第54話 07月12日

 休診時間中、突然と事務所に呼ばれたかと思えば、私がと食事に行ったことを父に言及された。


「さっき営業の小澤おざわさんから聞いた。お前とが、駅前で車から降りてくるのを見たと」


 鬼気迫る父の様相に、私は返す言葉を見失った。

 なんということだ。まさか、お嬢ちゃんを送ったところを小澤おざわさんに見られていたなんて…。

 あからさまに言葉を詰まらせる私を見て、父は落胆を表した。わざとらしい大きな溜息が、それを如実に物語る。


「従業員とは食事に行くなと、あれほど言っただろう。何故私の言うことが聞けない」

「……ちょ、ちょっと待った! 僕はお嬢ちゃんと食事には行ってないよ!」

「なら、どうしてお前の車に彼女が乗っていたんだ。まさかホテルにでも行っていたのか?」

「そっ……そんなわけないだろ!」


私は顔を真っ赤に否定した。息子の前で『ホテル』などと、顔色一つ変えずによく言えたものだ。


「なら、食事には行ったのか」

「………日曜日は、ただ小篠こしのさんが出演するイベントに呼ばれたから見に行っただけだよ。彼女が講師をしてる子供たちが、出演しているイベントだったんだ」

「同じことだ」 


取りつくシマも無い。私は膝の上に乗せた手を握り締めた。

 父はその拳を一瞥してから、牽制するかのように私を睨み据える。


 「お前、先日のパーティでも詐欺師まがいの女に騙されかけたのだろう? 素性も家柄も分からない相手と付き合えば、そういう目に合うんだ。なぜそれが分からない」

「お……お嬢ちゃんは、あんな人とは違う!」


私は声を張り上げた。けれど父は左右に首を振って返した。


 「似たようなものだ。イベントに出演していたということは、芸事の関係者なのだろう? やわい仕事であることに変わりはない」


父のその言葉に、私の中にあるが切れて、思わず立ち上がった。


 「仕事に硬いもやわいもあるかよ! あの子は凄い子だ! 少なくとも僕には出来ないことをやってる! 人を教え導くことが、どれほど大変なことか父さんにだって分かるだろ!? それに彼女は優しいし思いやりもある! 仕事だって真面目にやってくれてる!」


 理性のフィルターを通さず、感情が口を体を突き動かす。

 言葉を重ね連ねる度たびボルテージ上がる私に反して、父は氷のように冷たい。


 「……お前は、彼女の家柄を知っているのか?」

「関係ないだろ! そんなこと!」

「大いにある。いいか、翔介しょうすけ。お前は医者になれなかった。これがどういうことか、お前はまだ――」

「またその話かよ! 分かってるよ! その話は、もう何度も聞かされてる!」


いよいよ私は怒声を放った。

 握り締めた拳が行き場を求める。

 だがすぐに我を取り戻し、拳いさめ、怒りと悔しさに歪めた顔で父を睨んだ。


 「確かに医者は偉いよ……死ぬほど勉強して高い学費払って、何年も何年も研修を重ねて……父さんがいつも「医者は塀の上を歩いている」って言ってる意味も、一緒に仕事をしてれば分かるよ!」


握り締めた拳が震える。怒りだけではない。父に対する恐怖と、自分の力無さにも。


 「だけどそれが全部じゃないだろ?! 世界は医者だけで回ってるわけじゃない! 色んな人達が支え合って、僕らは生きてるんじゃないか!」


それでも私は顔を上げた。正面から、父に思いをぶつけるために。

 けれど父は、そんな私を嘲るかのように深い溜息を吐いて背を向ける。


「もういい、行け。この話は終わりだ」

「ちょっ……なんだよそれ!」

「五月蠅い。私はお前ほど暇じゃないんだ。これ以上不毛な言い争いをする気はない。お前もサッサと仕事に戻れ」


あまりにも一方的な父の態度に、私は喉まで罵声が出かかった。

 けれどでは、あくまでおさ

 気持ちを殺して、執務室を後にする。


「クソッ!!」


鬱積したフラストレーション。

 それをぶちまける様に、コンクリートの壁を殴りつけた。

 拳の皮が捲れて紅赤い肉が露出する。薄っすらと血が滲む。


 ジワジワと痺れるような痛み。

 我慢できず、涙が溢れた。


 けれど痛みのせいじゃない。

 情けない自分と、弱い自分が悔しくて。


 堪らなく涙が溢れて、止まらなかった。

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