだ。

 さきほど見た管理薬剤師の態度や口調から、この女性ひとは余程立場のある人間なのだろう。40代半ばの男性マネージャーよりも、『役員』と名乗るこの女性ヒトの方が偉いのだろうか……いや、今はそんな事どうでもいい。

 雑念消して、僕は入社から今までのことを思い返した。

 辛苦に心を犯されるような日々。

 話したいことも、聞いてほしいことも、打ち明けたいことも山程あった。

 でもイザとなると言葉が出てこなかった。言いたいことがありすぎて、どこから話すべきか迷った。

 黙りこくって、僕は考えた。

 彼女はそんな僕を決してかさず、じっと静かに見守ってくれた。

 そうして、一つの言葉が心に浮かんだ。


「……ツラいです」


浮かんだ心の声を、僕はそのまま発した。

 言いたい事は他にも沢山あった。管理薬剤師の悪行を、理路整然と並べ、まくし立ててやりたかった。

 けれど、その一言を絞り出すので精一杯だった。

 これ以上言葉を繋げると、声じゃなくて涙が出そうになった。

 溢れ出そうな思いを必死に堪えて項垂うなだれる僕はふところに手を伸ばした。

 万が一「もう少し頑張って」とか「男なんだから根性を見せなさいよ」なんて言われるのであれば、内ポケットに隠してあるこの辞表を叩きつけようと思った。けれど――


「……ごめんなさい」


――帰ってきたのは、予想外の言葉だった。


 「あの管理薬剤師はウチの社長と旧知の間柄なの。だから誰も目を逸らして非道な振舞いを看過していたの。

 その皺寄せを全て貴方のような新人に負わせて、苦しい思いをさせてしまったこと………経営の一端を担う者として心から謝罪するわ」


申し訳なさそうに、彼女は深々と頭を下げた。

 僕は目に見えて狼狽うろたえた。

 そんなことを言われるなんて、想像だにしていなかった。

 言葉の処理が追い付かず混乱する僕は、唇結んで顔を伏せる。

 苦しいからじゃない。彼女の言葉に微かな希望を見出したから。

 だけど、次の瞬間。


「貴方、もう辞めなさい」


重みのある声が、頭の上から響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る