第33話 04月25日

 「翔介しょうすけ。あのチケットはどうした?」

「えっ?」


月曜日の診療が終わり事務所へ戻ると、まだ帰宅していない父が唐突に尋ねた。普段ならとっくに帰っている時間なのだが。


「お嬢ちゃんに、あげたけど?」

「………そうか」


呟くような相槌で、父はジャケットを羽織り鞄を取った。私は妙な安堵感を覚えた、次の瞬間。


「間違ってもと二人で食事なんか行くなよ」


ドスを利かせた声が、弛緩する私を背中越しに刺した。

 

「な、なんで?」

以前まえのこと、もう忘れたのか?」


その一言に、私は言葉詰まらせ顔を曇らせた。


「……覚えてるよ」

「なら気を付けろ」

「……うん」


一度も振り返ることなく、父はそのまま事務所を後にした。

 玄関ドアが閉まる音を聞きながら、ひとり残された私は、少しだけ昔のことを思い出していた――



 ※※※



 私が〈つがみ小児科クリニック〉に入職して1年が過ぎた頃、当時21歳のを採用した。

 それは私にとって二度目の人事業務だったが、私は自分と同じ年頃の人を採用したくて躍起やっきになっていた。

 なにせ周りは年上の女性ばかり。それも母親のような年齢の方ばかり。正直、居心地が悪かった。

 未熟な私は年配の職員さんに対して、どのように仕事を教えて良いか分からなかったし、指揮命令を出すことも戸惑われた。

 そんな思いの中でようやくと採用した彼女。

 私は、少しでも長く働いてもらいたかった。

 彼女はとても活発で明るく、お喋りの好きな女性だった。おかげで夜シフトや土曜日の業務終わりには、二人きりの事務所で小一時間ほど雑談を楽しんでいた。

 仕事終わりに食事へ行くこともあった。もちろん、御飯だけで肉体関係などは一切なかった。どころか手を触れることさえも………当然のことだが。

 そうして何度目かの食事に行った、ある日。入った店で運悪く、私たちはウチの看護師じゅうぎょういんさんと鉢合わせした。

 狭い職場だ。あっという間に噂は広まり、私は距離を置かれた。

 反対に彼女への当たりは強くなった。中には彼女を無視する職員ヒトもいた。

 

 そして翌月、彼女は仕事ウチを辞めた。

 

 父には分かっていたのだ。そうなることを。小さな世界で行われる差別や贔屓ひいきを。

 それが理解できず激しく後悔していた私に、父は言った。


 『従業員はお前のことなど〈ドラ息子の事務長〉程度にしか考えてない。変な気を起こすな。私達は彼女らに働く場と給与を与え、患者により良い医療を提供する。それだけの関係だ。仕事に情など挟むな。医者でもない若造のお前のことなど、誰も好きにならない。もし従業員から好意的にされても、それはお前の気のせいだ』と…。


 以来、私が職員と食事に行くことは無くなった。


 恐らく彼女も私を単なる雇用主でしか思っていなかったのだろう。それが証拠に、退職後は連絡すら取れなくなった。

 すべては私の独り善がりな、下らない妄想に過ぎなかったのだ。

 若さ故の下心と、恋人が欲しいという焦り……その下らない感情が、最低の結果を招いたのだ。


 それを知りながら、私は一体何をしているのだ。


 同じ過ちを繰り返さないよう、気を付けていたのではないのか。

 適当な理由をつけてお嬢ちゃんの採用を見送っていたのも、自分の中にある余分な感情を排除するためではなかったのか。

 綾部あやべさんやお嬢ちゃんのように、若く美人な事務員さん達が思いのほか真面目で優秀だからと、浮かれていたのか?

 だからなんだと言うのだ。

 たとえどれほど、可愛くて、魅力的な女性であろうと。


 私は、彼女らを決して愛してはいけないのだ。

 

 ただウチで働いてくれることに感謝して、共にクリニックの運営を盛り立ててくれるだけの存在。それで良いんだ。

 考えてもみろ。今はあの時みたく、冷たい視線を浴びせられることも、無視や陰口も無い。


「……でも、鈴鹿すすかさんだけは優しかったな」


ポツリと、口から彼女の名前が零れ落ちた。

 当時、ほかの従業員さんから距離を置かれていた私に、鈴鹿すずかさんだけは普通に接してくれていた。彼女の存在が無ければ、私は今頃ここで働けてはいないだろう。


「また会いたいな……鈴鹿すずかさん…」


自嘲気味に呟いて、私は映画のチケットをそっと置いた。

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