第23話 04月05日~04月06日
「――と、いうわけで署名の方をお願いします」
「は、はい…」
診療時間中にも関わらず、唐突と来院された
「お願いしますね!」と仏頂面で吐き捨てると、オバサンは院を後にした。
A3サイズの封筒を開けば、中年男性の顔写真がデカデカと印刷された選挙ポスター。それと署名用紙の束。
「誰だよ、このオッちゃん…」
加筆修正がキッチリ施された胡散くさい中年男性の笑顔に、私は思わず眉間に
だがこのポスターの男性は
どうやら今度行われる市議会議員選挙で出馬されるらしく、後押しするため医師会が市内のクリニックに署名を促して回っているそうだ。
「それで、なにか問題でもあるのですか?」
休診時間。午後出勤の
「そりゃあ名前だけならナンボでも書くけどさ、この署名、住所や電話番号も書かないとダメなんだよ」
「それはまた」
「選挙の時に利用するつもりなのか知らないけど、どこの誰とも知らないオッサンのために個人情報を晒したくないよね」
「一理ありますね」
「なんだけど…」
言いながら私は署名用紙の一枚を
「なんですか」
「ご署名お願いします」
「……私も書くのですか?」
表情には出さないが、
「
「署名することで、私に何かメリットでもあるのですか?」
「あー……当選した時に、この人からハガキが送られてくるらしいよ」
私はポスターの男性を指差した。取り繕った笑顔で以て。
「………年賀状とかも」
「要りません」
「………僕もそう思う」
冷たい
「仕方ありませんね」
溜息混じりにそう言うと、
「え? で、でも…」
「ハガキが届く程度なら些末な問題です。ポストを開けた瞬間に捨てれば良いのですから」
「ほとんど迷惑チラシ扱いだね」
などと笑っていられたのも最初のうちだけ。
他の事務員さんや看護師さんにも署名をお願いしたが、皆「住所や電話番号を書くのは嫌だ」と署名を拒否した。
お嬢ちゃんも例外ではない。やんわりと、申し訳なさそうに断られた。
むしろ彼女の方がそういった個人情報の管理には敏感かもしれない。なにせ転職時にさえ携帯電話でなく固定電話の番号を記載していたのだから。
父にも相談したが「事務長はお前だ。お前がなんとかしろ」とナシの
「……『なんとかしろ』って言われても、それが出来れば苦労しないっちゅーねん」
翌日。午前診終わりに残りの従業員さんらにもお伺いを立ててみたが、やはり
困り果てた私は受付に座り頭を抱えた。
署名しないわけにもいかないし、かといって皆に無理強いもさせたくない。
「じ、事務長…」
悩みあぐねる私に、ふとお嬢ちゃんが声を掛けた。恥ずかしそうに顔を伏せて、もじもじと手遊びしながら。
「あの、わたし、それ書きます…」
そういって頬赤く眉尻下げながら、お嬢ちゃんは私の手元にある署名用紙を指差した。
「え? でも、昨日はイヤだって…」
「だ、だけど事務長、困ってるみたいだから……わたしに出来ることがあればと思って…」
「お嬢ちゃん…!」
私は自分の胸と目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとう。でも、その気持ちだけで十分だよ。イヤなのに
「でも…」
「大丈夫。なんとかするからさ」
私は出来るだけの笑顔を繕った。彼女にこれ以上、心配をかけないために。
だがそれを察したように、お嬢ちゃんは「ごめんなさい」と申し訳なさそうに頭を下げて退勤した。
涙が出そうになった。
他の職員さんらはイヤそうな顔を浮するだけというのに、なんと優しい子だろう。
「あんな気の利く優しい子が嫁さんだったら、幸せだろうな…」
そしたら住所や電話番号も一緒になって――
「――あっ」
※※※
後日、再びあのオバサンが署名を取りに来た時、私は従業員全員分の氏名に住所、電話番号を記載して返した。
皆には自分の氏名欄の隣に当院の住所と電話番号を記載してもらい、先に書いていた
当院で働いてくれている
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