第77話 08月13日【1】

 とうに昼を過ぎた午後2時。

 私はようやくと目を覚ました。


 昨日は光希みつきさんと観覧車に乗った後、夕食は御一緒せずに駅で別れた。彼女が翌日も勤務ということで、早めに切り上げた。

 名残惜しそうな光希みつきさんの瞳に、私も後ろ髪を引かれる思いだった。

 そんな気持ちが溢れてしまったか、私は家に着くなり彼女に電話を掛けた。迷惑に思われるか危惧したが、光希みつきさんはことのほか喜んでくれた。

 数年ぶりの長電話。気付けば深夜の0時を回っていた。

 ベッドに転がり目を閉じるも、興奮が冷めなかったのか明け方まで眠りにつけなかった。

 

 寝惚けまなこで支度を整え、昨日よりもラフな服装で花火会場へと向かう。


 待ち合わせは開催場所近くの大きな駅。車内もホームも改札周辺も、花火を見に来たであろう客の姿が目立つ。

 ぞろぞろと歩く人の波を見つめれば、ふと脳裏に嫌な思考がよぎった。

 もしも、この人混みの中に当院の患者様や従業員、隣の薬局関係者が居たら?

 私と綾部あやべさんが一緒に居る姿を見られ、万が一にも父の耳に入ったら?

 きっと私は叱責を受けるだろう。どころか今度こそ勘当や解雇という可能性も。

 それでも私は、綾部あやべさんと花火に行きたい。私は彼女と同じ時を過ごしたい。

 改札前の柱にもたれながら、そんなことを考えていると――


「事務長」


――か細い声が私を呼んだ。

 慌てて振り向けば、そこには。


 浴衣姿で恥じらう、綾部あやべさんが居た。


 空色の生地に花柄の模様があしらわれた愛らしい浴衣。普段の綾部あやべさんの印象とは少し違う爽やかな色合い。

 

 「お、お待たせしました。申し訳ありません。浴衣など子供の頃に着た以来で……少々、手間取ってしまいました」


桜色に頬を染める夏衣装の綾部あやべさんに、私の視線は奪い取られた。


「に、似合いませんか…?」


おずおずと上目遣いの綾部あやべさんに、私は勢いよく首を振った。


「そんなこと、ないよ………綺麗だ」

「あ……ありがとう、ございます」


普段より人通りの多い駅の中で、私と綾部あやべさんは顔を伏せたまま暫く黙りあった。


 「……い、行こうか」

「はい…」


一度も視線を合わせないまま、私達はギコちなく歩き出した。

 人の流れに乗るよう歩き進めば、気付くと花火会場の河原まで着いていた。

 広い土手には所狭しと屋台が立ち並び、市内ではお目にかかれないほどの人で賑わっている。

 花火が打ち上がるのは午後7時。私は屋台に目を向けた。


 「綾部あやべさんは何か食べたいものとかある?」

「い、いえ………事務長は、何か召し上がらないのですか?」

「僕は…」


チラリと屋台を見た。旨そうな味と匂いが漂い来て、口内に垂涎が滲む。そういえば今日はまだ何も食べてなかったな。


「ちょっとだけ、お腹空いた…」

「では、なにか食べましょう」


綾部あやべさんの提案に促され、私がず目をつけたのは【たこ焼き】だ。外はカリカリ中はトロトロの食感。小腹が空いた今の俺には丁度良い。

 だが一人で食べるには忍びないし、なにより折角の祭りだ。出来るだけ沢山の屋台を回りたい。

 私はたこ焼きの一つを楊枝に刺して、


「はい、綾部あやべさん」


少しだけ冷めたそれを渡した。


「えっ……よ、良いのですか?」

「いいよ。お祭りだし」


他にも屋台は沢山ある。色々と食べ歩きをしたいからな。


「では………失礼します」


たこ焼き一つに随分と気合を入れるな、と不思議に思っていれば、あろうことか綾部あやべさんは差し出した爪楊枝を取らず、顔からたこ焼きに口を寄せた。


 いわゆる、「あーん」の動作だ。


 恥ずかしそうに口を開いて迫る綾部あやべさんの姿は、どこか淫靡いんび的で美しく、私は爪楊枝を持ったまま硬直してしまった。

 柔らかく美味そうな唇が私の指に近づいて、パクリと一口にたこ焼きを頬張った。


「……美味しいです」


恥ずかしいのか、綾部あやべさんは顔を赤く俯いたまま嚥下する。そんな彼女に、私は「良かったね」と詰まらない返事しか出来なかった。

 なんという刺激だろう。

 心臓がエンジンのように昂って、震える程に体が熱くなる。

 火照った体を冷ますように、私は【かき氷】を買い求めた。

 イチゴ味のそれを流し込むように体を冷ましていると、綾部あやべさんがじっと見つめてくるので「一口いる?」と尋ねると、彼女は黙って頷いた。

 今度はカップごと差し出した。いくら私でも同じ轍は踏まない。

 だが綾部あやべさんは、そんな私の予防線を打ち切るかのように、目を閉じ小さな口を開けて待ち構えた。

 私はあからさまに戸惑った。

 色々な思考が頭をよぎった。

 けれど気付けば私の手は、ストロースプーンに桃色の氷を乗せて彼女の小さな口に運んでいた。

 綾部あやべさんはイチゴのシロップみたく赤くなって、「美味しいですね」とはにかんだ。

 

 今日の彼女は、明らかにいつもと違う。

 

 明るい色の浴衣を着たり、「あーん」を求めたり。

 

 夏の暑さか、祭りの魔力か、押し寄せるような人の熱か。

 

 一体なにが、彼女を動かすのだ。

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