第50話 06月25日~06月26日【3】

 ――シャアアアア…。


 今、私はラブホテルのベッドに座っている。

浴室から響くシャワーの音が、イヤに心臓を昂らせる。

何故こんなことになってしまったのか…。

 

 今日は土曜日。

 診療終わりに父と二人医師団主催のパーティに参加し、そこで知り合った看護師の女性と酒を飲んだ。

 その後に公園で一休みしていると、彼女が『地元はもう終電が無いから』と…。

 訳も分からず流されるまま、一緒にこのホテルに入ってしまい、先にシャワーを浴びるよう促され、入れ替わるように彼女が浴室に入った。

 そして今に至る。


 ――パチッ。


「えっ…?」

突然と電気が消えた。仄明ほのあかい間接照明だけが私を照らす。


「ショウスケさん…」


絹糸のようにつややかな声。視線と意識は瞬時にへと奪われた。

 薄暗い部屋の片隅で、全裸にバスローブを羽織る美女の姿に。

 ローブはだけた胸元が、暗がりにあってもなまめかしい。


「あはっ! 恥ずかしいから、あんまりこっちは見ないで欲しいなっ」

「あっ、ご、ごめんなさいっ!」


私はすぐに視線を伏せた。

 彼女は私の隣に腰を下ろす。

 そして私の手に、そっと自分の指を絡ませ。


「……いいよ?」


耳元で囁かれる、甘く刺激的な言葉。

 チラリと首を返せば、すぐ目の前に彼女の顔。

 素朴な肌に丸く大きな瞳。

 視線を下げれば、玉のような肢体と、程よく実った形良い乳房。

 くびれた腰に柔そうな太腿。美しいボディラインに、視線を釘付けずには居られない。

 体の内外で、熱が異様に膨れあがる。


 ゴクリ、乾いた喉が唾で鳴った。


 良いのだろうか。

 出会ったばかりの女性とこんなことを。

 否、何の問題があろう。

 私も彼女も成人している。法の問題は無いはず。

 据え膳食わぬは男の恥。

 誘ったのは向こうだ。私に罪はない。


 麻痺する思考が、迷宮のように絡み合い、気付けば手が伸び、彼女の肩を抱いていた。

 

 抵抗も拒絶もなく、彼女はそっと瞼を閉じる。


 だが、その時。

 私の脳裏に、3人の顔が浮かんだ。


 綾部あやべさん。

 薬局王キング

 そして、お嬢ちゃん。


 途端、いま私が成そうとする行為が、酷く劣悪に感じられた。


 「ショウスケさん…?」


 薄目が開くと共に名を呼ばれ、私の意識はまた現実に戻される。


 恍惚と快感、そして一時の悦楽が、その先にはある。

 それは楽園。僅かに手を伸ばせば踏み込める領域。

 私はそれを知っている。

 だがその花園を目の前に、私は…、


「あ………も、もうこんな時間ですね! 良い子は寝る時間だっ! おやすみなさいっ!」


 身を翻し、逃げるようベッドに潜り込んだ。


「えっ……えっ!?」


 戸惑う彼女の声だけを、布団越しに聞きながら…。



 ※※※



 目が覚めると昼の12時を回っていた。

玉野たまのさんは、あからさまに機嫌を悪くしていた。

「お腹空きません?」と引け腰に私が尋ねると、彼女は黙って頷いた。


 ホテルを後にした私は、適当にネットで調べた近場の店へと彼女を案内した。ちなみにホテル代は私が全額支払った。「折半しましょう」などと言える雰囲気ではなかった。


 適当に調べた割に、その店のパスタは絶品だった。

 舌鼓を打つほどの料理に、彼女の機嫌も少しだけ治ったよう。


 というか、昨夜から何をしているのだ私は。

 あー、もう早く帰りたい。明日からまた仕事なのに、貴重な休日がどんどん潰されていく…。


「そういえば、ショウスケさんてー、どこ大の出身ですかー?」


ペペロンチーノを食べる彼女が尋ねた。


「Z大学ですけど」

「えー、すごーい。聞いたことあるー。そんな有名な大学の医学部出たなんてー、頭良いんですねー」

「いえ。僕は法学部ですよ」


瞬間、フォークを持つ彼女の手が止まった。


「あ……またまた〜。冗談お好きですねー」

「本当です。僕は医学部に行けるような頭は無かったので」

「え、でもあのパーティーには、お医者さんしか居ないって…」

「それは昨日も言った通り、父に言われて無理やり付き合わされただけです」

「じゃ、じゃあ本当に医者じゃないの?」

「はい。僕は医療事務です」


私はカルボナーラパスタを頬張った。

 直後、玉野たまのさんはドッと疲れたように勢いよく椅子にもたれ込む。


「なにそれ。めっちゃ時間の無駄なんですけど」


 ドスを効かせた声に、私は思わず顔を上げた。

 あからさまに怒りの様相。私は訳が分からず「すみません」と謝罪した。

 彼女は大きな溜息を吐いて皿にフォークを放り置き、鞄を取って立ち上がる。


 終いに「死ね!」と吐き捨て、そのまま店を後にした。


 状況が飲み込めない私は、代わりとばかりにカルボナーラと水を喉の奥へ流し込んだ。



 ※※※



 後日、パーティー主催の方に問い合わせて分かった。

 玉野たまのさんは医師の集まるパーティーに潜り込んでは、若いドクターに声をかけ、関係を持ち、あわよくば婚姻に至ろうという詐欺師のような人物らしい。


 彼女に限らず、医師の集まる所にはたまにそういう人間が居るらしい。


 もちろん名前は偽名。

名簿に記載の住所もクリニック名も出鱈目。おそらく看護師ですらないだろう。思い返せば、全く医療の話をしてこなかった。


 つまり私はホテル代も食事代も全額負わされた上、無駄に時間を浪費させられただけ、という結末。


 まったく……高い授業料だった…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る