第10話 03月14日【1】

 採用を伝えた薬局経験者の女性が、直前になって辞退を申し出た。

 求人掲載は終了し、履歴書もとっくに返送している。

 絶望感に打ちひしがれる私は、院の受付で人目もはばからず頭を抱え項垂うなだれた。患者様の居ない時間帯で良かった。


「――務長……事務長!」


目に見えて落ち込む私を、綾部あやべさんの声が呼び起こした。

 うつろな眼を向ける私に反して、彼女は呆れているような、溜め息を吐かずにいられない表情で。


「……なに?」

「……こちらを」


無表情のまま綾部あやべさんが差し出したのは、A4サイズの封筒一枚。


「……えっ!?」


おもて面に書かれている名前を見た私は、驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた。

 それはの……一度採用を見送った、あの新卒女性の履歴書だった。


「すみません。その一枚だけ、送るのを忘れていました」


敢えてクールに振舞う彼女の背に、私は後光を見た。


「あ、綾部あやべさん…!!」


 驚きと歓喜に立ち上がった私は、咄嗟に綾部あやべさんを抱きしめかけた。が、流石にそれは理性に阻まれたので、代わりに彼女の手を握った。


「ありがとう! ありがとう綾部あやべさん! 本当にありがとう!」

「や……よ、よしてください、事務長。セクハラですよ」

「ああ、ごめん」


私が手を離すと、綾部あやべさんは守るように自分の手を身へ寄せた。視線を逸らし顔も赤く染め上げ、無言に怒りを表して。

 普段の私なら平謝りしていたが、安堵と喜びに一杯で今はそれどころでなかった。

 きっと綾部あやべさんは、こうなる未来も予測していたのだろう。もしも私があのまま投函していたら……絶望のまま鈴鹿すずかさんの退職日を迎える所だった。

 もしかすると綾部あやべさんは、採用を辞退したあの女性に、なにか不安を感じていたのかもしれない。だからワザと、この履歴書だけ返送しなかったんだ。

 おかげで、首の皮一枚繋がった。


「早速、電話してみるよ!」

「それが宜しいかと。それから、もう一度彼女に月一回でも土曜日の勤務が可能か、伺ってみては如何でしょう」

「うん! そうする!」


まだ頬に赤み残る綾部あやべさんに見送られ、私は揚々と事務所へ向かった。

 執務室に父は居なかった。昼食でも買いに行ったのだろう。

 私はすぐさま履歴書を取り出し、彼女に電話をかけた。 


『――はい、小篠こしのです』


受話と共に可愛らしい女性の声が返された。面接に来てくださった、の声だ。

 履歴書記載の番号は自宅の固定電話だったから、不在ではないかと心配していた。


 「お忙しい所恐れ入ります。こちら〈つがみ小児科クリニック〉の採用担当でございます。先日は当院へ面接にお越しくださり、ありがとうございました」

『あ……は、はいっ。こんにちは………あ、こちらこそ、ありがとうございました』

「今、お時間少々宜しいですか?」

『はいっ。大丈夫です』

「ありがとうございます」


私は軽く呼吸を整え、「んんっ」と小さく喉を鳴らした。


「面接の結果、小篠こしの様と一緒に御仕事させて頂きたく思い、御連絡いたしました」


 平静を装ってはいるが、内心ドキドキだった。

 心臓の音が煩すぎて、受話器からの声が聞こえにくい。

 履歴書を持つ手も小刻みに震える。


如何いかがでしょうか?」


 返事を待つ数秒が、イヤに長く感じた。

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