第12話 03月18日【1】

 「今日ですね。彼女の初出勤」

「うん……って言っても今日は体験入社オリエンテーションだけどね」


午後の休診時間。早めに休憩を終えた綾部あやべさんと私は、受付での到着を待っていた。

 実を言うと私はこの数日、不安から満足に眠れていない。

 今もドキドキと昂る心臓が騒がしくて仕方がない。

 落ち着かない気持ちを誤魔化すように、さっきから何度も時計を見てしまう。ようやくと13時50分だ。


「もうすぐか…」


ポツリと呟いた、その時。


「こんにちは…」


自動ドアが開かれると共に、声が聞こえた。

 そこにはリクルートスーツに身を包んだが……小篠こしのさんが居る。

 新入社員のような、背伸びした初々しさが愛らしい。

 緊張からか、不安そうに頬を赤らめる彼女に、私は「こんにちは」と精一杯の笑顔を添えて応えた。


「この度は入社のご承諾を、ありがとうございます」

「あ、いえ、そんな………こちらこそ、ありがとうございます。よろしくお願いします」

「では、早速ですが二階の事務所へお願いします」

「はい」


彼女と共にクリニックを出た私は、同じマンションの2階へと向かった。今更だが、当院はマンションの1階テナントに構えている。

 暗証番号を入力して他の住人と同様にエントランスから入り、階段を上がってすぐ目の前にある部屋が事務所だ。

 事務所と言っても、中は2LDKの一般的なフローリング・マンションなのだが。

 リビングは休憩室。広い方の洋室は職員の更衣室兼ロッカースペースで、残る1部屋は父と私の執務室(院長室)となっている。


――コンコンッ!


「はい」


執務室のドアをノックすると、ぶっきらぼうな声が中から返された。


「父さ………院長、先日話した新人の事務員さんが来られました」

「そうか」


淡白な声の直後にドアを開けると、水色の診察衣姿のままパソコンと睨めっこする父が居た。


「こちら、今度入社される小篠こしのさん」

「は、はじめまして。小篠こしのと申します…」


彼女の挨拶をもって、ようやくと父は振り向いた。


「はじめまして。当院の院長をしてる津上つがみです。以前は耳鼻科さんでお勤めだったんですね?」

「は、はい!」


返す刀で問う父に、緊張した様子で彼女は答えた。

 父は、こういう人間だ。相手が新人だろうと誰だろうと、威圧するような態度で接する。


「大変でしたか?」

「は………はい、とても大変でした……でも、おかげで沢山のことを学べました」


一瞬間だけ、静寂が生じた。私の胸には一抹の不安がぎる。


「そうですか。ウチでも頑張ってください」


小さく会釈をすると、父はまたパソコンに向かい合った。

 安堵に胸を撫で下ろした私は、そのまま静かにドアを閉めた。


「ゴメンね、愛想の無い父で」

「いえ、そんな」

「ビックリしたでしょ」

「少しだけ…」


彼女は人差し指と親指で「ちょびっと」を表現した。照れ臭そうに笑うその顔が、私の体内に泡立つ電流を走らせる。


「そ……それじゃあ、今日はオリエンテーションということで、体験的に業務を説明しますね」

「はい。お願いします」

「ところで、身長はいくつですか?」

「えっ…? えっと……169センチです…」

169㎝か。てっきり170㎝は超えているかと思った。

「じゃあ、制服はLサイズで良いですか?」

「あ……はいっ」


チェストの中からクリーニング済の制服を1着だけ取り出すと、彼女に手渡した。

 当院では事務員の制服に、紺色を基調としたチュニックジャケットを採用している。


「では、先ほど説明した更衣室で着替えてきてください。ロッカーには名前を付けています」

「はい。分かりました」


制服と荷物を持ち、彼女は更衣室へ入った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る