四日目(2)
ついでに、ここで、マーメの話を少ししましょうか。
ゲクーやピゴ、エンオーと異なり、マーメはその経歴がよくわかっていません。ドウトージュ語を母語とするドッウ人の高齢の女性であることは確かなようです(ドッウ人は左手の大陸の指先に住んでいる黒い肌、黒髪の人種。)。マーメの本名すら不明です。マーメは恐らく通り名であり、ドウトージュ語で「どす黒」という意味です(心理的な暗さ、黒さを意味するネガティブな言葉である。)。彼女は、契約の書類などでは、「魔女の森のマーメ」という通り名を好んで使用しています。ちなみに、彼女が世話になっていたパウハム王国では、黒曜石でできたお守りを身に着ける習慣があり、このお守りのことをマウメィと言います(神に捧げた黒曜石をマウメィと呼び、これを袋に包んでお守りにする習慣がある。)。偶然なのか、意図してのことなのかはもはやわかりませんが。
マーメの魔法は、体に身に着けた装飾品、その多くが宝石ですが、これを撫でることで発動します。この発動方法は、膨れ指の先端に暮らすドッウ人で見られるものです。マーメの風貌は、小さな体を白くて粗末なフード付きローブに身をまとい、種々の宝石玉を取り付けた長いネックレスをだらりとへそまでぶら下げていました。十の指にはそれぞれ二つずつ指輪をはめ、両腕には蛇を模した金の腕輪をはめていたと言われています。また、帆船用の、ボロボロの黒いロープを腰に巻き、内側に厚く布を張った木靴を履いていたそうです。年老いても頑丈な白く硬い歯を持ち、刺々したひっかくような声で喋ったそうです。
ゲクーがどこでマーメと知り合ったのかは不明です。『ゲクー旅団記』には、パウハム王国の名前は出てきますが、マーメの名前は出てきません。マーメは人間嫌いであると言われています。自分が認めた数人の者としか会おうとせず、魔法研究と孤独を愛したと言われています。そのような人物を、遠く離れた戦争に引っ張りこんだゲクーの敏腕さが際立ちます。ゲクーが勇者と呼ばれる所以は、その剣の腕でもなければ魔法の才覚でもなく、ましてや強い正義感だとか使命感では一切なく、才能のある人物をたらしこみ、恩を着せるその魅力にあるのだと思います。
ゲクーがどうしてこの戦争に首を突っ込んだのかについても説明しておきましょう。別に人類を悪い魔王の侵略の手から救うためではないのです。まったくそんなことはないのです。ゲクーは、ミュカトーニャで海上貿易を行う権利を得るため、ピゴと協力したのです。これについては、少なくとも15枝世末まではミュカトーニャに契約書類が残っていました。つまり、ゲクーは、貿易権獲得のために、嫌われ者のピゴをパトロンとし、あえてピゴのやりたいことに左袒し、自分の生命を魔王軍の撃滅という実現しそうもない結果に賭けたのです。ゲクーは、戦場においてピゴの身辺警備を行い、魔王を石化させる際のフォローを行うことになっていました。普通に考えれば、この作戦はそもそもが無茶であり、成功の見込みはないように見えました。ゲクーは、そんな作戦にあえて首を突っ込み、成功報酬を確約させたということです。凄いですよね。ゲクーのこの必死さから、ゲクーは、あるいはゲクー商会は、このころ、金欠に苦しんでおり、ゲクーの精神状態はまともでなかったと考えるものもいたくらいです。ゲクーが金欠だったのは事実ですが、本人はそれを気にしていなかったでしょうし、商会自体の景気は悪くはありませんでしたので、現在ではこの説は否定されております。ゲクー商会が困窮していたという事実はないとはっきり断言できます。オビアが商会の樫の木の棚に残した大量の商会関係文書は、保存状態がよく、散逸も少ないと思われるため、当時のゲクー商会の懐事情は詳細にわかっているのです。オビアのこの几帳面さが、『ゲクー旅団記』を後世に残したのです。戦争や火事や自然劣化を生き残った『ゲクー商会文書』は、ディス・オムトアトの州立図書館が保存しており、その一部は今でもガラス越しに現物を見ることができます。同じ町には、ゲクー商会の本部の建物も再現されています。
『ゲクー旅団記』の話もしておきましょう。ゲクー亡き後のゲクー商会は、その事業を拡大し、オビアの子孫が主要なポストを独占していました。その子孫の一人、ミジメウ・ホスコーは、15枝世の中盤を生きた人ですが、当時流行していた活版印刷術による書籍販売に興味を持ちます。ホスコーは、書籍にできそうなコンテンツを探します。オビアおじいさんの残した商会文書の中には、大量の味気ない帳簿類に混ざって、ゲクーの旅の報告書が大量にかつ几帳面に編綴されていました。それは14枝世の綴り、句読点、字体、レイアウトで書かれていました。日付――報告書が到着した日付――も、おそらくオビアによって書き加えられていたでしょう。ホスコーは、自力でか、誰かの助力を得てか、これを読み、面白いと感じたため、出版しようと考えました。ホスコーは有能な怠け者でした。出版するにあたり、編綴された当初の状態のまま、ページや文章、字句の入れ替え、削除、追加をほとんど行わなかった、行わせなかったと言われています。14枝世中盤の言葉を15枝世中盤の言葉に翻訳し、本そのもののタイトル、各章のタイトル、頁数は追加されていますがね。これが、「商人ゲクーの、愉快な仲間との旅の記録」、後の『ゲクー旅団記』です。『ゲクー旅団記』に、特に初版と初版を基にした版に、ゲクーの悪行がそのまま掲載されているのはそのためです。『ゲクー旅団記』は販売直後から好評を得、版を重ね、海賊版も多く作られました。16枝世の初期には、既に八つの言語に――海賊版としてですが――翻訳されていました。15枝世のころの、この本の影響については、グオース・イー・マジチェーション先生の『出版の黎明期』が参考になります。版元のゲクー商会は、『ゲクー旅団記』が版を重ねるにつれ、その本からゲクーの悪行部分を削りました。そのほかにも、誤字脱字、明らかな事実誤認が訂正されました。正しい内容も間違った内容に訂正されています。その後、色々ありまして、現在、皆さんが目にしていると思われる『ゲクー旅団記』は、初版を元として、誤字脱字等を訂正し、解説等を付したものとなっています。そのはずです。
『ゲクー旅団記』の冒険譚、魔族と人が共に馬車で旅をするその自由な雰囲気は、人にも魔族にも大きな、おそらくは前向きな影響を与えました。アビナ教は旅を肯定しますので(定住は安定的なので肯定しない。なお、『天秤の書』には、旅を肯定する記述も定住を否定する記述もない。)、ゲクーのこの生き方は、アビナ教的にも評価され、理想化すらされたのです。熱心なアビナ教徒ではなかったであろうゲクーでしたが、時代が進むにつれて、アビナ教の敬虔な信者、教義を体現する聖人のような扱いを受けるようになります。これは、時代が進むにつれて、彼が勇者の名を冠するようになることと同じです。彼は自分の人生の大半を商人として生きています。彼は山賊だったことはありましたが、決して聖人でもなければ勇者でもなかったのです。そのように周囲の人間から呼ばれたことはなかったのです。背後から勇者様と声をかけてもゲクーは振り返ってはくれないですし、彼に旅の加護を求めても、「こっちが欲しいくらいだ」と言われることでしょう。
ゲクー旅団の研究書は多く出版されており、その中には名著も多数あります。ユイ・ナーンシィー・ダダン先生の『ゲクー旅団とカイシェ猟団』は、中世世界を多人数で旅する人々の性質を取りまとめた名著であり、後世への文化的な影響についてもページを多く割いています(カイシェ猟団は、14枝世のゲクーと同じ時代の人々で、ある目的のため、ある魔物を探して旅をしていた。)。ダダン先生には、ほかにも『共同体としての中世馬車生活』という本もあります。こっちの方が上級者向けですね。この本は、中世の商団や旅団、猟団、旗団(親族で旅をする人々のこと)、遊団(組織的な難民のこと)、教団(布教を目的として旅をする人々のこと)等を分析し、これらの集団の性格がどのようなものかについて述べています。これらの幾つかは、中間団体のうちの職能団体として解釈されています。異邦の地の、旅路の上の、馬車での集団生活については、かつて、共同体組織的か機能体組織的かで学会で論争が起こりまして、これはその論争の火種になった本の一冊です。
人魔大戦の話をしましょう。樹暦1388年の春、ウォスカントークの戦いの後、幾つかの小競り合いを続けながら、魔王軍は難民キャンプであったタンフーへ向かってゆっくりと進軍します。目的地はミュカトーニャの首都、ダイザムハーム。タンフーでは、おそらくは以前と変わらず、約五千人の難民が土地を占拠し続けていました。タンフーに対しては、ピゴの強いリーダーシップにより、数年前から、人、物資、金の支援が行われていました。ピゴが土地を開放してから八年が経過しています。粗末な家が急ごしらえで建てられ、井戸と灌漑と柵が整えられ、畑の畝が伸び、ダイザムハームの幟が掲げられました。牛や豚、馬も飼われていたことでしょう。ダイザムハームとの間には道が敷かれつつあり、街道に植えられたユリノキは――薪にされなかったものは――大きく成長し、物資を輸送する人馬の日陰となっていたでしょう。タンフーには、町のようなものができつつありましたが、その形は簡単に崩れてしまいそうでもありました。タンフーが、あるいはその近辺が戦場になることは明らかでした。ミュカトーニャとしては、首都が戦火に包まれるより、紙のようなタンフーが一瞬でも燃えて時間を稼いでくれた方がまだましだと思っていたでしょう。タンフーには、戦争のための城壁、掘り、砦の建設は間に合っていませんでしたが、兵士の宿舎や武器庫、食料保管庫の類は簡易なものが設けられていました。ピゴは足しげくこの土地に出向きました。故郷を喪失し、困窮の極みに達し、不安な日々を送っていた難民を教皇として激励しています。たとえば、樹暦1388年3月33日、教皇は、前日にタンフーへと到着し、昇りつつあった朝日の中、立ち上がる気力もなく地面にしゃがみ込む難民を前にして、このような演説を行っています。この演説でタンフーの民が一念発起したかはわかりません。
心当たりはないだろうが、
神の配剤により君たちは盾となった。
困窮に瀕し、我が身を守ることさえ心許ない君たちが、
首都の肥え太ったユイフム(口はあるが耳はない妖怪)どもを守る盾となったのだ。
神が求める均衡が何であり、どこにあるのかはわからないが、
魔王の進撃は、知っているだろう、極端であり不均衡である。
天秤の神がこの不均衡をいつまでも是正しないわけはなく、
魔族へと傾き続ける天秤を元に戻すため、
人間の皿に与えられたのが君たちなのだ。
君たちは神のいと尊き指先により地上に与えられた黄金の分銅、紅玉の分銅である。
君たちが守るのは首都の豚どもではなく、神の計らいである。
君たちの命は不死の魔王のそれよりも重く、
それゆえに人と魔族の天秤を均衡へと揺り戻すのだ。
神が君たちを必要としていることを忘れてはならない。
ピゴは難民を盾と称しましたが、ミュカトーニャは、自身こそが人間世界の壁であり、ミュカトーニャの死は人間世界の死であると近隣諸国に訴えかけていました。かつてニキソウムが蒔いた不安の種は、大きく成長し、魔族指の人間世界を覆いつくしていたのです。人間世界という言葉が出てきましたね。この言葉を外交上で使用し始めたのは誰かわかりません。人魔大戦以前にも無くは無かった言葉なのですが、この戦争において、強い意味が込められるようになりました。この講演の中で、私は、センタセは魔物だけの国ではないし、ミュカトーニャを含めた人間の国々も、人間だけの国ではないと言ってきました。哲学は二項対立の陥穽を繰り返し警告し、アビナ教は二項対立を強く志向しながらもそこから逸脱する現象への感受性を持ち続けました。しかし、このときばかりは、哲学の警告もアビナ教の感受性も濁ってしまったようです。そして、その濁りは長い間、ダーニー・ブナウン(コメディアンの名前)の傷だらけの眼鏡のように、人々の視界を霞ませ続けるのです。
人間世界の国々は、それぞれ思惑はあったでしょうか、ミュカトーニャの皿、人間の側の皿へ自軍を乗せることに躊躇いを見せませんでした。ディノーデ王国、ワスタージ諸邦、ヤシー王国、大マグスエン国は、それぞれが数千の兵を派遣しています。正確な数はわかっていませんが、これらの国は、抜け駆けすることなく、自分の役割を果たそうと努めていました。少なくとも、魔王の脅威が迫っている間は、ですが。
ザン・ハブムホイン王国は、この中ではもっとも大きく、国力のある国でしたが、ミュカトーニャへの兵の派遣には消極的でした。この国の宮廷は他国への侵略と海洋の踏破に忙しく、魔王の接近を脅威とは見なしていませんでした。そんな中、国の中枢に反して兵を派遣したのがエンオーです。自分の子飼いの兵、恐らくは二百程度を引き連れてミュカトーニャへと参上しました。贔屓目に見ても、この兵数は、人間世界の大国としての役割を果たしてはいませんでした。しかし、意外かもしれませんが、ダイザムハームの市民はこの寡兵を歓迎します。ザン・ハブムホイン王国のカーシシャニーと言えば、魔物退治のスペシャリストでした。その名は、血液のように魔族指に知れ渡っていたのです。ザン・ハブムホイン王国の軍旗を掲げ、老いた戦士が赤いベルベットのマント、杖を咥えた獅子のメダル、蔦の意匠が映える灰色の兜、銀色に輝く鎧に身をまとって評議会に姿を見せた時、見物人は割れんばかりの大喝采をあげ、大気は震え、すぐ近くにあった鐘楼が勝手にその音を高らかに鳴らしたと言い伝えられています。エンオーのこの独断専行は、理由がはっきりしていません。ピゴと個人的な付き合いがあったとか、クァジベッキ紫衣王子から、密かに派遣指示が出されていたとか、子飼いの兵士の暴走を止められなかったとか、色々な説が出ています。私としては、魔物退治にその人ありと言われていたエンオーが、魔物の大軍を前にして何もしないというのは世間的にもよくないため、あえて軍を派遣したのだろうと思います。
魔王軍の兵力は六万人(凶)。一方、ミュカトーニャが集めた人間の連合軍は、四万五千人(凶)程度と言われています。カタスネのウォスカントークでの大敗があり、ドノワッへ差し向けた七千の兵があるのを考えると、この兵力を動員したのは大したものだと思います。兵站は、ミュカトーニャ及びワスタージが受け持ちました。当時の史料を読んでみますと、連合諸国の中で、ワスタージ諸邦こそが最も魔王軍を忌避し、脅威に感じていたことがわかります。魔王軍に全力で対処するため、隣接する諸国に対して、随分と自国に不利な同盟を結んでいます。ミュカトーニャの恫喝に乗らず、兵を派遣しなかったドノエシャフ公国に対しては、貴族の幼い公女が人質として預けられています。ドノエシャフ公国は、魔王軍が撤退した後、手薄になっていたヤシー王国に攻め込んでいます。攻め込んで、ヤシー王国とミュカトーニャの連合軍に撃退されています。そのくせ、つい最近まで、自国(現在はスファム共和国。なお、この話は軍事政権下のころの出来事である。)の歴史の教科書には、ミュカトーニャと連携し、魔王軍の撃退に協力したと、いけしゃあしゃあと書いておりまして、ちょっとした国際問題になったこともあります。
ゲクーとピゴは、樹暦1388年の4月には既にタンフーに常駐していました。タンフーは、五千人(凶)というちょっとした町ほどの人口を抱え、大した施設も設備も無い状態で、さらに数万の兵士を迎えなければなりませんでした。難民は兵士たちを歓迎し、可能な限り、戦争に協力しようと努めていましたが、できることは余りありませんでした。資材となるような周囲の木々は切りつくされ、食料とともに遠方から薪が運ばれていました。ミュカトーニャ中の馬と馬車が動員され、糧秣の管理も深刻な状態となっていました。カンアージー砦周辺には、まだ森林が残っていましたが、魔王軍の支配下に置かれて手が出せないようでした。ザタフォーは、事前に近隣の諸都市から糧秣を大量に購入しております。こういうところは有能なのです。それでも、とてもではないですが、長期的な戦争ができないことは明らかでした。
同じことは魔王軍にも言えました。海上を中心に兵站のルートは攻撃され続け、前線の行軍は予定よりもずっと遅れていました。こういう場合は略奪も視野に入れて進軍するものですが、タンフーには奪うものがありませんでした。魔王軍の大軍は、カンアージー砦で約四か月間も足止めされました。速やかに豊かなダイザムハームを攻撃し、ミュカトーニャの実効支配圏を傘下に収める必要がありました。フォモボイの追い詰められたような声を思い出します。「今日も後方からの物資は遅延しております。将軍方。これは我々の部署の無能さを意味するのではありません。もちろん、もちろんですよ、皆様の無能を意味するわけでもないのです。皆様の佩いている剣が錆びているなどと、どうして私が言えるでしょうか。いえ、いえ、いえ、フーアプフはよくやってくれています。我が国の誇りです。祖父母に感謝せねばなりません。反乱があったなど嘘のようです。敵が姑息なのです。それだけです。戦争においては称賛に値するのでしょうが、我らセンタセの民は、姑息ということの意味すら理解しておらず、また、したくもないわけです。我々には不死の魔王様がいらっしゃるわけでして、そのお膝元で、ええ、ええ、姑息さなどが我らの心性に根ざすことなどないのです。澄み切った泉に濃緑藻が生じないように、です。そうでしょう。」(アスタボス氏はここでフォモボイの物真似をしているようであるが、似ているかはわからない。)
樹暦1388年の5月上旬(この世界のカレンダーは下から数えて上に行くほど数字が大きくなるため、原文に忠実に訳すとここは「下旬」となる。)には、エンオーもマーメもタンフーにいたと思われます。魔王軍と人間の連合軍がタンフーから指先へ約1.2キロメートルの地点で接敵した日は、諸説あります。ハウウズベヒの図書館の司書であった難民が、色々と、詳細な記録を残しています。これによると5月11日となっています。ところが、他の史料から推定した日付としては、17日、18日、19日、20日、22日という説があります。歴史の史料を紐解くと、こういうことはよくあります。当時も日付は大事でしたが、今日ほどはっきりと、市井の人々の中に、ましてや食うや食わずの難民の中に、その重要性に応じた正確性が意識されていたかというと、そんなことはないのです。
ハウウズベヒの司書の名前はオイメン・カッシャと言います。赤髪のカッシャという意味ですかね。おそらく男性でしょうから彼と言いますが、彼の残した記録は『難民カッシャの日記』という名で出版されています。オリジナルは、おそらくハウウズベヒの図書館から持ち出した紙か羊皮紙にでも書かれていたのでしょうが、これは既に消失しており、数点の複製、あるいは複製の複製、その断片が残っています。この本の信憑性については慎重に議論すべきです。しかし、私は、その存在しないオリジナルは、間違いなくあのときのあの場所、人魔大戦時のタンフーにいた者が書いたのだと確信しています。同年代を生きていたことが複製からでもわかるのです。
魔王軍は、タンフーにピゴがいることを把握していました。つまりそれは、タンフー近郊の戦場において、例の作戦が決行されることを意味していました。魔王軍の陣中には確かに魔王が、つまり私がおりました。ミュカトーニャの作戦は、私が戦場から退けば確実に実現しないものでした。今までもそうしていたとおり、センタセの有能な将軍たちに任せて、魔王はカウエナに引きこもることもできたのです。それをしなかったのには理由があります。タンフーの難民を彼らの故郷に返したかったのです。そのため、魔王自らが難民に身の安全を約束し、帰郷を訴えようとしていたのです。また、私がいた方が、魔物の割合の多くなった軍の士気が上がったという理由もあります。それに、ダイザムハームのアビナ教会の総本山に出向き、戦後処理をスムーズにしようという思惑もありました。私を石にするという作戦は、荒唐無稽すぎたため、これらの理由を反故にして、魔王の避難を優先すべきもののようには写りませんでした。誰の目にも、です。
さて、5月中旬。タンフー近郊で、ついに、魔王軍と人間の連合軍が相対します。天候は雨。小雨。数日前から降り続いていました。曇天の下には、軍隊を隠すような森もほとんどなく、池沼が点在し、タンフーの後方にアイベヌ川が蛇行しているくらいで、あとは緩やかな緑の丘陵が隆起して広がっていました。生きた野生の動物は狩りつくされ、食べつくされていました。あの自由な毒蛇を除いて、ですが。遠目からでも、連合軍の身に着けていた鎧や服装は統一されておらず、各国の寄せ集めであることがすぐに見て取れました。それまでもミュカトーニャの軍隊は混成軍ではあったのですが、このときはその規模が違っていました。軍旗だけは、ミュカトーニャのものがそこかしこで掲げられていました。ひときわ大きく、縁を華美に飾られた軍旗が、タンフーの、粗末な木製の、枝のような木を組んで作られた門の上になびいていました。遠くから見たタンフーは、その町にあったすべてのものをかき集めても、その旗一枚の値段にすら届いていないように見えました。
いいところですが、休憩に入りましょう。
(休憩中に、客席から男女が壇上に近付き、魔族の代表としてのアスタボスに対して、人間として人魔決別に至る度重なる魔族への犯罪について謝罪したいとの嘆願がなされる。警備員がこれを制すると、二人は黙って席へと戻った。アスタボス氏は何も言わなかった。)
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