三日目(4)
樹暦1370年、何度目かはもう忘れましたが、フバーユで反乱が起こり、この鎮圧に手間取ります。ハウウズベヒの復旧もままならず、魔王軍の侵攻は再び滞ります。
ストーハーたちはその数を三十五凶まで増やし、全員が狂っていることがわかりました。ストーハーたちは近隣の町や村を襲うようになり、ミュカトーニャもセンタセも手をこまねいていました。ここに来て、私はカウエナという洞から、ようやく、億劫そうに顔を出し、手元のレポートに目を通しつつ、自分の国が直面している困難への対応を求められます。私が前線に立つのはいいけれど、その間にこの書類の山は増やさないでくれと、側近に軽口を叩いた記録が残っています。フバーユの反乱は早々に鎮圧されました。魔王は、スノー湖へと降臨し、エムベム討伐の陣頭指揮を取ります。有名な魔王の吸血鬼退治の話です。
これまでの間に、ストーハーたちの魔法のレベルは低いことがわかっていました。攻撃魔法も能力を低下させる魔法も効果的でした。ただ、種族として再生能力が高いため、こちらの攻撃がすぐに回復されてしまうことが懸念されました。この程度の問題であれば、本来であれば、魔王軍の敵ではありません。オズノスス湖のあの蟹に使ったような動きを封じる魔法を使い、動きを封じているうちに攻撃すれば終わりです。問題は、ストーハーたちが、蟹ほどは頑丈ではないにしろ、蟹以上に力が強く、数も多く、頭がよかったことなのです。具体的には、魔法で動きを封じても、力で動かれてしまうのです。動きを封じる魔法は幾つか種類がありまして、空気中に漂う魔素に干渉して、敵の周囲の魔素をセメントのように固めて動きを封じたり、アテドーが蟹に対してやったように、膠状にして動きを封じたりするものがあります。敵の運動神経に干渉して、相手の運動能力を弱体化するという魔法もありますが、これは敵についての生理学をよく知っておく必要があります(生理学と訳したが、前にも述べたとおり魔族は生命ではない。運動神経という言葉も比喩である。)。ですので、お手軽なのは空気中の魔素を何らかの方法で固める魔法なのです。そしてこれは、敵の力が強いと破られてしまうのです。通常はそんなことは考える必要はないのですけどね。人間をコンクリートで固めれば、固められた人間は動けないと当然に考えるようなものです。ストーハーたちは動けてしまうのです。まさにでたらめな強さだったのです。これほどの力を持った魔族が、誰からも利用されずに、また、自ら歴史にコミットすることもなく、周囲から殲滅の対象としか扱われず、数枝世後には絶滅するのですから不思議なものです。魔族の絶滅については、テッオ・アジャシーノ先生の『絶滅した魔族』が初心者向けでお薦めです。絶滅した生物との比較も行われており、知的好奇心を満たす一冊ですね。ちなみにこの本には、人魔決別のことは書かれていません。あれは絶滅ではありませんので(魔族は別世界で存在しているため、決別という言葉を使う。左手の星にある魔素のうち六割を使用して、魔物が住める新しい世界を創造し、そこへ魔物――アスタボス氏以外の魔物――を強制的に転移させたのが人魔決別である。)。
魔王軍は作戦を立てました。エムベムの生理学を研究し、生理学的に動きを止めるのが最適と思われましたが、研究するためにはエムベムを生け捕りにする必要がありました。生け捕りにするには動きを止める必要があり、それができないから困っているというのに。ですので、最適なこの作戦は諦め、魔王軍は精鋭で攻めることにしました。いつもなら数で押すのですが、このときはそうしませんでした。数で押せない理由は二つありました。ミュカトーニャを前に大軍をスノー湖に動かせない。スノー湖に浮かべる船がたくさんはない。この二つです。精鋭はタニーアンの国家魔法使いを主力とした六百人(凶)。全員が優秀な魔法使いです。ちなみに、このときの精鋭の人数を八十八とする話が後世に伝わっており、魔王の直属の配下が八十八将とか、魔王と言えば八十八、八十八は魔王の数字であり悪い、みたいな評価がされているようです。昔は何の数字かわからなかったのですが――私が死んだ樹暦の下二桁ではありますが――、このときに使用した舟が八十八艘だったそうで、その数値だそうです。後世には、魔王八十八将なるものたちの名前や性格や肩書が創作されており、それが史実のように思われているようです。私を主題としたゲームなどでよく見ますね。こういうのは面白いと思いますし、歴史学がどうこう言うべきことでもない気がします。
魔王軍の精鋭は、冬の霜が降りた時期にスノー湖へと進軍します。作戦はこうです。多少の魔素を固めた程度ではすぐに破られる。相手は数も多い。であるなら、島にある魔素ごと固めるつもりでやろう。これは、今の魔王軍なら百人(凶)いればできる。空気中の魔素を固めると、魔族はもちろん魔力を持つ人間もその中へは入れなくなります。ただし、ある種の魔法であれば貫通します。このときは、攻撃魔法ではなく、相手の魔力を吸収する魔法を採用しました。魔王軍の研究の成果により、比較的遠距離化、迅速化、損失の減少化等に成功していたためです。また、動きを封じる役の魔力切れを防止するため、魔力を付与する役も用意しました。この役目には多くの人間が参加しました。当時の魔法技術では、この魔法を習得する際に使用する媒介がセンタセサンゴしかなかったのです。サンゴは海のものですから、魔物は口にすることに抵抗があります。だから人間しか魔力付与の魔法を覚えていなかったのです。さらに、何かあったときのための回復役と護衛役も用意しました。あとは舟を漕ぐ役ですかね。全員で六百人(凶)です。私は動きを封じる役目兼総指揮として参加しました。
こちらに有利なことに、ストーハーたちは大抵、全員が城の中にいました。我々は島に上陸し、ゆっくりと歩を進め、城に接近することができました。これは、魔素を固める範囲が狭くなったということです。我々は城を囲み、私の合図で一斉に魔素を固めます。城を分厚く包むようにしてです。間髪入れず、魔王軍自慢の魔力の吸収魔法を四方八方から使用します。古城の中からは、敵が暴れる声だけが聞こえてきました。また、所々から、時々、恐ろしい音を立てて魔法の壁が破られる音が響きました。我々は震えあがりました。もしかしたら魔法の分厚い壁を破ってこちらに攻めてくるかもしれない。もしかしたらあいつらは土の中を掘り進んで、足元から突然手を突き出して、我々の仲間を地中に引きずり込むかもしれない。今にも目の前の城壁が崩され、あいつらが顔を出すかもしれない。城に近づきすぎたから、慌てて舟に乗り込んでも、背中を狙われてしまうだろう、と、そんなよくないことばかりを考えていました。これは私だけの話ではなく、後からみんなに聞いたことを踏まえて話しています。
作戦開始から約二十時間後、吸収される魔力が目に見えて減少しました。事前の計算でも、このくらいの時間でエムベムたちの魔力は吸い尽くせることになっていました。魔王軍は、当初の予定どおり、動きを封じる魔法を使う役の人(凶)数を徐々に減らしました。古城からの音はとっくに止んでおり、城は明け方の日の光の中に立ちすくんでいました。地面と見分けのつかなかった湖面には光が射し、我々の顔や靴には白い霜が積もっていました。さすがに人間兵にはたき火が与えられていましたよ。固定化した範囲を徐々に狭め、古城の扉が開けるようになり、担当のものが松明を突き出して城の中を見てみると、明かりが消えた暗がりの中、数凶の、エムベムたちの残骸が空中に漂っていました。着ていた服は主をなくし、城の冷たい床へと、水たまりのように落ちていました。階段に転がった靴、服の隙間からのぞいている首飾り、机に置かれたようにしてある髪飾り、一階の中庭には土を掘った跡もありました。
更に約二時間かけて固定化の魔法を解きました。あたりは静まり返っていました。私たちは城内を確認しました。ストーハーの身に着けていた金の腕輪が三階の一室から見つかりました。そこは人間の骨が壁際に大量に飾られており、大きな桶の中には血が注がれていました。腕輪はその血の中から見つかったのです。ストーハーの服は畳まれて机の上に置かれていましたので、血を浴びていたときに攻撃されたのでしょう。我々にとって幸運にも、敵はみな古城の奥深くで死んでいました。彼らが打ち破るべき壁は、絶望的なまでに厚かったのです。すべてが終わったときは、日は高く上り、人間兵の吐く喜びの長い息を白く美しく照らしていました。
この作戦では、こちらの死者はいませんでした。作戦は成功しました。魔王軍の魔法使いのレベルの高さは、左手の大陸の各地へと広まりました。「魔王軍を裏切った残虐な吸血鬼たちは、魔王軍のその強力な魔法をもって粛清された。」と、当時のとある聖職者は書き残しています。続きはこうです。「街を滅ぼし、街を滅ぼした協力者も用が済めば滅ぼす魔王軍は、実に人類に対しての脅威であり、破壊しかもたらさない存在である。」困ったものですが、この時代に、このような誤解が解けることはなかったのだろうと思います。
この吸血鬼退治の歴史的な意味とは何でしょうか。魔王軍が必要以上に恐れられるようになりました。それまでは、大地信仰とその重人主義に基づき、善政を敷いているとすら思われていたのですが、このイメージが覆りました。アビナ教の本陣を前にして、ついに本性を表したと吹聴するものも出てきます。支配者階級にはそれまでも嫌われていましたが、ここにきて、被支配者の人々からも潜在的な支持を失います。これにより、魔王軍の前線に混乱が生じます。魔王軍の侵攻先の村や町では、虐殺を恐れて住居を捨てて戻ってこないものが現れます。これが何を意味するかというと、難民が発生するようになったのです。戦争であれば、住まいを奪われることはありますから、少なからず難民は発生します。しかし、しばらくすれば人々は元の場所に戻ってくるものなのです。それは一時的な避難のつもりだからです。しかし、エムベムたちのせいでこの前提が崩れます。虐殺は、今までの場所に住めないと思わせるには十分なものでした。戻れば殺される、殺されるくらいなら難民になるという選択肢が当然出てくるわけです。ハウウズベヒの虐殺は、黄砂のように広く遠く、左手の大陸に知れ渡っていました。魔王軍がやったこととしてです。戦争の治安は極端に悪化しました。魔王軍は侵略先で空の行李を蹴とばすことが増え、大地を耕す者のいない村々を手にすることが多くなりました。屋根は破れ、畑は荒れ、家畜は死に、果樹園の果実は、手にしたときには腐り切っていました。重人主義の本質が問われており、対策が必要なことは明らかでした。
ミュカトーニャはハウウズベヒの惨劇を糧として、周辺国との同盟を強化していました。当時としては珍しく、各国の兵士が集い、合同訓練なども行っています。ディノーデ、ワスタージだけではなく、ヤシー王国、大マグスエン国などもミュカトーニャへの協力を約束しました。魔王対人間の国連合という構図ができあがりつつあったのです。ちなみにザン・ハブムホイン王国は、周辺国への侵略意欲が強くあったため、ミュカトーニャ以外との協力関係は持とうとしませんでした。
ワバーキーは、樹暦1373年に病気で死亡します。死ぬ直前まで、自分の生まれ故郷であるワシヤハ大公国に対して、センタセのとの関係を考えなおすように繰り返し打診していますが、ついに成功することはありませんでした。このころのミュカトーニャの外交については、『ミュカトーニャ外交史』という本をお薦めします。センタセのこともそれ以外の国のことも、きちんと詳細に書かれています。作者は、スイー・アブネ・シャマワン先生です。
樹暦1373年ころまで、センタセは奪取した村や町の復旧に力を注ぎました。住人はミュカトーニャへと避難し、その大部分が戻って来ませんでした。魔王軍は人を集め、魔族を集め、無人の集落に豊かな生活を取り戻そうとしました。後背地から人を呼び、魔族兵を増やし、空となった集落に住まわせることもしました。魔族指は、アビナ教がよく普及している地域であり、教徒たちの中には積極的に移住を行う者もいました。それでも限度がありました。幾つかの村は無人のままとなり、やがて朽ちて消えました。
一方のミュカトーニャも、周縁地域に押し寄せる難民の対応に困惑していました。同じ民族、同じ宗教、方言程度にしか違わない同じ言語を使用する者が、約一万人という規模で、平原をさすらっていました。その一部は盗賊と化し、旅の商人を襲い、村や小さな町を襲いました。道の半ばで野垂れ死に、集団内に病気が流行り、街道を通って病と悪徳は瀰漫しました。彼らは都市の領地内に勝手に住み始めました。土を汚し、川を汚していました。下流の村々が難民の排斥に動き、その中で衝突が起こり、死者まで出る始末でした。評議会所有の森が勝手に切り倒され、長年に渡って管理されていた野生動物は尽く狩られて難民の胃袋に入りました。評議会は、治安維持を理由として難民の排除を目指しますが、アビナ教会が不均衡を理由としてそれを許しませんでした。アビナ教会は所領地の一部を解放しましたが、巨人に柵でした(慣用表現。「焼け石に水」と同義。)。魔王軍は、荒らされる大地を見て難民に帰還するよう訴えかけます。悪い吸血鬼は退治した。魔王軍は大地信仰に基づいてあなたたちを歓迎するし、大地を無暗に汚すこの現状を看過できない、と。しかし、戻ってくるものは多くありませんでした。魔王軍の大地信仰が、人間の血を大地に注いでいるというイメージと結び付けられました。この悪いイメージは、魔王軍のお馴染みのイメージとして後世まで残ることになります。皆さんの中にも、大地に血を注ぐ魔王軍のイメージがあるのではないでしょうか。
魔王軍は、樹暦1374年には、侵攻を再開します。ミュカトーニャは、この侵攻に三つの手段で対抗します。フバーユの反乱因子をそそのかす、領地の至る所に陣雷(地雷のように使用する魔法陣のこと。)を設置しておく、近隣諸国との同盟を強化する、です。本当はもう一つあり、海軍でセンタセの湾岸地域及び海上輸送を攻撃するというのもあるのですが、これはナコイシオクのときに話をしていますね。
フバーユについては、小規模な反乱が繰り返し起こっていました。樹暦1374年には、あの空の宗教が島から脱出し、フバーユ本島への復帰を果たします。もちろん舟を漕いでです。駐在している魔王軍も慣れたもので、致命的な損害が生じることはもはやありませんでした。フバーユの一般の人民も、抵抗者たちの立ち振る舞いに辟易するようになっておりました。今後、私の首がはねられるまでは、さすがのフバーユも見た目上の落ち着きを取り戻します。
陣雷については、魔王軍の侵攻を著しく遅らせることに成功します。戦場だけではなく、街道や村の中、家の中などにも設置されていました。今でも、ソシーコン地方では、陣雷の魔法陣が描かれた石板が出土します。出土しないだけで、木板なども陣雷として使用されていました。もったいない気もしますが、紙や、羊皮紙の端材なども使われていたかもしれません。現代でも、人間同士の戦争で地雷というものを使っていますが、それと同じように、これは踏めば起動するのです(ちなみに、タイベン語など多くの言語では、地雷のことを、「火薬の陣雷」と呼んでいる。)。踏んだものの微量な魔力に反応するように作られているのです。もちろん、魔力があれば人が踏んでも起動します。起動すれば、周辺にいるものの魔力を吹き飛ばすのです。人であれば魔力が削られ、魔族であればその身体を負傷し、場合によっては死ぬのです。これは大した発明であり、後々の、多くの魔法技術に応用されています。魔法陣に触れただけで、こちらの意思に関係なく魔法が即座に発動するのです。人間や魔族の中の魔力は、微量ではありますが体の表面を流れています。陣雷は、この流れに反応しているのです。それでいて大気中の魔素には一切反応しないのです。まさに天才の仕事です。この魔法技術は、私が慣れ親しんだカウエナの魔法研究の系統からは外れていました。ディグティニのそれとも異なっていました。世界は広く、研究室や図書館にこもるだけでは駄目だと思いましたね。実際、私は、このころからカウエナには入り浸ることが少なくなりました。この陣雷の発明者は不明です。私だというものもいるのですが、私なわけはありません。この手の世迷言にはうんざりさせられます。
あと、陣雷の発明は、微生物のような魔族がいることを示唆しました。どういうことかと言いますと、陣雷が反応する精度を極限まで上げると、誰も触れていないのに陣雷が起動することが早い時期からわかっていたのです。このことは、目に見えない小さい魔族がいて、それの持つ魔力に反応しているのではないかという仮説を生みました。実際、戦場でも、敵陣から飛んでくる攻撃魔法は、木の盾でも一回だけは防げるということが経験からわかっていました。また、城壁についても、最初の一回だけは、魔法の通りが悪く、あまり貫通しないことがわかっていました。このときの魔法は、盾や城壁の表面を撫でて焼いているように見えたため、表面を撫でるとか、焼くと表現していました。表面を魔法で焼いてから、本格的に魔法攻撃を行おうとか、そういう言い方をします。当時は、この現象が何なのかはわかっていませんでしたが、盾や城壁の表面に付着していた微生物のように小さい魔族に反応していたのです。あるディグティニの研究者は、ここから、目に見えないほど小さい魔族だけでなく、小さい生物も当然に存在しており、それが物の腐敗等に関係しているのではないかと推測しています。見事なものです。顕微鏡が発明される百年以上前の話です。このように、魔法と科学は、お互いに手を取り合って進歩したのです。
話を戻しまして、三つ目の、最後の同盟については、先ほど述べたとおりです。ワバーキーの後を継いだ第二十代目元首ディオ・ニキソウムは、弁舌も巧みに、魔王軍の恐怖を煽りに煽って、人間の連合軍という概念を作り出しつつありました。ニキソウムの話術に唆された近隣諸国は、魔王軍への対応を我がことのように深刻に考えるようになり、それまで以上に、兵や金員の協力を前向きに考えるようになっていました。
ここで、近隣諸国のうち、ザン・ハブムホイン王国の話もしておきましょう。この国では、王直属の四人の将軍が各地で活躍を重ね、聖戦士という誉れ高き称号を得ていました。この名は後々まで語り継がれていますね。国自体も、若き皇太子であり、紫衣の王子として名高いスイゾ・ア・ダフ・クァジベッキのもと、その版図を広げつつありました。王国は、ブレスレット諸島の七割を制圧し、数年後にはワグ島にも上陸しています。このころには、無人の荒野であったプムーム雪原で、虹目石の鉱脈を見つけています。四人の聖戦士の一人であるエンオー・カーシシャニーは、ミュカトーニャに近く森深い地域において、魔族や盗賊を相手にその剣技をふるっていました。しかし、当時のエンオーはあまり目立たない聖戦士だと思われていました。ほかの三人の聖戦士がタレント揃いだったのです。皇太子の幼馴染で、若き近衛兵隊長であったり、ブレスレット諸島を制圧した海軍の大将であったり、騎兵を率いて人間の国々に攻め入り、多くの武功を挙げた大将軍であったりするのですから。エンオーは、民衆の生活を守るという大事な仕事をし、四人の中では最年長であり、多くの将兵を育て、鍛えたという実績がありました。ありましたが、彼本人がそれをどこまで誇っていたかはわかりません。彼には実力があり、誇りある家名があり、自らで勝ち取った地位と名誉があり、周囲からの評価も高く、尊敬もされていたのですが、戦場での華々しい活躍がありませんでした。そんな彼がほぼ独断専行する形で人魔大戦に参加するのは、もう少し後の話になります。
魔王軍は、陣雷の敷き詰められた平原に進軍しました。人間兵を先頭にすれば、少なくとも魔族が負傷することはありません。当初、対策は容易だと思われました。ただ、人間兵の魔力を削られることで、戦争は当然魔王軍の不利に傾きました。敵の魔法攻撃はタニーアンと同程度、いやそれ以上に強力であり、しかも類似の魔法を多数用意することで、こちらの対抗魔法の効用を下げられていました。陣雷の種類も、わかっているだけで七十五種類あります。こちらは、完璧にこれらの魔法を防ごうとするなら、七十五種類の対抗魔法を開発し、兵士たちに習得させる必要がありました。それはまったく現実的ではありませんでしたが、戦争とあれば対応するのが将校の仕事でした。タニーアンの国家魔法使いたちをもってしても、それは煩雑であり、なおかつ退屈な作業でした。魔王軍は、陣雷や多種多様な攻撃魔法に苦しめられつつ、それでも前線をゆっくりと押し上げました。五年後には、今のタキア村の近くまで軍を進めました。魔王軍は、ワッスプムグの森の戦いやホアーハントの戦いで大敗しましたが、それ以外では概ね快勝し、ミュカトーニャを指先からじわじわと蚕食していきました。領地を大きく奪い返されることもありませんでした。兵站はたびたび寸断され、特に海上でのそれは日常茶飯事となっていましたが、進軍の余地はまだ十分にあると判断されていました。ササーマント川周辺の大穀倉地帯は、大地信仰を強く祝福するように豊作に恵まれ、左手の大陸だけで兵糧は概ね賄えていました。
ミュカトーニャは、各国の連合軍を率いるようになっていましたが、それが魔王軍に通用していたとは言えません。連携が悪かったとかそういうことはありませんでしたが、相乗効果も特にありませんでした。優秀な将軍もいれば、そうでもない将軍もいました。ホアーハントの戦いを率いたのは、ヤシー王国の、老いた魔法使いの将軍でした。後で知ったことですが、彼と私とはカウエナの学舎で何度か共に学んだことがあったのです。彼が取った作戦は、上空から魔王軍の真ん中に陣雷の魔法陣が描かれた木板等を投下し、魔王軍が混乱している隙に地上の軍隊で攻撃するというものでした。その陣雷の数量からして、用意周到に戦争の準備をしていたことがうかがえます。敵ながら見事であったと思います。彼の名前は、ディオ・マー・スピーニと言います。
樹暦1379年、四悶病が再び流行します。魔王軍とミュカトーニャは、散発的に小競り合いを繰り返していましたが、両国とも戦争を継続できる状況ではありませんでした。特に魔王軍では、ドマトンやタモウィスシャフで広範囲にこの病が広がり、幾つもの村や町が地図から消失しました。さらに、コニーバンサでもこの病が流行し、穏海の海賊の三割が病死したと言われています。
このときの四悶病は、前回のそれと比較して、ミュカトーニャ側の被害は少なかったと言われています。それでも、ザン・ハブムホイン王国やディノーデ王国の被害は大きく、アビナ教会の要請を受けて、ミュカトーニャの評議会は各地に支援を行います。興味深いことに、このときのアビナ教会は、魔王軍の支配下にあったアビナ教徒に対しても支援を行っています。また、比較的被害の少なかったアンカーシャフやカウエナからは、アビナ教会が主導して、敵国のミュカトーニャへ支援物資すら送っています。魔王軍は、これらを事実上黙認しています。大地信仰的には、この行いを否定する理由がないからです。それにしても、四悶病の脅威から奇跡的に逃れた人々が資材を集積し、積み上がった資材を馬車に乗せ、疫病の蔓延る地域へと向かう姿は感動的ですらあります。困難を知りつつ、足りている皿から足りていない皿へと分銅を乗せ換えるその行為は、篤い信仰心の賜物、美しい姿であったと思います。
難民たちもこの病に苦しめられたでしょう。このときの難民と疫病の様子は、史料が少ないため、よくわかっていません。ある旅人の記録によると、四悶病で多くのものが死に、墓を作るために街道のレンガが多く剝ぎ取られたため、広い範囲に渡って整備された道が消えたとあります。レンガの墓石や墓地は、今でもミュカトーニャに点在して残っておりますね。ほかにも、ある旅の詩人は、難民に取り囲まれ、連れていた白い鷹を奪われて食べられたと書き残しています。
樹暦1380年、アビナ教会の若き上級神官であったピゴ・トクオイは、ダイザムハームとハウウズベヒの中間にある、自身が所有していた広大な馬場を難民のために開放します。このときの難民の数は、五千人ほどであったと言われています。前にも話しましたが、ピゴは吝嗇で有名でした。このときの行いは、彼を知るものから疑念の目で見られています。彼は、元々、貴族やアビナ教会に献上する馬を育てる一族の生まれでした。その身分は決して高くなく、一族は無学でした。ピゴの両親は息子の記憶力や弁舌の巧みさに気づき、聖職者の道を歩ませます。ピゴはこれを受けて必死で勉強し、やがて頭角を現しました。教会内の出世レースに勝利し、若くして教皇を補佐する十人の上級神官に就任したのです。彼は教会組織に入り込んでからは、賄賂や利益供与、横領、詐欺、文書偽装、恐喝、謀略を駆使して金と高価な物をかき集め、ため込みます。一部の商人や町人からの評判は非常に悪く、当時の史料を見ると、ピゴを悪く言うものは多く見つかるのです。もちろん、同僚からの評価も悪く、態度不良を理由として何度も教会の審問にかけられています。そして、恐らく、その都度、審問官を買収して難を逃れているのです。そんな彼が、宗教家を騙る極悪人でしかない彼が、身銭を切って、自分の故郷の馬場を開放したのですから、当時の人たちが困惑するのも仕方のないことだったのです。ちなみに、この馬場も、文書の改ざんや詐術によって、ピゴが上級神官に就任した数年の間に、本来のトクオイ家の所有地の数十倍の面積に膨れ上がっていることがわかっています。隣接する評議会の所領や、近くの村々が共有地としていた川辺すら横取りしているのです。当時は、境界線を定める杭を関係者の同意なく抜くことは重大な悪行だったのですが、ピゴは繰り返しその悪行に手を染めています。パワー・マニカモン・サモーシス先生の『ピゴ・トクオイ――その生涯』という古い本がお薦めです。この本によると、ピゴが自身の馬場を難民に開放した理由は、わからないと前置きしたうえで、その強烈な信心に基づく使命感のためではないかと述べています。この一文に至るまでに、サモーシス先生は、ピゴのことを守銭奴、詐欺師、人間の屑などとして描写することに躊躇がありません。驚くことに、彼の前半生において、篤い信仰心を感じさせるエピソードはただの一つもないのです。本当に。それなのに、この難民の話になると、いきなり、何の前触れもなく、まるで別人のような、聖人としてのピゴが現れるのです。この本を読んだ人は、誰しもここに困惑すると思われます。読む本を間違えたかと思って、もう一度表紙を見ると、そこにはピゴ・トクオイと確かに書いてあるのです。ブックカバーを外しても同じです。読者は首をかしげます。しかし、まさにその困惑こそ、当時の敵対者たちが感じた困惑そのものなのです。読んでいると、ピゴ・トクオイと名乗るものが、急に別の人に入れ替わったような気持ちになれます。何の前触れもないのですよ。この本は多くの版を重ねていますが、何版かの後付けで、サモーシス先生は、「難民の章になると、この本のピゴは豹変する。多くの読者はこれに困惑し、一部の読者は、乱丁を疑ったり、まったく違う本を製本したのではないかと手紙を寄越す者すらいた」と楽し気に語っています。繰り返しますが、14枝世の当時の人々も、同じような困惑を抱いていたのです。ピゴは、難民の居場所だけでなく、難民を支援するための資金や資材を、その私財から提供します。まさにアビナの均衡を実現しようとする行いです。当時の人々は、ピゴのこの善行について、天と地がひっくり返ったと書き残しています。一人や二人がこう書き残しているのではありません。十数人の単位で記録が残っているのです。ピゴに資産を騙し取られたとある貴婦人は、「天と地がひっくり返ったので思わず吐いた。この吐瀉物をあの低俗クソ坊主の頭に浴びせてやればよかった」とすら書いています。ピゴから賄賂を要求され、したがわなければ破門するぞと恐喝されたある郷士は、「無辜の民から奪い取った金貨で難民の歓心を買うあの破戒僧め。あのサルの天秤は、天地がひっくり返って皿と鎖がぐちゃぐちゃになっている」と日記に書いています。このような罵詈雑言の中、ピゴはため込んだ資産をすべて吐き出します。本当にすべてです。しかし、難民たちの生活はまったく改善しません。彼はミュカトーニャの評議会にも圧力をかけ、都市の予算の一部を難民対策として支出させることに成功します。
教えてやろう、この問題から顔を背ける馬鹿どもに。
このままでは、難民が首都に押し寄せて治安を悪化させる。
奴らはお前たちの家のレンガを奪って小屋を建て、
お前の飼っている家畜は夜が明ければいなくなる。
都市の錦の幟は奴らの尻を拭く布切れとなり、
評議会の椅子は屑藁のように軽くなるだろう。
そうならないために、この不均衡を是正しようと、
私が、私だけが身銭を切って市民を守っているのだ。
我々の側の皿が重たすぎるのだ。天秤を水平に戻せ。
難民に奪われる前に、我々を重たくしているものを差し出せ。
金だ。金だ。金だ。
このように恫喝した記録が残っています。私はこの演説が好きなので諳んじているのです。「奪えば罪だが与えればそうではない。故に奪わせるな」なのですね(『天秤の書』の一節。)。評議会の委員の大半は、彼の正体を知っていますので、この演説に戸惑い、真意を図りかねるのでした。一方、彼の正体を知らない多くのアビナ教徒からは、多くのお布施が集まります。いつもの彼ならその大半を、いやすべてを自分の懐に入れるのでしょうが、このときは、その全額を難民支援に当てています。このようにいえる理由は、ちゃんとした公式な文書が残っているからです。このように奮闘するピゴを見て、彼の正体を知らないアビナ教徒は、彼こそ真の聖人だと絶賛し、また喜捨を行うのです。そして、ピゴに騙されたことのあるものがそれを見て、周囲に聞こえるように舌打ちをするのです。いや、彼の正体と言いましたが、彼の正体が何なのかはよくわかりませんね。生臭坊主が神の啓示を受け、心を入れ替えたと言うのが、一番わかりやすい説明になってしまうのです。ありそうもない話ですがね(アビナ教の神は人間の営みに必ずしも興味があるわけではないので、啓示はしない。)。歴史学は、ピゴの豹変について説得的な解釈を提示することができていません。サモーシス先生の篤い信心説は、ディケン先生などから批判されています。ここらへんは、歴史解釈の支持可能性の議論につながります。詳しくは、大学でこれから学んでください。
樹暦1385年、ピゴは教皇に就任します。それまでの根回しと、献身的な難民支援が認められてのことだとされています。また、魔王軍が侵攻してくることは明白であったため、貧乏くじを引かされたという説も有力であり、その後の顛末を考えると、むしろこの説明が最も適切かと思います。アビナ教の教皇は、歴代教皇も住んでいた大邸宅で生活を送ることになっていました。ピゴは、就任直後にこの邸宅のインテリアをすべて売却し、難民の支援に充てています。雇われていた世話係等もすべて解雇し、人件費の削減も行っています。一人のメイドと一人の執事だけが後に残り、ピゴの世話をしたと言われています。この二人の名前は明らかとなっていません。どういうつもりで邸宅を離れなかったのかもわかっていません。この二人を主役にした映画、『教皇の世話役』(ウォン・ポーセノ・ゾナティモ監督)は、大ヒットしたコメディ映画として有名ですね。私はサイレント映画時代の、ギシナテ・ソーヤ・エメニネネが執事役だったバージョンがお気に入りです。狂信的に振舞うピゴを一切止めようとしないお芝居が面白いと思うのです。
ピゴの馬場は難民キャンプとなり、そこにはタンフーという名前が付けられました。タイベン語で飼葉桶の意味ですね。外来語のようにも聞こえますが。史料によると、樹暦1382年にはこの名前で呼ばれています。私の首が運ばれ、晒されたのもタンフーです。この大学があるのもタンフーです。ミュカトーニャの首都となったのは18枝世のころで、そのときの市長は魔族でした。難民キャンプのころのタンフーを知っていると、今のこの発展ぶりには感慨深いものがあります。空港からこの街の方を眺めているピゴの銅像を見上げると、「本当によかったじゃないか」と思うのです。いえ、ピゴが本当に何を考えていたのかはわからないのですがね。
人魔決別のときも、この街は魔族の味方をしてくれました。しかし、ピゴが心血を注いで守ろうとしたあの難民キャンプが、ここまで大きくなるとは。堆積する歴史の塵芥に混ざって、血の雨が降り、黒色火薬が風に乗って運ばれてきて、戦火の灰をかぶりつつ、それでもなお営々とアビナ教の祝福を受け続けてここまで栄えたことは奇跡のようですらあります。この街は、栄えるだけではなく、困難に直面した難民や魔族を受け入れてきたのです。言うまでもないでしょうが、私も受け入れられたものの一つなのです。
さて、時間が過ぎてしまいました。今日はここまでとしましょう。明日が最終日です。皆さん、最後までよろしくお願いします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます