三日目(1)
3 三日目
おはようございます。三日目の講演です。足元が悪い中、皆様ご苦労様です。先ほど、ミュカトーニャで一番売れている新聞に目を通したのですが、私のことが二つ記事になっていました。一つは、アスタボスの火のことです。遂にメディアが問題視してくれたことに感謝申し上げます。記事によりますと、歴史の教科書において、焼夷弾による空襲のことをアスタボスの火と呼んでいる例があるようです。この記事の記者は、このような使用例は誤解を招くということで、今後の訂正が必要だと主張してくれています。一方で、オウグストニャ共和国の、シュトカーニモンという、聞きなれないタイベン語ですが、その組織、でしょうか、組織の代表者の、当時の人々の率直な言葉使いなのだから、訂正は不要であるというコメントも掲載されています(シュトカーニモンは、民間の教科書検定団体のこと。)。当時の――きわめてごく少数の――人々の率直な言葉使いを歴史の教科書に掲載し、その教科書で学生を教えることが正しいのか、もう一度熟考して欲しいものですね。
二つ目は、昨日の講演の終わりに、二名の暴徒が私に攻撃的な魔法を使おうとする、魔法の使用未遂がありまして、警察に逮捕されたということが記事にされていました。同僚のパワー・パワー・アニートン先生が体を張って止めてくれたことに感謝を申し上げます。目の前に座っていた魔道室の職員は、まったく私を庇うそぶりがなかったですが、もう少し仕事をしていただきたいものですね。というのは冗談ですよ。昨日の二人は、壇上の私に紙に書かれた魔法陣を見せて、魔族にとって挑発的な言葉を口にしていました。その魔法陣は、人魔決別の前夜に大きな問題となった、魔族を一網打尽に殺し尽くす魔法の魔法陣なのです。それは今のザトニカ連邦で発行された週刊誌、「ザカ・ザトニケ」の樹暦1890年8月号の悪名高き付録なのです。この魔法陣は、素人でも簡単に邪悪な魔法が使えるように工夫されています。少しの魔力で発動できるようになっています。また、この魔法陣の特徴は、真円の魔法陣から二本の線が出ていることです。この二本の線は、魔法陣の外側にいくらでも拡張することができます。どういうことかと言いますと、この魔法陣の使い方は、町の外にこの魔法陣の書かれた付録を置いて固定し、木の枝の先にでも魔石の白墨をつけて、それで線の一方からつなげて地面に線を引き、町をぐるっと囲んでまた元の位置に戻り、引いてきた線を付録に描かれたもう一方の線に接続するのです。これにより、魔法陣と接続した大きな、町を包む耳ができたことがわかるかと思います。そして、この状態で魔法を発動すると、この耳の中に入っている魔物は、つまり町にいるすべての魔族は、一瞬で死んでしまうのです。町を囲う線を引くのが面倒であれば、家や広場程度の空間を囲うことでももちろん発動します。線が途中で切れていても、ある程度であれば自動で範囲指定を行ってくれます。一枚紙の魔法陣ですがよくできた代物です。どこを取っても魔族への悪意しかありません。19枝世ともなれば、即座に対抗魔法(攻撃魔法に対する防御魔法や無効魔法、反射魔法の総称)が作られます。このようなものを付録にしても、すぐに対抗魔法が作られることはわかり切ったことでした。ですので、これは悪意だけを付録にしたものとも言えますし、それが製作者の目的だったのでしょう。ところが、この魔法陣は、思いのほか全世界で使用され、効果を上げてしまいます。九つの国の十八の都市と村で使用され、数万凶の魔族が殺されました。未遂だけならこの三倍はあったと言われています。一番大きな被害が出たザトニカ連邦のファウトマシーナ市では、十一人の反魔族主義者が共謀し、人口七十五万人(凶)の都市を囲う線を引き、四千凶の魔族を一瞬で殺害しました。首謀者らは誰一人として魔法使いとしての資格を持っておらず、まともな魔法教育も受けていませんでした。そんな連中が、多少の手間暇をかけただけで、大量の魔族を殺してしまえたことに魔族は、そして心ある人類は恐れおののいたのです。人と魔族のパワーバランスが崩れつつあったことは明らかでした。被害が出ている最中にも、類似の別の魔法陣が発行され、使用されました。町の役所の掲示板に、こっそりと、あるいは堂々と、最新の虐殺の魔法陣がピン止めされ、同じ嗜好を持つものがそれを自宅へと持ち帰っていました。自衛という名目で自宅や畑を囲うように線を引いたのです。この魔法陣の登場は、人魔決別に至る無差別テロの始まりと言われています。私はもちろん、抵抗魔法を知っていますので、大抵の虐殺魔法を無効化しています。そもそも、今の私をペラ紙一枚の魔法陣でどうにかしてやろうというのが、すでに素人の発想なのです。私に一瞬でも恐怖を覚えてほしいのであれば、分厚い魔法の書でも作って持ってくるべきなのです。魔道室の人間もそれがわかっていたから動かなかったのです。アニートン先生は、わかっていたけど体が動いてしまったのです。こういうと魔道室の人たちを悪く言っているように聞こえますね。彼らは必ずしも怠慢でも薄情でもなかったのですよ。多分。きっと。
さて、講演を始めましょう。
魔王軍は、ササーマント川周辺の土地の、あまりの豊かさに進軍を止めました。このときの魔王軍のことを「美味しくて大きな肉を奪い取り、獲物を追うのを一旦やめた犬」と表現した学者がいます。悪意がある言い方ですが、大地信仰の信念が報われたという感触は確かにありました。センタセは、大穀倉地帯にウキウキしながら鍬を入れました。前にも言ったかも知れませんが、センタセの食料生産量は増加率が逓減していました。フバーユは、土地が狭いながらも生産量は増加しており、アンカーシャフ王国の熱帯雨林は燃料として伐採が進んでいました。なぞり指に位置するダマウカーバ(都市国家)が、フバーユとアンカーシャフ地方とを結ぶ航路で海賊行為を行っていました。女海賊ガシャニアネは死去し、彼女の海賊船は長男のパミン・グシャミオクが継ぎました。彼は好戦的であり、母親のように狡猾でした。魔王軍に協力的、コニーバンサの顔としても十分であり、海の治安を任せるには適任でした。グシャミオクは、タモウィスシャフ王国、ミュカトーニャ、ダマウカーバの各国の海軍や公認海賊と戦い、勝利し、ときに交渉して手を引かせました。支払った金額を上回る活躍を見せてくれました。私は彼を子供のころから知っています。家族思いの優しい子供でした。ガシャニアネは、彼に海賊を継がせる気はなかったように思えます。センタセの内陸部で、県令の補助官でもやらせたかったのでしょうが、本人が海賊の道を選んだのです。彼が出てくる映画では、彼の役はハンサムな俳優が演じることが多いようですね。確かに人間の目からすれば、ハンサムな顔つきであったようです。俳優の、ええと、誰でしたっけ、『トウウィスの少年』や『犬の目の奥の椅子』で主役をしていたミュカトーニャ人の俳優は。あの人によく似ています(講演中、会場が最もざわめいたのがこのときであった。俳優名はコウプモス・マエ・カッチャー。樹暦2060年代に活躍したこの葉世の代表的な二枚目映画俳優である。ちなみに、アスタボス氏は、本講演の初日に、人の顔を見分けるのが苦手だと述べている。)。
話を戻しましょう。樹暦1329年、私の居場所をユーヌオンからエプケカの宮殿に移し替えました。瑠璃色に輝き、千の色のガラスで飾られた尖塔が連なるエプケカ宮殿です。魔族の趣味ではありませんね。私が離れたフバーユには、常に、少なくとも一万の常備軍を駐屯させました。反乱の抑制と海路の保全が目的です。何か問題が起こった場合に、迅速に対応できるよう、鳥人などの空を飛べる魔族を連絡係として任命しました。
また、同じころ、熱帯雨林に暮らしていた竜を三十五凶、配下に加えました。竜以外の野生の魔族も、人魚を除いて、積極的に都市内魔族化させました。これについては、後で話すつもりですが、魔族の養子縁組制度が後押しとなりました。
不死の魔王が率いる魔族の国センタセは、左手の大陸にその脅威が広く知れ渡るようになっていました。私のしていたことは、魔族が人間の国を乗っ取り、人間世界そのものへと攻め込んでいるように見られました。『勇者ゲクーの冒険』の世界観と同じですね。人間世界は、魔族を、特に都市内魔族を警戒するようになりました。一部ではありますが、都市内魔族は、重要な地位から降格され、就任できないような扱いを受けるようになりました。王の側から離され、秘密の工房には鍵がかけられ、魔法の研究から外され、魔道院へと押し込まれる正常な魔族が増えました。その結果、現状に不満のある世界各地の都市内魔族がエプケカにやって来るようになりました。また、センタセの大地信仰に共感する人間も――もちろん魔族も――私の元へとやって来ました。そのうちの幾人かは定着し、センタセもそれを許しました。耕作すべき土地は広がり、船乗りは相変わらず不足していました。働き口は幾らでもありました。センタセの富のおこぼれにあずかろうと、世界各地から商船が寄港し、交易を求めました。センタセの砂漠の真ん中から見つかった銅鉱山は、膨大な量の銅鉱石を生産していました。前に話しましたフバーユの産物、明礬、お茶、そして金も、商船に積まれ、世界各地の港へと運ばれました。フバーユでは、交易に携わらない市民と、携わっている市民の間に極端な格差が生じていました。魔王軍を支持するものだけが、フバーユの資産を売りさばくことで富み、そうでないものは、フバーユの産物が売り払われるのを指をくわえて見ているしかない、と、そう思われていました。これがまた魔王軍への不満を駆り立て、反乱の火を燻らせることとなります。
センタセにも変化の波が押し寄せます。国土が広くなったため、中央集権に無理が生じていました。県単位で管理するやり方はそのままとして、県の上に、センタセ、フバーユ、アンカーシャフとドマトン、ササーマント川の四つの地方ごとに地方局を置き、統括官という身分を定めました。統括官は大地信仰に基づいて施策を行います。統括官には、税率を定める権限、行政権、限定的な立法権、裁判の定期開催、人事権、交易権等を与えました。軍隊は、私の管轄に置き、統括官のもとには、今でいう警察のような組織を置きました。統括官に権限を委譲したことにより、王とともに拠点を移してきた内務省は、その規模が縮小されました。統括官とその補佐役は、後々に貴族化しますし、私の首が飛んだあとは、王を名乗るものも現れます。
また、センタセは、紙と羊皮紙の安定的な生産が可能になりました。その官僚主義は、文書主義を末端に至るまで徹底できるようになりました。できるようになっただけで、実際にやっていたかは別問題ですが。私のもとには、定期的に、月に一度の頻度で、各地の統括官から、物資等の在庫状況や、先月以前に出した指示の進捗状況、現状の問題点とその対策案、実施した施策が報告されていました。私は、ソナ・イナの仕事をしていたかつてのように、事務的な仕事に忙殺されるようになりました。現実離れした美しい宮殿には、月に一度、世俗の細々した問題が書類の形となって持ち込まれ、やがてそれは大きな山となり、連山となりました。書類の山は、昼夜問わず、私が目を通すことで神からのありがたいお言葉へと変わり、その言葉は文書となり、また美しい宮殿から吐き出され、各地の政治に影響を与えたのでした。
左手の大陸に侵攻し、アビナ教に深く接することで、魔族の考え方にも変化が生じていました。結婚を神聖視するアビナ教の発想は、一部の魔族の共感を得ていました(アビナ教は、結婚を天秤のイメージとして捉える。男女が天秤の両皿に乗り、その天秤を均衡させることが、宗教的な善行として観念される。アビナ教は、結婚のことを、そこに生じる不安定さを両者の努力によって継続し、その継続に伴う困難さ、理不尽さをあえて引き受けることだと認識している。その引き受けを神聖だと考えるのである。)。そして、このころ、魔族同士で結婚するものが現れたのです。魔族の結婚と言いますが、魔族に生物的な男女差はありません。外見的な性差というか、違いは大いにあります。それこそ人間以上に多様性があるとも言えます。明確に外見に性差があるのはデミヒューマンなどですが、性器は外見だけのものであり、生殖能力は当然ありません。そもそも生殖というものが魔族にはないのですが、ここら辺のことは、学校では生物の授業で取り上げられていると聞いています。魔族の結婚は、アビナ教からは諸手を挙げて歓迎され、大地信仰からは困惑をもって受け入れられ、敬教からは嫌悪をもって拒絶されました。そして、これを拒絶するべきではないという立場から、新敬教の誕生へとつながる宗教改革が興るのです(新敬教は、一族の範囲を超えて祖先を敬うように求める。また、結婚の概念を拡大し、一妻多夫、一夫多妻を認める。これらは家族愛や郷土愛を越えて、同胞愛、愛国心、人類愛などへと発展したが、排外主義や反魔族主義をもたらす温床ともなった。)。
アビナ教の神官は、婚約した魔族に祝福を与え、魔族の養子縁組や遺産相続にかかる法の整備をセンタセに訴えました。今でいうロビー活動のようなことが行われたのです。アビナ教の凄いところは、たとえばデミヒューマンとデミドッグの結婚という、人間が見るとギョッとするような婚姻も祝福したことです(魔族からするとギョッとはしないらしい。)。アビナ教は、人間同士の結婚の場合は両者の均衡にやたらとこだわるのに、魔族同士となると、お互いの魔力の量にこだわるくらいで、それ以外の身長や体重については、雑というか、おおらかになるのが興味深いですね。
大地信仰は、魔族の結婚が重人主義にとって何を意味するかについて議論を重ねました。魔族が養子を取るというアイデアは評価できると考えました。また、アビナ教の教会や商人に恩を着せるため、無碍に否定することもないと考えました。神である私も、その意見を肯定しました。センタセは、養子縁組と遺産相続にかかる法を整えました。正式に結婚した魔族は、都市内魔族か否かを問わず、魔族の養子を得ることが認められました。また、ずっと後の話になるのですが、特例の許可を持って、人間の子供を養子にすることもできるようにもしました。遺産相続については、伴侶としている魔族が死んだ場合又は生まれ変わりに極端に失敗した場合は、もう片方の伴侶や、いれば親や養子に遺産が相続されるようにしました。ちなみに、人間の夫婦が魔族を養子にすることは認めませんでしたし、人間と魔族の婚姻も認めませんでした。アビナ教であれば認めてもよさそうなものですが、彼らはそこまでは主張しませんでした。
敬教は、魔族のこの家族ごっこを強く忌避しました。本質的に一族とはなり得ない、本質的に孤独な魔族があえて婚姻し、あえて子供を育て、あえて親となり、運悪く死んだ後、血のつながりも何もない子孫から神として奉られることに拒絶反応を示しました。それは神聖な家祖に対するからかい、挑発のように思われたのでした。敬教の見地から作成された反対論文が大量に生産され、広場で演説され、巷間に知れ渡りました。アビナ教側からも、反対意見に対する反対論文が作成されました。大地信仰からも、多くの論文が作成されました。センタセは、この論争の最中に、魔族の味方をするような公式の見解を示しました。クーイード四世宗教文化財団が編纂した『魔族の婚姻問題論文集』は、主にアビナ教と大地信仰と敬教からの論文を収めた、全二十二巻もある浩瀚な論文集です。私も少しだけ編集のお手伝いをしています。宗教論争というのは抽象的であり、当事者以外には何のことやらわからないことも多々ありまして、昔の時代の本ならなおさらなのですが、この論文集も複雑なことばかりが書かれています。研究者向けの本を紹介してしまいましたね。我こそは、と思う人がいらっしゃいましたら、挑戦してみてください。新敬教の研究にとっても重要な論文集となっています。
センタセは、この問題にかかる敬教からの反論を軽視しました。敬教徒の魔族がそもそもおらず、いたとしても婚姻などしないと考えられたためです。祖先を神として敬う魔族など出てこないだろうということです。ところが、この講演ではもう話す余裕もないでしょうが、魔族は確かに、人間のように祖先をありがたがることはほとんどなかったのですが、家名についてはこだわりを見せるようになります。いや、婚姻と養子によって、家名の重要度が増したと言った方がいいかもしれません。その結果、亡くなった魔族を家族として追悼するケースが当然現れてきたのです。たとえば、ゴブリンとフェアリーが婚姻し、アマーゴフ(タイベン語で印刷屋という意味。)の家名を名乗り、ナーガの養子を得、そのナーガがウェアウルフと婚姻し、そのウェアウルフがチーノンとフーアプフの養子を得、その後も婚姻と養子縁組を繰り返し、しかも初代のゴブリンとフェアリーも長く生き続け、五から十五凶の、雑多な魔族の集合体であるアマーゴフ家が生まれ、それなりに都市内で存在感、影響力を発するようになる、といったようなケースが現れます。センタセのチャノの名家、オゼ・ミャケニ家は、ウェアベア(熊の顔をした人型の魔物)が一族長として辣腕を振るう、製材業を営む一族でした。敬教は、オゼ・ミャケニ家のような存在を忌々しく思っていたのですが、この家の頭首が事故で亡くなると、残った一族は大きな葬儀を行い、よりによって、と言うべきなのか、敬教の教義に即して喪に服します。疑似家族と言えどもそこにある追悼の気持ちに嘘はないわけでして、そうであるなら敬教の教義にとって、魔族による家族の何が問題であるかが改めて問わなければならないわけで、要するに、家族や一族という言葉の持つ広がり、使われ方の多様性が問題となってくるのです。例えば、マウクネを追悼し、立派な墓を設けた人間の家族なんてものは、歴史上幾らでも存在していたのです。魔族に養子として育てられ、その「父母」が死んだときに、嘆き悲しむ子供のどこにも疑似的なもの、「あえて」の部分やからかいの気持ちはないはずなのです。これは特に、後々に、敬教が向かい合うべき問題でした。「問題があるのは魔族同士の婚姻ではなく、我々が持つ教義の解釈の方である。」と、高名な敬教の僧侶は書き残しています。そして、このような認識のもとから、実際に、新しい敬教の活動が勃興するのです。敬教を原理主義から解放し、家族概念の拡充というか解体を目指し、政治に反映させようとする運動が興ります。ただ、このときはまだその時代ではありませんでした。一人の宗教的天才の誕生を待つ必要がありました。この講演では触れないかもしれませんが。というか、触れないでしょうが。
魔族が結婚する理由は、利害の一致であることが多かったのです。あとは縁(直訳すると「偶然」となる。)ですかね。人間のように、愛とか性愛とか、そういうものは魔族にはよくわからないのです。友情や戦友から婚姻に至ることもありました。魔族は動物と同一視されるのを嫌うのですが、動物のつがいは、性交がある分だけ人間に近く、魔族からは遠いと考えられていました。今では人間も動物だと考えられていますから、生物として動物のつがいと人間の婚姻が近いことに、皆さんは違和感はないかと思います。でも、そのことは、当時の魔族にとっては、魔族の非動物性を疎明する事実として重要視されていたのです。動物から離れれば離れるほど理性的であるという観念もありましたので、魔族は人間よりも理性的であるという言説も現れるようになります。このことが重要になるのは、まだまだ先の時代での話になりますが。
アビナ教と大地信仰の相互の影響は、婚姻制度だけに限ったものではありませんでした。当時の建築物などにもその影響が見て取れます。センタセがドマトンの山岳部に建てた山城の中に、テーマ・カーオ城があります。この城は、大きな岩の上に建てられた城ですが、岩の上に作られた階段や道、張り出し陣や側塔は、上空から見ると、城の居館を中心に点対称の構造となっています。魔族が好んだ朴訥な、窓や開口部の少ない、堅牢な山城であると同時に、アビナ教の好みも取り入れた城となっているのです。
アビナ教徒が得意とする線対称の建物も多く作られました。魔族は大地が好きですので、階を重ねる建物を好みませんが、対称的な塔や門、窓や屋根というのは、高い建物ほど見栄えがいいように思えたため、魔族は本能に反して高い塔や門、屋根を建造するようになりました。低い建物にも素晴らしいものがあります。例えばエプケカの、ザン・カオニキシ港湾局庁舎が有名かと思います。この建物も正面から見て線対称の構造をしています。また、魔物が好む、一階建て、分厚い腰壁、少ない窓、低い天井という要素が揃っています。飾りがなく簡素であるとも言われますが、厚くて白い漆喰が飾りなのです。水平方向への印象を見るものに強く与える、中世時代の名建築の一つです。また、センタセの森林管理署の本部は、五階層目まではコンクリートとレンガで重厚な造りとなっていますが、そこから上はガラスとむき出しの鉄骨が空に手を伸ばすように、軽やかに広がっており、これも魔物が好む見た目となっております。造ったのはアビナ教徒の建築家ですね。
樹暦1329年から1338年まで、センタセは内政に取り組みました。ササーマント川流域は、十分に農地が整備され、土地の権利関係も適切に管理されていました。農地の管理については、大地信仰の宣教師たる魔王軍が手を加えるべき個所はほとんどありませんでした。大地を最も有効に利用できるとうそぶいていた魔王軍の大地信仰でしたが、遠くからはるばる海を越えて来て土地を奪い、そこでやったことと言えば今までの農法の踏襲なのでした。ああでも、年貢はぐんと安くしましたよ。それだけが取り得のようになっていますね。
このころになると、各国の文化レベルには、極端な差がなくなっていたのです。ディグティニ、カウエナ、ワグ島のバイナスコは、魔族の国をよく訪れていました。最新の魔法や技術、鉱山などは隠されることもあったでしょうが、農法や法律、社会思想などは、隠しきれるものではありませんでしたので、アンテナさえ高く広く張っていれば、有益な情報が手に入るという時代でした。魔王軍の造幣技術も、いつの間にかミュカトーニャで模倣されていたと言われています。小指の国のコウプ大国で発明された染色技術は、センタセに伝わるまで七か月もかかりませんでした。中世における国際化が陰に陽に花開いた時期でした。
樹暦1337年、センタセ大陸には疫病が、フバーユには長雨が襲います。前線を支えるべき後方で飢饉が起こりつつありました。大地信仰にとってそれは絶対に避けるべき危機でした。前線の、ササーマント川の豊かな生産物は、フバーユなど後方に輸送されました。戦争など再開できるような環境ではありませんでした。
魔王軍の人魔の比率は相変わらず半々でした。十年の間で、戦争の形はそれほど変わってはいませんでした。空を飛ぶ魔物の有効活用もされていませんでしたし、武器や防具の性能も大きく変化はしませんでした。変化したのは攻撃魔法でした。敵国の攻撃魔法のことを話しています。明らかに戦場での使用が意識された、広範囲に広がる攻撃魔法が実用化されていました。抵抗魔法の重要性が、それこそ回復魔法と同じかそれ以上に増していました。魔王軍は、敵国の魔法研究の諜報活動を最優先事項として取り組んでいました。タモウィスシャフ王国の魔法研究所にはスパイを複数名送り込んでいました。魔法研究の場所は、仕方のないことですが、それまでの開放的な、陣舎の前の広場から、幾つもの鍵で閉ざされた扉の奥の、暗くて煙たい部屋へと追いやられてしまいました。私などは、古き良き時代の、通りがかりの人たちが魔法研究にいい加減な口を出し、野良犬が媒介をくわえて持って行ってしまう、あの雰囲気を懐かしく思うのです。平らにならした地面に、巻物を片手に白墨で描いた魔法陣が突然のにわか雨でかき消され、雨宿りの間に、お互いの考えを話し合うような、ああいう雰囲気を。例えばこういう詩を思い出すのです。
湯を沸かす間にコンパスを玩び
あなたとの会話に心も浮き立つ
たき火から立つ煙が大きく揺らぐと
風にかき消される陣を心配し
あなたは会話を切り上げる
私は一人腰壁に座り
顔を撫でるこの煙があなたの手ならと思うのだ
センタセは、センタセ大陸に残っていたアテドーに大きな権限を与え、敵国から入手した情報をもとに防御魔法の研究を推し進めました。もちろん、ディグティニやカウエナの魔法研究所にも人材を派遣していました。
敵国への工作も継続的に行っていました。タモウィスシャフ王国に協力する遊牧民族のそれぞれに対して、分断工作を行いました。しかしながら、彼らの連帯感というか、昔からの忠誠心というのは中々に見事なもので、この作戦はすべて失敗に終わりました。遊牧民族は、特に食料面からよくザンマイヤガサックを支えました。献身的とすら言える支援を継続的に行っていました。五年分の食料は、当然五年で尽きましたが、更に五年もの間、遊牧民族から、継続して首都の食糧庫の中へと運び込まれていたのです。
それでもついに限界が来ます。樹暦1338年、今度こそ、ザンマイヤガサックの食糧庫からは食料が尽きつつありました。この十年の間、魔王軍との間では小競り合いが続いていましたが、大軍同士が激突するという事態にはなりませんでした。タモウィスシャフ王国では、遊牧民族の宿営地が夜襲され、たまに首都には空から大岩が降ってきました。また、魔王軍を脅威に感じていたミュカトーニャやその周辺国は、自国の商人を経由してザンマイヤガサックに食料を放出し、この緩やかな籠城戦を支援していました。それでも食料と燃料は底をつきました。タモウィスシャフ王国は、当初の兵力を維持することができなくなっていました。タモウィスシャフ王国の王の名前をまだ言っていませんでしたね。青年王、ジニ・ジシーナスは、樹暦1326年、十五歳で王位に就きました。この年はサクホム三世が死んだ年であり、父であり前王のティム・ジニーナーシー二世が死んだ年でもありました。前王は、無謀なアンカーシャフ王国への進撃を決定した張本人です。自領をアンカーシャフ王国に荒らされた有力貴族たちの主張を制しきれず、誤った判断を下した王でした。ジシーナス王は、即位した瞬間から、魔王軍に対応せざるを得ない立場にありました。蛇のとぐろの中で孵化した雛でした。彼の王としての生活には、華やかな部分がほとんどなかったと伝わっています。王の時間のすべてが魔王軍との戦争のために費やされました。彼は自分の玉座を片づけさせ、エプケカから魔王を排斥するまでは安穏と玉座に着座することはしないと内外に明言しました。ジシーナス王は、十年もの間、逆に攻め込む機会もあったにもかかわらず、魔王軍とは直接対決しないという方針を崩しませんでした。臆病と評価されることを恐れず、前王と異なり、強硬派を制止し続けることができる立派な王でした。魔王軍では、この王を傾聴王というあだ名で呼んでいました。エウイーからの報告では、どんな地位のものが相手でも、必要とあれば座り、黙り込んで話を聞き続けるような王だったからです。魔王軍としては、攻めてきてくれた方が確かにやりやすくはあったのです。そして、攻めて来なかったとしても、それはそれで、時間が経てば経つほど、魔王軍の不利になることはなかったのです。傾聴王もそんなことくらいはわかっていたでしょう。時間をかければ、何か予想外のことが起こり、事態が豹変すると、そんなことを期待していたのかもしれません。例えばフバーユでの大規模な反乱や、ドマトン辺りに膨れ指の都市国家が攻めてくるとかです。これらはあり得る未来でしたが、実際には起こりませんでした。起こったのは飢饉くらいでしたが、これは一年で立ち直りました。傾聴王は若く有能でしたが、不運でした。前王が無謀な侵攻をアンカーシャフ王国に起こした時から、彼の命運は決まっていたのかもしれません。ハウスド・スドー・ボウジョセ先生は、その名著『ジニ・ジシーナス』において、傾聴王のことを、生まれた時代だけを間違えた王として評価しています。私もそう思います。傾聴王に限らず、生まれた時代を間違えたものは貴賤を問わず多くいるのです。私だってそうかもしれません。ボウジョセは、ジニ・ジシーナス王を愛してやまない学者ですが、贔屓のあまり、「ジシーナス王が十年もの時間を稼いだからこそ、アスタボスはゲクーと出会ってしまい、戦場で首をはねられ、センタセは滅亡したのだ。」と語っています。これは、まぁ、違うとも言い切れないのですが、過大な評価かと思います。歴史家がこういうことを言うべきではないとすら思います。しかし、でも、仮に十年早く、私がミュカトーニャに侵攻していたら、この大学ではビヒンシタ語が話され、学食の前あたりに私の銅像が立ち、私が玉座に座っている絵葉書の一つでも売られていたかもしれません。
センタセでは、前年の飢饉から立ち直り、戦争を再開する機運が高まりつつありました。樹暦1339年1月に、魔王軍はアグニャミー高地を越え、敵の首都へと進撃します。その兵力は二万人(凶)。この中には人間の傭兵も比較的多く混ざっていました。魔王軍は、相変わらず人魔混合の編成を組んでいましたが、このころには傭兵も使用するようになっていたのです。敵兵は、この十年で兵力を減らし続けていました。歴史学者は、このときのタモウィスシャフ王国の兵数を七千人強だと推定しています。
傾聴王は、ザンマイヤガサックの四重の城壁の奥へとこもりました。魔王軍は都市の壁を囲み、籠城戦に持ち込みました。壁の向こうからは矢が雨のように降り注ぎ、壁を貫通して、あるいは城壁の高い位置から攻撃魔法が飛んできました。空から偵察していた魔物は撃ち落とされ、壁に近づいた魔王軍はことごとく撤退を余儀なくされました。地面にトンネルを掘って壁を無効化するという作戦を試みました。魔王軍にはそのようなノウハウがなく、早々に失敗しました。竜が戦場に運び込んだ投石器と大石で、城壁やその奥の施設を破壊する作戦をとりました。これは効果があるように見えました。魔王軍は、慎重に攻撃を続けました。急ぐ必要は一切ありませんでした。魔王軍は、敵の兵糧が三か月程度しか残っていないことを知っていたからです。救援に来るであろう遊牧民族は、本当に食料を運び入れたいのであれば、城壁を囲む魔王軍をかいくぐる必要がありました。それは直接戦わざるを得ないということです。魔王軍にとっては望むところでした。あるとき、遊牧民族の中の無謀な氏族が、夜間、食料を積んだ馬車を走らせて魔王軍中を強行突破しようと試みました。この作戦は即座に失敗し、挑戦者は魔王軍に捕らわれ、殺されました。これ以来、遊牧民族は、遠巻きに、落ちていく首都を眺めるよりほかありませんでした。
傾聴王は二か月後に降伏しました。住民に本格的な飢餓がやって来る前に降伏したことになります。直前には強硬派との交戦がありましたが、特に語るほどのことはありませんでした。あったかもしれませんが、恐らく、そういう英雄的な行為の中には、あえて語ることなどないのです。英雄の行為と英雄的な行為とは異なるのです。英雄が好きな人は、英雄的なものも好きですので、ごちゃまぜにして、大抵は悲劇として語りたがるものですがね。大地信仰は悲劇が嫌いなのです。死ななくていい人間が死ぬからです。
傾聴王は賢明でした。彼こそ多くの人々を救った英雄なのですが、降伏後、戦後処理中に強硬派の残党に暗殺されます。これを魔王軍の仕業とする歴史家もどきがいますが、まともに一次史料も読めないものが口を出すべきではないのです。
私は傾聴王と会ったことがあります。傾聴王はまだ二十代と若かったのですが、その髪はすべて真っ白になり、顔や首筋には深い皴が幾つも刻まれていました。目も悪かったようです。手、声、そして何より威厳だけが、彼がまだ若い王であることを示していました。魔王軍は、傾聴王をドマトンの兄王のような待遇で迎えようと考えていました。つまり利用する気満々だったわけです。計画を台無しにされた魔王軍は、暗殺の首謀者を見つけ出し、これを極刑に処し、傾聴王は手厚く弔いました。完全に魔王軍の支配下に入っていたわけではなかったので、アビナ教の王族の流儀で葬儀は行われました。主催は魔王軍だったのですがね。
タモウィスシャフ王国の都市部では、王の親類による根深い支配が敷かれており、ザンマイヤガサックにはエプケカ等にいた有力者たちが多く避難していました。魔王軍は、タモウィスシャフ王の親類縁者が有する権限をすべて廃しました。彼らの一部は反発しましたが、多くはこの排斥を受け入れました。さらに一部の有能なものには、官僚としての地位が与えられました。アグニャミー高地から手の甲側の地域に暮らす遊牧民族たちは、一部が魔王軍に抵抗し、一部がその支配を受け入れました。さらに一部は、遊牧という先祖伝来の生活様式を捨てて他国へと移住しました。センタセのような神権政治かつ官僚制を敷く国が、複合体としてのタモウィスシャフを御することは難しいように思えました。不満分子を懐柔できたはずの傾聴王を失ったことは痛手でした。それでも、タモウィスシャフの支配は、フバーユと比べれば比較的穏当に進んだことになっています。ユーイ・トスカー・ノボーヌヌ先生の『中世タモウィスシャフの政治と文化』によるとそうなっています。魔王軍の深いアビナ教理解と大地信仰に基づく戦後処理の一貫性が原因にあげられています。タモウィスシャフが都市内魔族に関して免疫を持っていたことも原因の一つとしてあったでしょう。
魔王軍は遊牧を認めない、農耕を至上とすると思われていたようですが、この誤解は直に解けました。彼らの住んでいた地域は農耕に向いていませんでしたし、フーアプフの全面協力を得ていた魔王軍は、彼らの馬にもそれほど興味はありませんでした。走る速さは馬の方が優れていますし、人間兵を乗せることもできるので時に重宝するのですが、糧秣が必要なため、魔王軍の兵站運営に沿わないと判断されたのです。もちろん戦場で活用する気もありませんでした。
ザンマイヤガサックの周辺は、農耕地として適していました。戦火により荒れることはたびたびあったのですが、今でも美しい畑が広がっています。あの地方には魔族の形をした案山子を畑に設置する習慣がありまして、今でもそのようなことをしています。七百年の時を越えて、金色の実りの中、真っ白いウェアウルフが黒いカラスを追い払っているのです。この前、雑誌の特集でその案山子について書かれた記事を読みまして、そこにあった写真が、私の記憶の中のザンマイヤガサックの畑の記憶と寸分たがわぬものでして、思わず嬉しくなりました。七百年前にも写真がなければ説明がつかない出来事だと、誰かに言いたくなったのですよ。それにしても、動物扱いされることを嫌う魔族に、動物を追い払う案山子の役目をさせるというのは、なかなかもっともなことのように思えます。人間の形をした案山子は、夜には眠ってしまいそうですよね。夜行性の動物を追い払えないのではないでしょうか。
魔王軍に抵抗した遊牧民族は、傾聴王の撤退戦を模倣し、魔王軍に抵抗しました。魔王軍は、小規模の騎馬兵を適当にあしらい、タスワス平原へと追い出しました。次の標的は、タニーアンです。カウエナの世界樹を遠方から実効支配していた、あのタニーアンです(カウエナの世界樹は、第一指間部の高山地帯にある。タニーアンは魔族指の基節骨付近に位置するため、カウエナからは距離がある。)。魔法研究の最先端であり、人と都市内魔族の比率が当時すでに9:1という、多くの魔族が生きる国です。国家魔法使いになるための、ソードと呼ばれる過酷な試験制度を二百年にわたって導入していました。人間の魔法使い見習いは試験勉強で廃人になり、魔族の魔法使い見習いも試験勉強で廃凶になりました。魔法省には試験に合格した約三千五百人(凶)の国家魔法使いがおり、国だけではなく左手の大陸全体の魔法研究の礎となっていました。
有名な魔法使いは幾らでもいました。14枝世以前の魔法使いに限っても、超遠距離魔法の理論を発明し、実用化しないまま夭折したチズ・チズ・ヤーカシー。魔法の物質化仮説を提唱し、百五十年後にその理論が証明された小人の大魔法使い、コフィ・ギャカー。魔法を封じる魔法を発明したトロルのケケオパ・タツ・カサンワッ。世界で初めて魔法反射に成功したエッコ・サー・ターヌアモ。魔法使いの学校を各地に開き、多くの弟子を育てた「校長」、モトイノ・ヘキャキニ。魔法省のトップとして魔王軍の侵攻を食い止めたハスダン・ギム・キャメッチと、魔族として唯一、将軍の地位にいたバイナスコ、ゴッズ・オボウーイ、そして魔法使い一族の家長にして老将軍のウェホウト・コウン・マー・デミニコウ。最期に、自身も国家魔法使い――しかも主席――であった国家元首、トマサン・サカネ・ポジェミニ。たくさん名前を出しましたが、思い出深い名前は本当はまだまだあるのです。ゲクーと旅をした「教授」も、元々はタニーアンの大学で魔法学の教授をしていた国家魔法使いの人間です(サスナ・コートストンのこと。)。タニーアンは、国土こそタモウィスシャフ王国ほど大きくはないですが、大陸有数の商業国家であり、昔から、多くの人と魔族と物と金が行き交っていました。大きな市が定期的に開かれ、各都市の四十七の名家が商業等の利権を握り、陸と海の販路を管理していました。人口は多く、傭兵も常備兵も数を揃えており、訓練が行き渡っていました。軍には都市内魔族も含まれており、魔王軍と似たような戦術で運用していました。人魔ともに高度な魔法を容易に使用し、しかもちゃんとした海軍まで備えていました。さらに恐ろしいことに、タニーアンには、多くの鳥人が都市内魔族として長く暮らしていました。鳥人の村があり、町には居住区域がありました。町には鳥人の協会があり、村の鳥人も招いて月に一度の会合を開いていました。町の鳥人は、手形の配達員から大臣まで、幅広い職に就いていました。もちろん常備軍に属する鳥人も多くいました。鳥人の部隊が編成され、空中から魔法や矢を放つことが作戦に組み込まれていました。鳥人は、ペガサス(空を飛べる馬の形をした魔族。必ずしも羽は生えていない。)を御して荷を遠くまで、迅速に運ぶことができました(ただしそれほど重たい荷物は運べなかった。)。魔王軍の後方を奇襲し、船を沈めることさえしたのです。それどころか、戦争の初期には、魔王軍の前線の兵站部隊が襲われ、その責任者の首が私の宮殿のバルコニーに転がっているということさえ起こっています。ご苦労なことです。敵の首を抱えて空を飛び続けるというのはどんな気持ちなのでしょうね。
樹暦1341年、魔王軍は、タニーアン攻略に動き出します。攻略前には頻繁に会議を行いました。敵の兵力は四万人(凶)。くわえて、後方のミュカトーニャなどの国家から援軍がやってくる可能性がありました。ミュカトーニャとタニーアンは、それほど仲のいい間柄ではなかったのですが、魔王軍は左手の大陸諸国の脅威と捉えられて久しかったのです。この二国は樹暦1337年ころに同盟を結び、協力を惜しまないことを内外にアピールしていました。また、タニーアンの場合、単純な兵の数より、国家魔法使いの方が恐ろしいと言うこともできました。十人(凶)の国家魔法使いが山城を守っていれば、魔王軍は攻略できないと言われました。戦争初期には、実際、そのとおりになった戦場もあったのです。
タニーアンの弱点はどこにあったのでしょうか。国土の狭さは弱点かもしれませんが、国土が狭いので、どこを攻めてもそれなりの規模の軍がやってきて、魔王軍は追い返されました。農地の少なさは、大地信仰からすると弱点に見えました。確かにタニーアンは、当時としては自給率が低い国であったと言われています。周辺地域から食料を購入していました。タモウィスシャフ王国の大穀倉地帯は、魔王軍が抑えていました。魔王軍は、当然の処置として、ミュカトーニャ側への穀物等の輸送を禁止しました。そのために、穀物商たちに対して過剰な恩恵を与えたりもしました。後から知ったことですが、というか、歴史を学んで知ったことですが、このときの輸出規制は、あまり守られていませんでした。『樹暦1340年代のセンタセにおけるタニーアンへの穀物の輸出規制の影響について』という論文があります(著者はイヤン・カン・モウブアン。)。それによると、このときの輸出規制により、タニーアンへの穀物の輸出は、例年の八割強となっていたようです。つまり、それほどの効果はなかったのです。この論文の作者によると、輸出規制を守っていたのは、非アビナ教の商人だけだったのではないかとのことです。まったくもって、恩恵の与え損だったのです(アビナ教は、敵対する一方に武器を売るのであれば、もう一方にも武器を売るべきだという教義がある。戦争時の輸出規制のような不均衡をアビナ教徒は嫌う。)。数百年も前のことなのに、知らなきゃよかったと思ったくらいです。恩恵に破顔一笑し、揉み手する商人たちの顔を今も思い出せます。その裏でアビナの教義に忠実に、秘密のルートを経由して、せっせと穀物等を敵国へと輸送していたのですよ。
くわえて、魔王軍は、ミュカトーニャやその周辺地域からタニーアンへの物資の流入を抑えることができませんでした。海上輸送についても同様で、魔王軍はむしろ、海上での接敵を可能な限り避けていたくらいでした。兵糧攻めという選択肢はありませんでした。
魔王軍は搦手も好んで用いるのですが、タニーアンについては権謀術数も上手くは行きませんでした。アンカーシャフ王国に用いたやり方が、魔族指の各国に知れ渡っていたのです。逆に、魔王軍がタニーアン側の計略を警戒しなければならないくらいでした。
タニーアンとの戦争は、二十年にわたって断続的に行われました。その間には、有能な国家元首もいればそうでない国家元首もいました。調和を乱す将軍や魔法使い、貪欲で愚鈍な大臣や行政官が幾らでもいたのです。軍には派閥がありましたし、蜘蛛と蜂の間柄(慣用表現。「犬猿の仲」の意味。)の将軍たちがいました。魔法学校にも学閥があり、違う学校同士では、うっすらと対抗意識というか、敵対意識に近いものすらあったのです。また、都市内魔族は、主にセンタセのせいですが、以前と比べて危険視される存在となっていました。魔王軍のスパイと疑われた都市内魔族も少なからずおり、彼らの都市への忠誠心には疑念の一つもあったでしょう。付け入る隙がまったくなかったとは思いませんが、事態を変えるくらいの有効打はありませんでした。むしろ逆に、フバーユの不穏分子に武器や資金や魔法使いを提供され、反乱の火を焚きつけられる始末でした。挙句の果てにはセンタセ大陸内でも反乱を起こされてしまいます。これは後で話します。嫌ですけど。
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