四日目(1)
おはようございます。今日が最終日ですね。最後までちゃんと話せるように頑張りましょう。
初日に紹介したテッオ・アジャシーノ先生の『ハフビェキシの船』ですが、注文が殺到して、増版 が決まったとの連絡が出版社からありました。私の講演のおかげなのかはわかりませんが、先方はそう思ってくれたようです。この本は素晴らしい一冊ですので、まだ予約していない方がいらっしゃれば、是非、予約をして読んでみてください。この大学の図書館にも何冊かあるそうですよ。ちなみに図書館には私の本もありますので、よろしければどうぞ。
私の首がはね飛ばされた樹暦1388年が近づいてきました。
魔王軍は、随分前からミュカトーニャに対して侵攻を続けていました。しかし、色々なトラブルがあり、思うように戦争が継続できないでいました。四悶病の流行がまずありました。樹暦1380年には、宰相のポジェミニが遂に亡くなります。享年はわかりません。何かの本では六十九歳と書かれていましたが、根拠はよくわかりません。これが事実だとすると、長く生きてくれたことになります。天才であり、上品であり、機知に富み、しかも長寿なのですから、美徳の塊のような人生でした。彼と働いた日々は、素晴らしい思い出として今もよく覚えています。後任には、一人と一凶の人と魔族を就かせました。タニーアンの最後の国家魔法使い、チクハ・オイノイ・テオテベクと、カウエナの筆頭書記官だったエルフのポアン・キーゾです。彼女らを宰相に就け、私の仕事の補佐を行わせました。この人事は悪くありませんでしたが、増え続ける仕事量の前には、濁流にかかる石橋のようにも見えました(頑丈そうだけど、流されそうでもあるということ。)。就任から数か月後、テオテベクが四悶病にかかって死んでしまうと、キーゾの細い両肩に宰相のすべての仕事がのしかかりました。キーゾも魔族ですので、不眠不休で働くことができます。私はキーゾ一凶でも何とかなりそうだと判断しました。ほかに適任者がいなかったこともあります。センタセの命運は、やがて、このキーゾが握ることになります。
ちなみに、最近のタイベン語話者は、ポアン・キーゾのことをポォオン・キーゾと発音しがちなのですが、私のように古い耳ではポアン・キーゾのことだとわからないのです。
話を戻して、トラブルはほかにもありました。フーアプフがサボタージュを起こしたのです。樹暦1384年の話です。エザンドン先生の『魔族・動物・人間』を是非読んでいただきたいのですが、魔族は動物扱いされることを嫌います。荷を運ぶフーアプフは、馬のようであると軽んじられることがありました。また、発話が苦手なことも差別される要因となりました。言語は解することができますし、筆談などでコミュニケーションは取れるのですけどね。重労働に対する蔑視も、無かったと言うことはできないでしょう。ある統括官――残念なことに魔族なのですが――は、何を考えてなのかはわかりませんが、四悶病が蔓延る最中、このような告示を出したのです。
フーアプフ
糧秣はいらぬし眠りもしない
駿馬ではないが駄馬でもない
喋れないのは馬に似る
虫のような見た目は嫌悪感が先立つ
あの複眼に見つめられると怖気がつく
都市の外を這いまわり、重い荷を運ぶのがお似合いだ
人の生活圏に立ち入らせるべきではない
よって道のみで生かすこと
フーアプフは、これを受けて、「我々は馬以下ということか」と激怒します。フーアプフは仲間同士で連帯します。そして、仕事をすべてサボタージュします。仕事を放棄し、荷を運ぶための荷車等を破壊します。サボタージュは、先ほど述べた告示を出した統括官のお膝元の、アンカーシャフやタモウィスシャフで起こりました。フーアプフたちは、「人間の生活圏に立ち入らない」という告示に素直にしたがったのだと理論武装し、仕事を放棄して、山や森の中に引きこもります。いくつかの地域では、反乱のようなものも起こっています。魔族同士で衝突が起こり、死者も出ております。荷を運ぶ代わりの馬――農耕馬でしたが――はいましたが、数も糧秣も足りませんでした。荷物は届かず、運ばれず、倉庫は空になり、あるいは荷が積み上がりました。各地の天秤皿は重くなり、あるいは軽くなり、見るに堪えない不均衡が生じました。このような状態で、戦争の継続は明らかに困難なように思えました。
件の統括官は慌てて告示を撤回しますが、フーアプフは戻って来ませんでした。私は統括官を厳重に罰し、降格させ、事態の収集を図りましたが、それも無駄に終わりました。問題なのは、告示そのものではなく、それが生まれた差別感情だったからです。私は、わかっている範囲内で、フーアプフ又は重労働を行う魔族に対して差別的な態度を取ったものを罰しましたし、今後もそのような場合は罰するように通達を発しました。市井の人々、あるいは都市内魔族の多くが、フーアプフ側の味方をしたおかげで、事態はやがて収束に向かいました。特にアビナ教徒は、均衡を実現するための流通を重視していましたので、その大部分がフーアプフの味方をし、宗教的に強く肯定しました。左手の大陸にいたフーアプフは、その多くが後々アビナ教に入信しています。「両皿を均衡させるために分銅を移動させるものは善である。」という天秤の書の言葉が、格別にフーアプフへと帰せられるようになります。この善性は、フーアプフの姿をとって絵画等に現れるようになります。大地信仰だって、重人主義の見地から流通を重視しますので、流通を担うフーアプフを宗教的に強く肯定していたのですけどね。私が強く肯定すると言えばそうなりますし。
センタセは、フーアプフのために豪奢な流通センターを建設し、名誉職としての館長をフーアプフの中から選任しました。定期的に、大量の、良質な羊皮紙とムラサキインクの実から作ったインクを贈呈し、フーアプフの地位向上に務めました。また、魔族の見た目の美醜についても、都市内魔族は、人間の美意識を内面化しすぎなのではないか、種族ごとに見た目が大きく異なる魔族にとって、見た目の美醜に捕らわれること自体が、魔族としての本質から逸脱し、捻じ曲がっている証拠なのではないかという内省が起こりました。人間化する魔族という問題意識は近世以降に具体化するのですが、中世のころからその萌芽はあったのです。センタセという巨大な構築物自体が、人間化した魔族が作った第一の記念碑だという人もいますね。私もそう思います。魔族が人間の精神を模倣することを主題とした本としては、『魔族と形而上学』があります。書いたのは15枝世末に生きたホスティニナケという名前のバイナスコです。センタセの勇躍、神化したアスタボスという存在、魔素と魔力の差異化など、当時から魔族について考える動機は多くあったのです。
フーアプフのサボタージュは約六か月続き、やがて終息しました。この六か月で、魔王軍の前線は不測の事態に備えて大きく後退していました。戦いに負けて後退したわけではありません。
一部の魔族への差別感情は、完全にはなくなりはしませんでした。それどころか、魔族の持つ動物扱いへの過度な拒否反応は、人間の中にも浸透しつつありました。荷を運ぶ仕事や畑を耕すもののことを、それが人であろうと魔族であろうと、「ポエマニ」と蔑称で呼ぶものが現れたのです。ただ、この話は中世を越えて近世の時代に足を突っ込む話ですので、ここではこれ以上は話さないこととしましょう。詳しく知りたい人は、アガン・イー先生の本をお薦めします。フーアプフのサボタージュについても、アガン・イー先生の『センタセのフーアプフ』に詳しく書かれていますので、手に取ってみてください。また、後世の労働組合運動や奴隷魔族解放運動との関連性については、アフコン・アフコン・ウォックスニーゲン先生の『魔族と労働』が大変読み応えのある必読書です。大学一年生にこそ挑戦して欲しい一冊ですね。それに、フーアプフの表象についての研究として、トービー・ディ・キャウシオク先生の『イメージとしての魔族』を紹介しておきます。ビヒンシタ語で「大きな砂漠の虫」という意味しかなかったフーアプフが、物資を運び続けたことにより宗教的な善性をまとい、数枝世後にフーアプナン(赤血球)、大地細胞(造血幹細胞)の語源となった経緯などが説明されています。
魔王軍は、タンフーを前に足踏みを余儀なくされていました。兵站の非効率が魔王軍の足首を掴み、疫病の流行が魔王軍の襟首を掴んでいました。
樹暦1387年までの間に内政を整えて、魔王軍はこの年の秋、ミュカトーニャへの本格的な進軍を再開します。内政とは、兵站のこともありますが、ほかにもあります。樹暦1387年までの間に、センタセはその行政機構の改変を行い、中世としてはよくできた官僚制度を生んでいます。よくできたとは、私が言っているわけではないのですよ。何十年もかけて、私が直接、国内の諸問題に対して解決案や解釈を示し続けたおかげで、センタセには文書主義、前例主義、通達主義に基づく行政が生まれつつありました。大抵の問題は、過去の私が発した文書を確認すればおおよその解法がわかる、というところまで進化し、発展したのです。「アスタボスの大法典」が隔年で編纂され、各地への統括官の元へと届けられるようになりました。これにより、例えば、各地の統括官が勝手に税制を変更し、大地信仰にそぐわない税収を得ることを禁止させました。センタセの法治主義と言われることもあります。実際は、行政官の質は高くなく、司法権という概念には疎く、私の前言撤回で前例や慣習が覆ることもあったり、朝令暮改も珍しくはなかったため、法治主義という評価は褒めすぎなのですがね。
ちなみに、この大法典ですが、完全版については、現在、発見されているのは十八冊だけです。私も持っていませんので、売りに出されたら購入しようと考えているのですが、なかなか市場には出てきませんね。レプリカならたくさん残っていますし、販売されてもいます。訴訟法の分野では古典として評価されているようでして、法学の先生のお話を聞きますと、アスタボスって奴は大したもんだな、時代を先取りしているなと思ったりするのです。いや、これは自画自賛しすぎでした。そもそもの大法典の完成度が高かったのだと言わなければなりません。フバーユや空の宗教徒にすら受け入れられたその普遍性は、ガエバ・ナウン王国の大法典にこそ帰せられるべきでしょう。
このころのセンタセは、旧支配階級の貴族関係者だけではなく、多くの優秀な平民を行政に参画させるようになっていました。経済が発展したこともあり、ある程度は、国庫から行政官へ賃金を支払うことが可能となりました。ある程度は、ですけどね。賄賂で生活費を稼ぐものは、特に人間の行政官には、少なからずいたのです。その点、魔族の行政官は御しやすく、金に汚くないので安心できました。フォモボイのように町に勝手に住み着き、官職を買って行政に潜り込むものもいましたが、原則、売官や徴税権の貸与は禁止されていたのですよ。そうです、このころにはフォモボイもいるのです。たまに会いたくなるものの一人ですね。今でもそこら辺をうろちょろしているのではないか、そこの緞帳の後ろに待機していて、私の手の空いた隙を見計らって顔を出すのではないかと思ってしまいます。
ミュカトーニャへと侵攻した魔王軍の軍勢は六万人(凶)。人間兵の割合は減っており、人間兵と魔族兵の比率は、四対六となっていました。人間兵が減ったのは、四悶病の流行もありますが、そもそも年貢が安すぎて、年貢の免除と引き換えに各地域から一定数の兵役を求めるというやり方がとうとう機能しなくなったという事情もありました。村や街は喜んで安い税を納め、大事な家族が戦争に連れていかれることを回避しました。誰だってそうするでしょう。志願兵を募ればそれなりに集まりはしましたが、軍の不足を賄えるほどではありませんでした。魔王軍は以前にも増して傭兵を利用するようになり、傭兵を訓練して、魔王軍の戦い方を習得させました。訓練をしている間も傭兵に支払う代金は発生します。大抵の傭兵は、それほど魔法が上手なわけでもありませんでしたから、魔法の習得も時間をかけて行わせました。センタセの上層部は、傭兵を渋々使用していたのが実状でした。
ミュカトーニャのディオ・ニキソウムは、樹暦1387年の冬に元首の座を降ろされます。ミュカトーニャでは、魔王軍の侵攻を前にして政治闘争が激化していました。この政治闘争については、色々と複雑な経緯があるのですが、簡単に説明しますと、昔から都市派とアビナ教会派とで派閥争いをしていたのです。ワバーキーもニキソウムも教会派から出た元首でした。ニキソウムは迫りくる魔王軍への抵抗が弱腰であるとして、都市派に扇動された市民からの弾劾を受け、大人しく身を引きます。魔王軍の策略という話もありますが、もちろんそのとおりです。二十一代目の元首は、都市派のトップであったサーニー・オブン・ザタフォーという男性の豪商でした。この男は有能でしたが、彼の周囲には無能な取り巻きしかいませんでした。国の存亡がかかっている中で、自分の財布を重たくすることにしか興味ないもの、ザタフォーに取り入って教皇ピゴの特権を横取りしようと画策するもの、キンコーキンコーとうるさいアビナ教そのものに対して、個人的な恨みを晴らそうとするものなど、そんな連中ばかりでした。魔王軍は、ザタフォーの周辺に対して買収を仕掛け、悪い噂を吹き込みました。びっくりするくらい上手くいきました。例えば、無能と評判であった将軍を戦場に引っ張り出すことに成功しました。しかも大軍を連れてきてくれました。
都市派であった(ハジック・オードーン・)カタスネという将軍は、軍の序列を七つほど飛ばして軍のトップに就任した男です。この人事についても、魔王軍は関与しています。一年以上前から工作を行っていたのですよ。私はここで、このカタスネが無能だという話をしようとしています。彼は、軍のトップとなります。彼は、魔王軍が歴戦の将である自分を恐れていると勘違いし――勘違いさせたのは魔王軍なのですけどね――、ザタフォーが元首に就任するとすぐ、四万人(凶)の軍を率いて、ウォスカントークの湿地帯で魔王軍と対峙します。樹暦1388年1月です。カタスネは、湿地帯であれば魔族も弱体化するだろうと安易に考えていたようです。湿地帯であろうとも、雨が降らないのであれば大気中の魔素はそれほど減りません。ただし、極端に水はけの悪い、広大な湿地帯の中央部分であれば有意に魔素は少ないかもしれません。また、確かに、湿地帯の土で生まれ変わりを行うのは躊躇しますし、それゆえに湿地帯で死にかけるのは恐ろしくもあるので、怖気ずくということもあるかもしれません。どちらにしろ、心理的な影響があるかもしれないだけで、はっきりと弱体化するということはないのです。敵軍は、湿地帯と、陣雷と、魔王軍の後方に伏兵を置いただけで勝った気になり、ニキソウムの軟弱ぶりを嘲る歌を自陣営で歌って踊る有様でした。相手の実力を常に軽視するのが、このカタスネという将軍の悪い癖でした。魔王軍は、本陣に夜襲をかけ、敵の兵糧を奪い取ります。また、背後の伏兵を撃破し、完勝します。敵の本陣の周囲には陣雷が大量に設置されていましたが、人間兵だけで奇襲を行ったのです。一部では、馬に乗った魔族も攻撃に参加しています。馬に乗れば陣雷は防げますので。あと、空を飛ぶ鳥人の部隊も支援を行っています。魔王軍は二日酔いのカタスネを捕らえ、さっさとこれを解放します。解放後、魔王軍は、カタスネは大将ながら殿を務めて、多くの兵を助けるとともに、自分自身も見事に逃げおおせたと嘘の情報をばらまき、カタスネの地位が落ちないように工作します。カタスネも、敵が飲料水に毒を混ぜたため負けたのであって、正面から戦えば勝てたとかいい加減なことを言い、この大敗北をうやむやにします。魔王軍の評判を下げたので、この発言は許しがたいものでしたが。
ともあれ、このウォスカントークの戦いで、ミュカトーニャ軍は一万七千人(凶)もの兵を失っています。多くの兵は、兵糧にありつくこともできずに、魔王軍に降伏しています。魔王軍の損害は微々たるものでした。
都市派やザタフォー以上に、この敗戦に青ざめたのは教会派の面々でした。ニキソウムは都市派の穏健派と接触し、カタスネを今の地位から降ろし、カタスネの次に高い地位を持つ、穏健的な都市派のテコモヤ・ヨーク・ヨークデンを軍のトップに据えるように交渉します。穏健派は悪い話ではないと考えていた節がありますが、ザタフォーはこれを一蹴します。ザタフォーは、ウォスカントークの戦いの敗戦がカタスネの拙攻にあることはわかっていたでしょうが、政治的な責任問題になるのを避けるため、カタスネの降格を認めようとしませんでした。魔王軍としては願ってもない話でしたがね。
魔王軍はその後も各地で連勝を重ねます。都市派と教会派の軋轢は一層酷くなります。教会派は敗戦を繰り返すザタフォーたち都市派の責任に言及します。ザタフォーも身内であるはずの穏健的な都市派から圧力を受けるようになり、次第に窮地に陥ります。都市派の少数派閥がザタフォーの不支持を表明し、一部の市民が都市派の事務所兼穀物取引所を襲撃して死者が出ます。ザタフォーは身の危険を感じ、自分の邸宅にこもるようになり、評議会の意思決定が滞ります。そしてここにおいて、ザタフォーは、起死回生というか、歴史的に重要な決断を行います。教皇ピゴをこの戦争に引き込もうとしたのです。
どういうことかと言いますと、魔王軍は強力である。特に、魔王アスタボスは不死身であり、殺すことができないことで有名であり、おそらくそれは事実である。魔王軍の兵を幾ら倒しても、アスタボスが生き続ける限り、この戦争はこちらが負けるまで終わらないだろう。であれば、重要なのは、アスタボスを如何にして殺すか、殺すのが無理なら無力化するかが重要である。無力化とはなにか。例えば、ミュカトーニャが誇る魔法の中には、魔族を石にする強力な魔法がある。これをアスタボスに使用すれば、魔王は死なないが石になり、死んだも同然になる。このとき、初めて魔王軍に勝利したと言えるのだ。ところで、この石化の魔法には魔法陣だけでなく媒介も必要である。その媒介は、他ならない、教皇の冠に据え付けられた、非常に希少な宝石の紫金石である。それを砕いて口にしなければ石化魔法は習得することができない。清浄潔白たる教皇の冠を教皇以外のものが粗雑に扱うことができないのは当然であり、都市派としても冠を砕くなどという行為により教皇の権威を蔑ろにするつもりは毛頭ない。難民保護に熱心な現教皇であるし、その腕をもって自らで冠の宝石を砕き、その歯を持って宝石を食らい、その後に石化魔法を習得し、篤き神の加護のもとに前線に出て魔王軍と対峙し、魔王を石にしていただきたい。ということです。
教会派は、当然、この提案は荒唐無稽だとして激怒します。当たり前です。都市派は、激怒する教会派に対して、だったら黙って我々に任せていろと、このように言うわけです。そうこうしているうちに、魔王軍は難民キャンプと化していたタンフーへと軍を進めます。周辺の村々では魔王軍による殲滅を恐れ、村人が村を捨てて、首都やそのずっと手前にあるタンフーへと避難しつつありました。
まもなく、そして苦もなく、魔王軍はウォスカントークとタンフーの中間地点にあるカンアージー砦へと入城します。
教皇ピゴは、以前からの知り合いであった商人に相談し、自分が紫金石を飲み込み、石化魔法を習得し、魔王軍に対峙するつもりであることを打ち明けます。ピゴがそこまでしようとした理由はよくわかりません。教会派の中でもピゴは大いに嫌われておりました。教会派の重鎮たちは、当初は都市派の無理難題に激怒して見せましたが、この挑発に敢えて乗る形でピゴを厄介払いにしようとしたのかもしれません。ピゴはその雰囲気を察して、教会派のため、首都ダイザムハームのため、市民のため、タンフーの難民のために、死地に自らを立たせようとしたのかも知れません。ピゴは、ザタフォーの挑発から十二日後に、石化魔法を習得して前線に立つことを議会の場で約束します。ザタフォーはその場にはいませんでしたが。これを受けて、教会派の発言力は増し、都市派の穏健派も協力的になります。ここにおいて重要なのは、来るべき戦いの場にカタスネを出さないことを確約させたことです。カタスネは、ミュカトーニャに隣接する小国にドノワッという国があるのですが、この国がセンタセに宗主権を握られたため、背後から攻めてくる可能性があるとして、この国に牽制として出陣することになりました。要するに厄介払いです。主力部隊の指揮は、例のヨークデンが執ることとなりました。魔王軍は、カタスネの復権を画策しますが、教会派の横槍が入り、これには失敗します。都市派への工作活動も続けていましたが、都市派は組織として四分五裂の状態となっており、誰が何の権限を持っているのかがわからなくなっていました。ザタフォーは邸宅から一部の仲間や教会派の重鎮と連絡を取り合うばかりでした。彼自身、体よく無能な将軍がいなくなったと喜んでいたのかもしれません。
ちなみに、ミュカトーニャを中心とした連合軍とセンタセとの戦いのことを人魔大戦というのですが、同じ時期に、ミュカトーニャはドノワッ王国とも戦争を行っています。ドノワッは国土が狭く、しかもその国土も山に囲まれた狭隘な土地ばかりであり、ミュカトーニャとは比べるべくもない貧しい国でした。その常備軍は千人に満たない程度であり、しかもほとんどが実戦経験のない者ばかりでした。このドノワッが、無能なカタスネが引き連れてきたミュカトーニャ軍七千人(凶)と戦争を行い、攻城戦の末に相手を撤退させるということが起こっています。当初は牽制として兵を引き連れていたはずのカタスネがドノワッの挑発に乗って攻撃を始め、攻めあぐね、そして兵糧が尽きて撤退したという流れです。ドノワッには、魔王軍の支援が入っていましたし、その城は山に囲まれており、小さいながらも堅固でした。また、有名な話ですが、ドノワッの王には優秀な八人の息子、娘たちがいました。物語や演劇の定番ですし、幾つも映画にされていますね。私のお勧めは映画の『奇峰』(ヤーヘック・アイス・トトーミエ監督)です。なぜか私が悪者に描かれていますが、戦争シーンは完成度が高く、細かい部分の時代考証も見事だと思います。私の思い出を語りますと、次男のキカウト王子とは、カウエナの図書館でよく会って話をしました。優秀な魔法使いです。それこそ、タニーアンの国家魔法使いにもなれたくらいに。三女のマーギン王女は、当時の王族の女性には珍しく、カウエナでは土木工学の授業によく顔を出していました。三男のオディストキ王子は、私に同盟を持ちかけてきたことがあります。大地信仰のことをよく研究し、都市内魔族の性格の変容にも気が付いていたと思われます。学者肌な好青年で、話が合って楽しかったです。ここら辺のことを詳しく知りたい人は、クオイ・ティオ・エウペウモ先生の『ドノワッ外交史』や『ドノワッの帯飾り』がお薦めです(帯飾り座という星座があり、八つの明るい星からなる。)。小国が如何にして存続し続けたかがよくわかります。毒姫セオーの話なども史実に即して載っていますよ(セオーはドノワッ王の長女。鉱山毒に興味があり、自室で毒と解毒の研究を行っていたことで知られる。片方の目が腐っており、それを見たミュカトーニャ軍の衛兵が卒倒して死んだとか、その片方の眼窩は地底湖のようになっており、その中に小さな鮫のような魔物が泳ぎ、毒にかかる秘法をセオーに教えていたという逸話が残っている。)。
ピゴの決断の話に戻りましょう。史料は一切残っていませんが、ピゴは冠から紫金石を取り外し、これを砕いて粉末にして飲み込みます。樹暦1388年の2月か3月ころでしょう。そして石化の魔法を習得します。魔法を習得するときは、習得しようとしている魔法を無差別に放出しますので、エウイーは近づけません。近づいたエウイーが石になってしまうと、このトカゲに似た魔族が諜報活動を行っていたことが敵に露呈しかねないので、それは避けなければなりません。魔王軍は、エウイーの諜報により、ミュカトーニャが教皇ピゴを戦場に連れ出し、石化の魔法で魔王を倒すつもりであることを事前に把握していました。把握していましたが、この魔法の正体が不明であったため、対抗魔法を開発することができませんでした。それに、対抗魔法を作るためには、こちらにも媒介となる紫金石が必要となるのですが、この希少な宝石を魔王軍は有していませんでした。そもそもビヒンシタ語で何という宝石なのか、産地はどこなのか、すべてが不明でした。
対抗魔法はないけれど、この作戦については、特に対抗する必要もないと思われました。魔王軍は、この作戦を早期の段階で荒唐無稽だと一蹴しています。
ピゴは、石化魔法の習得と並行して、知り合いの商人にあることを依頼します。その内容は、商人が知り得る最も優秀な魔法使いをミュカトーニャに連れてくること。知り合いの商人とは、もちろんゲクーのことです。連れてこられた最も優秀な魔法使いとは、もちろんマーメのことです。別のルートでは――と言うのは教会派のことですが――、ザン・ハブムホイン王国に援軍を求めており、これに勝手に応じる形でエンオーが子飼いの兵隊を引き連れてやって来るでしょう。魔王を退治することになる四人が揃いつつありました。
当時、私は、ゲクーのことは知りませんでした。ゲクー商会のことも知りませんでした。ただ、センタセとゲクー旅団とは、人魔大戦以前に因縁がありました。『ゲクー旅団記』にも書かれてありますが、ある都市の大学教授をセンタセがヘッドハンティングしたのですが、学生会がこれを不満に思い、たまたまその都市にいたゲクーに教授の奪還を求め、ゲクーがそれに応じたという事件が起こっています。当時の学生会は強い発言権を持っていたのですよ。ゲクーは教授と落ち合う予定だったセンタセの関係者を殺害し、教授を道中で拉致し、都市へと強制的に返還しています。これについてのセンタセ側の史料はありません。大国にとっては些事だったということでしょうし、このことを私が知っていたとしても、歴史は変わらなかったでしょう。
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