午後5時に、駅前で

月出 四季

待ってたよ

「行くよ」



愛する主人は大学教授。だからいつも朝早く家から出る。そんな主人を大学まで

送るのが日課だった。東京大学の教授っていう、すごく賢い人。

自分は特別に大学に入ることを許されてたから、愛する主人といつも一緒。でも

たまに、主人は出張があった。その時は午後5時に渋谷駅前で待つ。主人が出張から

帰ってきたら焼き鳥屋に行って、一緒に焼き鳥をよく食べた。




「どうしたんだい?」




ある日。何か、嫌な予感がした。いつも通りの出張日。彼が、このまま何処か遠くへ

行ってしまうような……。そんな感じがして、彼を必死に止めた。けれど彼は笑って

行ってしまった。



――その日から、彼は帰ってくることがなかった。



どうして?なんで。家にいる娘や親戚は悲しそうで、誰も何があったか教えてくれ

ない。あぁ、出張が長引いてるんだ。だから皆悲しいんだ。長引いてるなら、いつ

帰ってくるかわからない。それなら毎日午後5時に、駅前で彼が帰ってくるのを

待とう。




――帰ってこない。いつまでも。




もう何日たった?一週間?一か月?一年?わからない。それでも駅前で待つ。家へ

帰った瞬間にもし彼が帰ってきていたら、いつも駅前で待っていたのにどうしたの

だろうと、きっと心配をかけてしまうから。5時を過ぎてしばらく待って、それでも

帰ってこなかったら家へ帰る。そんな日々を繰り返していた。


ふと駅員さんが心配して来てくれた。事情を知っているようで、悲しそうな顔を

しながら駅で寝泊まりするのを許してくれた。嬉しい、これならいつでも彼が帰って

くるのを待つことが出来る!


だけど、食べ物がない。帰ってくるのを待つ前に、飢え死にしてしまう。いつもの

焼き鳥屋の店主さんが、ご飯をくれた。主人が帰ってくるのを待っているだけなのに

皆、悲しそうな顔をしていた。やっぱり帰ってこないのが寂しいんだと思う。主人は

皆の人気者だから。でも、そんな皆の心遣いが嬉しかった。



春、夏、秋。とうとう雪が降って来た。冬だ。彼は全然帰ってこない。皆、待ってる

のに。こうして寝泊まりさせてもらって、ご飯をくれる皆に申し訳なかった。彼が

帰ってきたら遅いと怒ろう。皆に迷惑をかけてしまったから、きっちり怒ってやる。

でも、そんな気持ちはすぐに消えた。一向に帰ってこない彼が心配だったからだ。




『よし、走ろう!俺に着いてこれるか?』

『ほら、新聞だ。今日は何が書いてあるんだろうな?』




彼との思い出が頭に浮かぶ。川辺で一緒に走った記憶、キャッチボールをした記憶。

一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、寝る。たまに朝持ってくる新聞が大好きで、

よく彼と取り合いをした。雪が頭に山を作る。もう、夜だ。帰ってこない。全然、

帰ってこない。もう、駅前には誰もいない。皆帰っちゃった。


ねぇ、何で帰ってこないの?そんなに出張が長いの?皆待ってるんだよ?駅前で座り

ながら、そう思う。駅員さんが寒いだろうと中に入れてくれた。そこからいつも彼が

下りてくる駅の階段が見えた。そこをジッと見つめる。いつもならあそこで、笑顔で

かけ降りてくるのに。ねぇ、お願い。はやく帰ってきてよ……。



いつもどおり駅前で待っていたら、野犬に襲われた。必死に抵抗して逃げたけど、

左耳が重い。どうなってるんだろう。あまり、想像したくない。



彼が帰ってこないまま、9年が経ったらしい。駅員さんが教えてくれた。

カレンダーをもうずっと見ていなかったから、驚いた。そういえば駅前に、犬の

銅像が建てられていた。彼も駅前をじっと見ている。どうしたのだろう、彼も誰かを

待っているのだろうか?



体が、重い。心臓が、肺が、胃が、痛い。悲鳴を、あげている。息切れを起こし

ながら、いつのまにか、駅の後ろまで来ていた。痛さで気が付かなかった。ダメ、

戻らなくちゃ。駅前に、はやく。じゃないと彼が、帰ってきちゃう。


震える足で、どうにか駅前に戻ろうと歩く。捨てられたカレンダーが目に入った。

そういえば今日は、3月8日、春の季節だ。まだ寒いけど、もうすぐ、暖かくなる。


彼も帰ってきたら、お花見をしよう。夏になったら一緒にお祭りに行って、焼き鳥を

食べよう。店主と一緒に彼をいじって食べたら美味しそうだな。彼の困って謝る顔が

浮かんだ。秋になったら山に行って、紅葉狩りをしよう。もしかしたら栗が

落ちてて、キノコが生えてるかも。あ、でも、秋の11月10日は、誕生日を祝って

もらわないと。9年分、まとめて祝ってもらうからね。冬になったら積もった雪で

家の庭に雪だるまを作ろう。童心にかえって遊ぶのは、たまには良いよね?

それでまた春になったら、今度は―……


ドサッと、力が抜けた体は地面に落ちる。もうすぐで駅前なのに。まだ自分は駅の

後ろにいる。彼が帰ってきてしまう。はやく、はやく、戻らないといけないのに、

体が言うことを聞かない。寝転んだ形になってしまい、右手をどうにか動かし、這う

ように動く。周りに誰もいなくて良かった。きっと笑われてしまうから。

でも、あれ、なんだか、眠く………―――――

































意識が浮上する。眠ってしまったみたいだ。でも、あれ、体が軽い。痛くない。

ここは、駅前…?あぁそっか、頑張って来れたんだ、良かった。雪がまだ降ってて

寒いけど、待つ。



どれくらい待っただろうか。もうすぐ、午後5時になる。不思議なことに、今日は

誰も来なかった。駅が閉まっているのだろうか?だったら今日、彼は帰ってくる

ことが出来ない。…ううん、足音が聞こえる。誰かいる。


誰かが、階段を駆け下りる音……まさか。まさかまさかまさか、まさか!



カツン、カツン、カツン、カツン、――――カツン。



……!彼だ。彼が、帰って来た!!愛する主人が、帰って来た!!嬉しくて、思わず

彼の胸に飛び込んでしまう。彼は少しフラつき、「おおっと、」と呻いた。でも、

そんなことは気にしない。どれだけ待ったか!嬉しい、嬉しい!!やっと会えた、

久しぶりに会えた!!はやる気持ちがおさまらない。ねね、はやく家に帰ろう?

きっと皆、喜んでくれる。あぁでもその前に、怒られるかもね。こんなに長い

出張なんて、聞いていないから。


でもね、、忘れなかったよ。キミが帰ってくること、ずっと信じてた。

だから、忘れなかった。キミとの思い出も全部、全部、覚えてた。あぁ、言いたい

ことがいっぱいあって、どれから言えばいいかわからない。でも、今は、この喜びを

実感したい。だから、キミに今一番伝えたいことを言おう。






――――――――ワンッ!おかえり!






























――――――――「ただいま、ハチ。」

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午後5時に、駅前で 月出 四季 @autumnandfall

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